すべての人のための光

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

(ヨハネ1章9~11節)

この聖句の前の8節では、バプテスマのヨハネは「光ではなく光についてあかしをするために来た」とあります。それに対して、ここ9節では「まことの光が世に来た」と言っています。この世に来た光こそ、救い主、イエス・キリストです。

そしてこの光は、その時代のイスラエルの民、ユダヤ人のためだけでなく、全ての時代の全ての国の人々を照らす光であるのです。

これは、すごい宣言です。そして再び、「世は彼によってできた」とイエスによる世界の創造が語られています。

ここで言われている「世」とはギリシャ語でoikoumene(イキューミニー)で、人が居住している世界、またその人達を指します。

しかし、残念ながら、自分を創って下さった神が来られたというのに、造られた人間たちのほとんどがそれをわからずにいました。これは神にとっては本当に悲しい状態だと思います。しかも、その不信仰は現代にまで続いているのです。

アダムとイヴが罪を犯した時、彼らは、神を避ける者になってしまいましたが、罪を犯す以前は、おそらくアダムとイヴは神と親しく語らい、交わりをもっていたのだと思います。

彼ら(アダムとイヴ)は(罪を犯した後)、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

(創世記 3章8~10節)

造られたものについてすべて何でも知っている方は、それを造った方、造り主です。

コンピューターでも、車でも壊れたら、特に複雑な部分がうまく作動しなくなったら、その製品の製造元で修理してもらうことになります。

それと同じように、私たち人間の体や心の問題をすべてご存知で真に理解し、その解決をすることの出来る方は、創造主なる神だけです。

その主の差し延べた手を拒むことは、自分で解決の道を封じるようなものです。

アダムとイヴは、自分たちに近づいてくる神の足音を聞き、「神の顔を避けるために、園の木の間に身を隠した」のです。彼らは「どこにいるのか」と神から尋ねられたとき、「裸だったので、恐れて身を隠したのです」と言いました。もともと「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記 2章25節)のにです。

自分の問題や犯した間違いを隠したいと思うのは、それがもともと自分の神への反抗、不従順、つまり罪を犯したことが露わにされるのを恐れているからです。そして「裸であることを恐れる」ということは、その後の人類にも受け継がれた特徴とも言えます。言い訳をし、嘘をつき、隠すことが人の常になってしまいました。世は、このような不従順の結果、神から遠く離れて、あらゆる問題と悩みの糸がもつれ合ってしまっている状態です。

そのような罪に縛られた状態から解放してくださるために世に来てくださったのがイエス・キリストなのです。そしてその救いは、ただ彼を信じ受け入れるだけでいただけるのです。しかし、その問題を抱えている状態を認めず、隠蔽し続けているなら、助けようにも助けることができません。

11節に、「彼(イエス)は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」とあります。「自分の民」というのは、イスラエルの人々のことですが、イスラエルは特別、神が世界にご自身の存在と愛を現すために選んだ民でした。

神は、イスラエルの先祖であるアブラハムに、彼の子孫は神の祝福によって栄えると約束されました。またアブラハムの子孫であるイスラエルの民が、エジプトで苦役を強いられていた時、神はモーセを指導者として立てて、海を分け、荒野で天からのマナを食べさせて、約束の地であるカナンに導かれました。

次の聖句の引用は、モーセがイスラエルの民に、主がいかにイスラエルの民を、世話し、導いてこられたかを思い起こさせて語った言葉です。

「主の分はその民であって、ヤコブ(イスラエル)はその定められた嗣業である。

主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。

わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、 主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。

主は彼に地の高き所を乗り通らせ、田畑の産物を食わせ、岩の中から蜜を吸わせ、堅い岩から油を吸わせ、

牛の凝乳、羊の乳、小羊と雄羊の脂肪、バシャンの牛と雄やぎ、小麦の良い物を食わせられた。

またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。」

(申命記 32章9~14節)

数々の預言者を通して、神はこのイスラエルに対して、メシア(=キリスト=救い主)が現れると告げていました。そしてついに彼らを照らすまことの光、メシアがやってきたのに、彼らは受け入れなかったのです。

主イエスは、神のひとり子として、自分の民を救うためにやってきたのに、拒まれ、悲しまれました。

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

(マタイ23章37~38節)

このように結局、当時のイスラエルの民、ユダヤ人たちは、エルサレムでイエスを十字架にかけて殺してしまうのですが、神は、そのような不信仰さえも用いて、ご自身の人類の救いの業を完遂されました。イエス様が十字架で流された血は、全世界の人の罪の赦しのためだったのです。

ちなみに、イエスさまのこの預言の通り、エルサレムは、イエス様を十字架につけてから、その40年後にローマの軍隊によって滅ぼされてしまいます(AD70)

もし、イエス様が、預言の成就としてこの地上にお生まれになった時、馬小屋ではなく王宮で生まれ、大工の息子ではなく、王子として生まれたら、この世の大勢の人が受け入れたことでしょう。しかし、神の御計画は異なりました。イエス様は信仰によって、ご自分が世の救い主であることを認める人たちを救う御計画をもっておられたのでした。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。

(ヘブル書 11章6節a)

…キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る…

(第二テモテ 3章15節)

互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

(ヨハネ 5章44節)

どうか、真理に対して目が開かれ、このまことの光であるイエス・キリストを、信じ受け入れることができますように。私たちの信仰を強め、この世のはかない名声や富によって、目を曇らせてしまうことがありませんように。