言は肉体となり

そして言(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

(口語訳 ヨハネ 1章14節a)

ことば(ロゴス)は神でした(ヨハネ1章1節参照)。宿ったというのは神が人となってこの世に来てくださったということですが、「神のひとり子としての栄光に満ちていた」とあるので、人となっても神としての性質を保たれ神の栄光で輝いていたのです。

口語訳では「言は肉体となり…」となっていますが、新改訳Ⅳでは「人」新共同訳では「人間」となっています。原語は「肉」です。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

(新改訳Ⅳ ヨハネ1章14節a)

み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。

(新共同訳 ヨハネ1章14節a)

神がロゴス(概念、理念、思い)として呼ばれ、そのロゴスが、肉となったと語られているこの箇所は、聖書の中でも、重要な真理を伝えている箇所の一つです。 神が人となって世に来て住まわれたことには、もちろん理由があります。

それは、迷子になった子羊のように、さ迷い苦しんでいる哀れな人間たちを救うため、また神がどういうお方であられるのかを教えるためでした。そして人間になられたイエス様は、私たちと同じように悲しみ、苦しみ、また喜びを共にしてくださいました。それによって、人は真の意味で、神がどのような方であるか理解することができたのです。

ヨハネ第一の手紙の初めには、こうあります。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について–…すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

(第一ヨハネ1章1,3節)

このことばなる神(ロゴス)、イエス・キリストは、私たちが神との交わりに与かることで、私たちの喜びが満ちあふれるようになるために、来て下さったのです。

「わたしたちのうちに宿った」というところは、原語では「わたしたちの間に天幕を張った」となっています。天幕とは簡単に言えばテントのことで、イスラエルの民が約束の地に入るまでの40年間、神に導かれながら荒野を移動して使った住居のことです。

そのイスラエルの民の宿営の真ん中には神の住まう幕屋が造られました。神はいつも彼らと共におられました。しかし、祭司以外は幕屋の聖所に入る事はできず、さらに一番奥にある至聖所には、大祭司が年に一度、贖罪の日にだけしか入ることが許されていませんでした。

しかし、その神であるイエス様が自ら謙(へりくだ)り、人となって私たちの所に来て共に住んでくださったのです。それはいかに大きな驚くべき恵みでしょう。

最近、今は亡き村の一先生のことを聞きました。この先生は、この地域の学校の校長先生をしていた人で、私の父親が生徒であった時の教師でもありました。その人は、村の親方と呼ばれていた家に、養子になって育ち、頭の良い人だったそうです。親方は優れた教育を村の子供たちに施す必要があると思い、わざわざこの人を他の村から養子にもらったとのことです。

私の今いる小さい部落には、いわゆる先生と呼ばれる人が八人もいました。そして今は、近隣の村や町の学校の先生や校長を務めて退職していたり、また亡くなった人もいます。

おそらく、皆この一人の勉学熱心な書生が教師となり、それらの八人だけではなく、この小さな村や近隣の地域の教育に多くの影響を及ぼし、地域の人たちの啓蒙に貢献したに違いありません。彼は、養子となり、勉学に励み続け、他の人に教育を施す者として一生を終えたのです。

以前、この先生が私の母校中学の校長であった時、もう彼の退職間近の最後の年であった時だったと思いますが、何かの理由で、私はこの母校を訪れる機会があり、校長室に入ってこの先生と会話を交わした時がありました。その校長室のデスクの上に、英語の教科書と、ノートが置かれていました。

私は、まさか校長先生が、英語を教えているわけではないだろうに、どうして英語の教科書とノートが開かれているのか尋ねました。するとこの白髪の先生が答えてくれました。

「今、生徒が何を学んでいるか、忘れないようにです。老いてしまって、生徒が苦労して学んでいるものが何かわからないようになったらいけないので」という答えでした。

その地域の人々に影響を与える最も効果的な方法とは、そこに一緒に住んで、そして彼らの身になって共に生きることであると、つくづく思いました。 

主イエス様は神の愛を示すために、低い人間の次元にまで降りてきてくださり、その愛に生きられました。そして忘れてはならない大事なもう一つのことは、肉の体をもった人となられたのは、人間の罪の代価として捧げる生贄(いけにえ)となるためであったのです。

その深い愛に感謝します。

キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。

(ガラテヤ書 1章4節)

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

(第一ヨハネ 4章9~10節)