ひとりで… (時をこえて–信仰篇 2022/10/9)

 信仰の人、というときっとあの有名な「アブラハム」のことを思い出すこと人が多いことでしょう。

信仰によって、アブラハム(当時アブラム)は、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。(ヘブル 11章8節)

アブラハムが神の召しを受けた時、彼はひとりで受けました。イサクを捧げるように導かれた時もそうでしたが、神の御声を聞いて、それを信じ、そして従うということは、アブラハムひとりの選択、信仰、行動でした。それは神様と彼との間のことで、神はアブラハムひとりに対して語られたのです。彼は、後に大いに祝福され、彼に従う者達も財産も増え、後に彼の子孫は大いに増えましたが、祝福し、強くし、増し加えるのは神のわざでした。アブラハムのわざは、神と神の御声を信じて、ひとりでも従っていったことです。大多数がそれをするから、大多数の中に紛れて行ったのではありません。人生において、どんな決断をするのか、これは、その人と神様との関係です。賢い決断のために、助言を聞いたり、信仰の本を読んで学ぶこともいいでしょう。しかし、自分の下した選択や決断の結果と共に生きるのは、その人自身です。後で助言した人をさがし出して、「あなたがこう言ったから騙された」と言っても、その人はもういないかもしれません。しかし約束をされた神に従ったのであれば、その責任もまた祝福も永遠の神によります。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた。 (イザヤ51章2節)

神の約束は、確かなものです。子孫を増し加えると約束した神の約束は成就しました。アブラハムが死んだあとでも、神様は、その子孫を増やすと言われたその言葉に忠実でした。

主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。 主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。 わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、 主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。 (申命記 32章9-12節)

アブラハムの子孫は、エジプトに寄留し、奴隷の状態から逃れて、荒野を旅することになりましたが、その困難な道を、ただ神を頼りに進む必要がありました。神はアブラハムに約束された約束をお忘れにならず、神ひとり、このアブラハムの子孫を導かれました。

私たちが神を信じるという行為は、ひとりでなされ、神もわたしたちに対して救いのわざをなして下さる時、ひとりでなして下さいます。他の天使らに任されないで、ご自身がいつくしんで悩みの中、共に歩んで下さいます。それは神様が、人との関係、愛の関係をそんなにも尊んで下さっているからです。私たちは大切なものを簡単に他の人によほどのことでないと任せません。しかし、天の父は、ご自分のひとり子を赤ちゃんとして地上に生まれさせ、この世の人々の救いのため使わされまた。罪ある世は彼を十字架にかけて殺してしまいましたが、それを通しても神の約束は成し遂げられることになりました。

神様が、ユダヤ人と異邦人の救いをもたらすという約束も、神様おひとりで、成し遂げて下さいました。その極限の愛を私たちひとりひとりに示されるために、私たちひとりひとりの罪のゆるしのために、神のひとり子イエスは十字架にかかって死なれました。イエス様を信じる者にとって、その体験、イエス様が自分のために死なれたということを信じて受け入れることは、非常に個人的なものです。そしてそれは自分ひとりが、わかることです。他の人が説得しても、反対しても、それは個人の心で、わかることです。

イエス様を信じて、またその愛に応えて歩むことは、本質的にひとりの行為です。イエス様とあなたとの間のことです。

本当につらい時、人々に見捨てられたように感じる時でも、決して離れず捨てることのないひとりの方、神のひとり子イエス・キリストがおられます。他の欺く霊や堕落天使、光の天使に偽装した天使どもではなく、イエス・キリストの御声を聞いて下さい。

主が、あなたを召して罪のわだちの世界から主についてくるように言われた時、その新しい世界、つまり主と共に歩む新しい人生に踏み出すのを恐れないでください。イエス様はいつも共におられ、決して離れず捨てないと約束しておられます。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 (マタイ 11章28節)

…主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 (ヘブル書 13章5節)

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 (第二コリント 5章17節)