あなたのメール
終末論に関する諸問題 CLXXVI
ロバート・D・ルギンビル博士 著
[2026年10月3日掲載]
からの抜粋翻訳
質問 #1:
ルギンビル博士、こんにちは。
今日は掲載日だと分かっていますので、このメールへの返信は、お時間ができてからで構いません。
私はこれまで何年にもわたって、Ichthysでダニエル9章24-27節(七十週)についてかなり詳しく学んできましたが、それでもまだすべてを理解しているとは言えません。27節と26節の一部は理解していますが、それ以外のところはずっと難しく感じています。この箇所を説明していただけますか。ちょうどダニエル書を読み終えたところですが、これは今でも理解するのに苦労している「難しい」箇所の一つです。もしかすると、私が考えすぎているだけなのかもしれません(数字のところでつまずいているのだと思います)。実際には、自分が思っているより単純なのかもしれません。
また、ダニエル11章45節-12章1節についてもお尋ねしたいです。11章45節がハルマゲドンにおける獣の滅亡を描いているという先生の解釈に、私も同意します。しかし、12章1節は大艱難期の開始を描いているのに、なぜ「その時」と言っているのでしょうか。この書き方だと、ダニエル11章45節で「その終わりに至る」人物は、反キリストではなく、大艱難期の前か、その中間点で滅ぼされる別の人物であるかのように聞こえます。もちろん、ここで意味されているのが反キリストであることは分かっています。しかし、反キリストが滅ぼされるのはハルマゲドンの時なのに、なぜこの節はこのような書き方になっているのでしょうか。ダニエル12章1節が、獣の滅亡より前の出来事に戻っていることは分かります(聖書預言ではこれは珍しいことではなく、特にダニエル11章ではそうです)。しかし、なぜ「その時」という表現なのでしょうか。
キリストにあって
返信 #1:
もちろんです。
ダニエル9章24-27節:
(24) あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、反逆を終わらせ、罪をその極みに至らせ(すなわち、背教をその極みに至らせ)、不義を贖い、永遠の義をもたらし(すなわち、キリストの救いの御業)、幻と預言を封じ、至聖所に油を注ぐためである(すなわち、御国が到来するためである)。
この節はこの預言を導入するものであり、メシアが再臨される前に起こるすべてのこと(その大部分は艱難期に起こります)についてのすべての預言が成就するために、これが書かれた時点で、イスラエルの時代に合計でどれだけの期間が残されていたのかを説明しています。
(25) それゆえ、知って悟りなさい。[エルサレムの再建を]中止せよとの命令が出されてから(紀元前485年頃:エズラ4章6-23節)、そしてエルサレムの再建まで(その42年後の紀元前443年頃に始まり、完成までさらに7年を要した。エズラ7章11-28節; ネヘミヤ1-6章参照)、君であるメシヤまでには、七週(すなわち、その命令から再建まで)と六十二週(すなわち、再建から紀元前2年頃のキリストの誕生まで)がある。[エルサレムは]再び人が住むようになり、街路(すなわち、居住区域の再建)と防備(すなわち、軍事的な再建)をもって再建され、困難な時代にも[その状態が続く](たとえば、アンティオコス・エピファネスによる占領)。
これらの週(字義的には「七」)は、年を単位とする週です。ここでは二つの期間、すなわち7週(49年)と62週(434年)に分けられており、最後の<一週の>7年、すなわちユダヤ人の時代の最後の7年間となる艱難期は、ここでは除かれています。7週はエルサレム再建に関わる期間であり、62週はその再建から私たちの主がこの世に来られるまでの期間です。ダニエルが残りの期間をこのように二つに分けて示された理由は、再建の期間をその中に含め、それによってこの預言が何を指しているのかを理解するための基準点を私たちに与えるためです。また、この間の時代に起こる困難(マカベア時代)についても、前もってその一端が示されています。
(26a) そして六十二週の後、メシヤは断たれ、何も持たなくなる(イザヤ53章8節参照)。そして、やがて来る君(すなわち、反キリスト)の民が、都と聖所の両方を滅ぼす。
上の箇所は、紀元33年にキリストが拒絶された後、紀元70年にローマ人によってエルサレムが滅ぼされたことを指しています。
(26b) そして彼の終わりは洪水とともに来る(すなわち、ハルマゲドンにおいて彼の軍勢が「洪水のように押し流される」こと。ダニエル11章22節; ナホム1章8節で同じヘブル語 sheteph[שטף]が用いられていることを参照)。そしてその終わりまで戦争が続く――[恐るべき]荒廃が定められている。
26節前半の「やがて来る君」(反キリスト)の民とは、ローマ人でした/です。そしてすぐ上の26節後半では、預言は一気に艱難期へと飛びます(預言的短縮法の一例。「預言の短縮遠近法」<リンク先ファイル/A5版印刷本「来たる艱難期 第一部」の62頁-を参照ください>を参照)。
(27a) その時、彼(すなわち、反キリスト)は、[残された]一週の間(すなわち、第70週である艱難期)、[イスラエルの]有力者たちと契約(または「盟約」。ヘブル語 ברית, beriyth)を確かなものとする。しかし、その週の半ば(すなわち、艱難期の中間点の直前)に、彼は犠牲と供え物をやめさせる(すなわち、モーセとエリヤを排除し、神殿での儀式を中断させる)。
ここで、反キリストとイスラエルとの関係についての詳細が示されます。ここから、残された一週が確かに艱難期、すなわち預言的短縮による空白期間が終わるまで始まらない7年間であることが分かります。獣はイスラエルと条約を結びますが、「週の半ば」にそれを破り、その直後に最後の42か月である大艱難期が始まります。
(27b) そして[彼の]忌まわしい行いが極みに達するため、彼は荒廃(すなわち、神から離れ、疎遠になること)を引き起こし続ける。そしてついには、定められたものが、この[神からの]離反と反逆を助長するその典型であり原因である、荒廃を特徴とする者(すなわち、獣)の上に注がれる時、終わりが来る。
上の最後の部分は、大艱難期と、その結果として起こる「大背教」を特徴づけています。
このいずれについても、どうぞ遠慮なくまたお尋ねください。Ichthysでの主な参照箇所は、来たる艱難期第 3部Bの「反キリストの起源」の項<リンク先ファイルは12頁-/A5版印刷本「来たる艱難期第3部Bでは25頁-を参照下さい>です。
ダニエル12章1節についてですが、「その時」とは、「その期間内」という一般的な意味での表現であり、ここでは特に、「その期間全体の初めに」という意味です。すなわち、7年間の後半である大艱難期のことです(黙示録12章7節以下の後の期間に相当します)。ですから、ダニエル12章1節は、最後の42か月の初めに戻っているのです(これは、すでに述べられた出来事について、創世記2章5節以下でより詳しく説明されているのと同様です)。
イエスにあって
ボブ・L.
質問 #2:
ルギンビル博士、こんにちは。
では、私の理解が正しいか確認させてください。434と49を足すと483になります。エルサレムの再建を中止せよとの命令が出されてからキリストの誕生までが483年で、それによって紀元前2年(キリストの誕生)に至るわけですね。エルサレムの再建を中止せよとの命令が出されてから、その再建が完了するまで(再建はその命令から42年後まで始まらず、完成まで7年かかった)が49年。そして、その完成からキリストの誕生までは434年ということですね。
62足す7は69です。その二つの後に来る艱難期が第70週です(教会時代を飛び越えて、一気に艱難期まで進むわけですね)。十字架の後の二千年間は教会時代であって、ユダヤ人の時代ではありません(したがって、艱難期を除けば、その期間はユダヤ人の時代には含まれません)。しかし、艱難期はユダヤ人の時代と異邦人の時代の両方に数えられるのですね。
ただし、紀元70年のローマ人によるエルサレムの滅亡は教会時代に起こりましたが、非常に重要な出来事であるため、やはり言及する必要があったということですね。
ここまで、私はすべて正しく理解できているでしょうか。
ダニエル12章1節については、それでよく分かりました。ありがとうございます!
主の恵みと御力にあって
返信 #2:
「異邦人の時代」とおっしゃっているのは、「教会時代」という意味ですね? また、二つの時代(ユダヤ人の時代と教会時代)の最後の7年間が重なるというのは、私が提示している解釈においてのみそうなる、ということもすでにお話ししました(もし重ならないのであれば、時系列はさらに7年先になります)。
エルサレムの滅亡は、紀元70年にも起こり、また艱難期の終わりにも起こる出来事です。そして、私たちの主も同じように、この出来事を二重に扱っておられることが分かります。次の箇所もまた、二つの滅亡の両方に当てはまることが分かります。
「その時、ユダヤにいる者たちは山へ逃げなさい。都の中にいる者たちはそこから出なさい。田舎にいる者たちは都に入ってはならない。それは、書かれているすべてのことが成就する、報復の日々だからである。しかし、その日、身重の女と乳飲み子を持つ女はわざわいである。地には大きな苦難があり、この民には御怒りが臨むからである。彼らは剣の刃に倒れ、あらゆる国々へ捕虜として引かれて行く。そしてエルサレムは、異邦人の時が満ちるまで、異邦人に踏みにじられるであろう。」(ルカ21章21-24節 /NKJV訳)
イエスにあって
ボブ・L.
質問 #3:
ルギンビル博士、こんにちは。
ありがとうございます! マタイ24章を思い起こさせます。
話題を変えますが、数年前、愛する人たちを救うために、主への信仰を否定する「ふり」をすることが罪になるかどうかについて、先生に質問したことがあったと思います(「信仰を否定しなければ、彼らを殺す」といったような状況です)。実は昨日の夕方、職場で話をしていた少人数の信者たち(三、四人ほど)の間で、この話題が出ました。もちろん、これは仮定の話だということは分かっていますが、少し違った角度から、もう一度質問したいと思いました。そのうちの一人は、自分の信仰について嘘をつくこと(愛する人たちを救うために信仰を捨てたふりをすること)は、必ずしも間違いでも罪でもないのではないか、と言いました。ラハブも二人の斥候を救うために嘘をついたからです(彼は「蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」という言葉にも触れていました)。しかし私が最初に思ったのは、自分の信仰について嘘をつくことと、二人の人間がどこにいるかについて嘘をつくこととは、別のことではないか、ということです(これはすべて、獣の刻印が関係していないことを前提としています)。他の人々を救うために、自分の信仰について嘘をつくこと(実際にはキリストへの信仰を捨てていないのに、捨てたと言うこと)は罪になるのでしょうか。それとも、これは状況に応じて判断すべき適用上の問題なのでしょうか。私の直感では、決してそうすべきではないと思うのですが、その人が何を言おうとしていたのかも分かります。
キリストにあって、
返信 #3:
「自分の信仰について嘘をつくことと、二人の人間がどこにいるかについて嘘をつくこととは、別のことではないか」という点について。そのとおりです。
あなたは霊的に健全な常識を働かせています。
これは重要な問題です。聖書は、刻印についても、キリストを否定することについても、非常に明確に述べています。
これは信頼すべき言葉である。
もし私たちが彼と共に死んだなら、
彼と共に生きるようになる。
もし耐え忍ぶなら、
彼と共に支配するようになる。
もし彼を否むなら、
彼もまた私たちを否まれる。
もし私たちが真実でなくても、
彼は常に真実であられる。
彼はご自身を否むことができないからである。
(第二テモテ2章11-13節 /NKJV訳)
ラハブの例のように、悪い人々に対して真実をそのまま告げないことが許される場合は確かにあります。しかし、イエス・キリストを代表することや、主に対する私たちの信仰に関しては、そうではありません。このような理屈で正当化し始めれば、獣の刻印を受けることさえ正当化する誘惑に陥りかねません(「本心ではそういうつもりではなかった/本当は違うことを思っていた」といった具合に)。
第三の御使いが彼らに続いて、大声で言った。「もしだれでも、獣とその像を拝み、その額または手に刻印を受けるなら、その者もまた、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた神の憤りのぶどう酒を飲むことになる。そして、聖なる御使いたちと小羊との前で、燃える硫黄によって苦しめられる。その苦しみの煙は永遠に立ち上る。獣とその像を拝む者、またその名の刻印を受ける者には、昼も夜も休みがない。」ここに、神の戒めを守り、イエスへの信仰を保つ神の民の忍耐が求められる。それから私は、天からこう言う声を聞いた。「書き記せ。今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」「しかり」と御霊は言われる。「彼らはその労苦から休むことができる。その行いが彼らについて行くからである。」(黙示録14章9-14節 /NIV訳)
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #4:
ルギンビル博士、こんにちは。
たとえ刻印が関係していないとしても(つまり、仮に艱難期以外の時に起こることであっても)、自分の信仰について嘘をつくことは、やはりすべきではないと思います。ですから、先生のおっしゃることに全面的に同意します。そもそも、他の人を救うために自分の信仰について嘘をつくことなど可能なのでしょうか。そして、キリストを否むことなくそのような嘘をついた場合でも、それは罪とみなされるのでしょうか。先生が引用された聖句からすれば、そうなのだろうと思いますが、キリストを否むというためには、その人が実際に心の中でキリストを否まなければならないようにも思えます。しかし先生は、自分の信仰について嘘をつくこと自体が、実際にキリストを否むことに等しい、と言っておられるのでしょうか。
これは重要な問題だと思います。特に、艱難期には実際にこのようなことをしようとする人がいるかもしれないからです(たとえば、先ほど私が話した人のような人です)。
キリストにあって、
返信 #4:
まったく同感です。
私がこの例(獣の刻印を受けることを理屈をつけて正当化すること)を用いたのは、1)物事を正しい視点から見る助けになるからです。聖書は、刻印を受けることを滅びに至るものと同一視しています。そして2)この問題が、そう遠くないうちに現実のものとなる可能性があるからです。
さて、「そもそも、他の人を救うために自分の信仰について嘘をつくことなど可能なのでしょうか」という点についてですが、欺きは福音の一部ではありません。福音は真理です。それは、建物の正面をカジノのように見せかけ、人々が中に入ってきたところで後ろのドアに鍵をかけ、彼らに「伝道し」終わるまで外に出さないようなものです。そこから良い結果が生まれるはずはありません。昔の救済施設の中には、食べ物を求めて来た人に、まず説教を聞かせ、それが終わってからでなければ食べ物を与えないところがありましたが、それを思い起こさせます。もう一つ例を挙げると、50年ほど前、原理主義者たちの間に「I found it!(見つけた!)」という歌がありました。そこで誰かが、全国各地にその言葉と……フリーダイヤルの電話番号を載せた看板を出すという妙案を思いつきました。人々が「それ」とは何なのかを知ろうとして電話をかけると、そこで突然、福音を聞かされたのです(あるいは、そのようなやり方ですから、果たしてどのような「福音」だったのか分かりませんが)。私にはカトリック教徒の知人がいて、彼もそこに電話をかけましたが、それによって救われることはありませんでした。彼は面白いとは思わなかったようです……そしておそらく、それ以後はかえって福音に耳を傾けにくくなったことでしょう。何をするかだけでなく、どのような方法で行うかも重要なのです。
友よ、あなたのことを祈り続けています。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #5:
ルギンビル博士、こんにちは。
なるほど。先生が挙げてくださった例では、それは良い証しにならない(むしろ人々を福音から遠ざけてしまう可能性が高い)だけでなく、その人たちが後になって真実を告白することを前提としていることにもなります。愛する人たちを殺すと脅されている人が、自分は嘘をついたのだと迫害者たちに告白するとは考えにくいように思います(もっとも、そうするかもしれませんが)。私にとって最も印象に残ったのは、「欺きは福音の一部ではありません」という部分でした。私が挙げた仮定の状況では、その人は自分の光を輝かせているのではなく、それを隠していることになります。その場合、そのような行動はマタイ5章13-16節に真っ向から反することになりますが、ラハブの場合はそうではありませんでした。これは良い論拠だと思われますか。
この話題を持ち出した人(彼は自分の教会でユース・パスターをしていると思います)が、そのような状況になったらどうするかを私たち全員に尋ねたこともお伝えしておこうと思います(もちろん、仮定の話ではありますが)。私は、誰かを救うために信仰を否定したと嘘をつくのではなく、自分の信仰を告白すると答えました。彼はその答えには異議を唱えませんでしたが、一方で、嘘をつく人にも問題はないと考えていました。彼によれば、どちらの選択も受け入れられる可能性があるので、正しい答えはないということでした。私はそれには同意しませんでした。というのも、その前に私は、真実を語ることが正しいことだと述べていたのですが、彼はそれに反論したからです。その時点で、私はただ黙って、それ以上何も言いませんでした(話している相手を説得できそうにないと分かると、私はよくそうします)。私は、教えを受ける意志のある人たちを教えることを務めとする教師であって、弁証家ではありません。
こちらメリーランドでは、カナダや五大湖地域北部のいくつかの州で発生している山火事のため、かなり煙が立ち込めています。ルイビルでもかなりひどいですか。
キリストにあって、
返信 #5:
はい、それは良い捉え方だと思います。
「私は、教えを受ける意志のある人たちを教えることを務めとする教師であって、弁証家ではありません」という点について。そのとおりです。しかし、弁証家であっても、真理を曲げることは許されません。
「だから、だれでも人々の前でわたしを認める者を、わたしも天におられるわたしの父の前で認める。しかし、だれでも人々の前でわたしを否む者を、わたしも天におられるわたしの父の前で否む。」(マタイ10章32-33節 /NIV訳)
この一連のことについて最もよくその本質を示しているのは、そもそもこのような議論は必要ではなかったということです。しかし、これは伝統的な「神学」や、真理を深く掘り下げることに本当の意味で関心のない人々にありがちなことです。そもそも現実には起こってもいないのに、このような奇妙な仮定の状況を考え出して、その意味や適用についてあれこれ心配するのです。
こちらでは、気になるような煙はありません。現在、私たちはジェット気流より南側にいます。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #6:
「ヒトおよびヒト以外の霊長類の多能性幹細胞からの精原細胞の生成」
主は、このようなことが続くのを許されると思われますか。このことや、科学者たちが作ろうとしている「頭部のない人間の袋状組織」のことを考えると、新たなネピリムがこのようにして現れるのではないかと思ってしまいます。
イエスにあって、主がすぐに来られますように。
返信 #6:
「ヒトおよびヒト以外の霊長類の多能性幹細胞からの精原細胞の生成」ということについて。これが何なのか、私にはまったく分かりません。悪霊たちは「科学」を知る必要などありません――彼らはただ、それを「どうやって行うか」を知っているのです。彼らにとって問題なのは、それを行う能力があるかどうかではなく、その結果です。まさにそのような違反を犯したために、数え切れないほどの悪霊たちが、光のない底知れぬ所で長い時を過ごしています。
「それが続くのを許される」ということについて言えば、反キリストは悪魔の子であり、私たちの主が再臨される時、彼は偽預言者と共に火の池に投げ込まれます。一方、サタン自身は千年王国の期間中、底知れぬ所に拘禁されます(彼に従う者たちもすべて同様です)。また私は、復興したローマの十の地域を支配し、反キリストに従う「十人の王」もネピリムではないかと推測しています(そう考えれば、彼らの並外れた能力と、獣に進んで従属する理由の両方を説明できます)。この少数の者たち以外には、艱難期にそのような存在がほかにも地上にいることを示す聖書上の記述は、私には見当たりません――そして、もし私たちが本当にその時に近づいているのであれば、この十一人はすでに全員この世に存在している、と結論せざるを得ないでしょう。
科学の傲慢さが続くことを「許される」という意味で言えば、これまで聞いたこともなかったようなあらゆる境界を次々と越えていく動きが、科学や技術だけでなく、人間社会のほかのあらゆる分野においても、猛烈な勢いで加速していることは分かっています。これは、私たちが終わりの時から遠いところにいるのではなく、かなり近いところにいると私が考える理由の一つです。しかし、それでも私たちが知りたい「正確にはいつなのか?」という問いへの答えにはなりません。
一方、この世は昔から信者と真理に対して敵対してきました(リンク参照<リンク先ファイルの28頁「世の敵意」/あるいはA4版印刷本「サタンの反乱」202頁「3.この世の敵意」の項を参照下さい>)。私たちがそのことをはっきりと認識できるのは、人生を見るうえで、神にかなった聖書的な視点を持っているからです。
友よ、あなたのことを祈り続けています!
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #7:
ボブ、こんにちは。
私は、昔からずっと私たちと共にあった悪が見えるようになってきました。私は定期的に聖書を最初から最後まで通読していますが、今はそこに書かれていることを、原則を含んだ過去の歴史としてではなく、現在の傾向として読むようになっています。モーセがイスラエルに残した最後の言葉を読みましたが、そこで彼が警告していた堕落は、私たちの社会に入り込んでいるものと同じです。細かな点は変わっていても、その本質はまったく同じです。
もし彼らが実際に機能する精子を作ることに成功すれば、それを受け入れる女性たちもおそらく出てくるでしょう。そこから生まれる子孫を人間とみなすことができるのか、私には疑問です。罪の性質は受け継がれるのでしょうか。それとも、洪水以前のような悪を見ることになるのでしょうか。それが現実にならない限り、そして現実になるまでは、私たちには分からないだろうと思います。もし先生がこの秋について正しいのであれば、彼らにはそのための時間はないでしょう。もしさらに七年続くのであれば、おそらく現実になるでしょう。
お祈りをありがとうございます。いつものように、先生とご家族のことも私の祈りの中に覚えています。手術後の回復はいかがですか。
私たちの主にあって、
返信 #7:
そうですね。堕落以来の歴史を通じて、根本的な意味では、歴史に「日の下に新しいものは何もありません」(少なくとも人間の行動に関しては)。違っているのは、その現れ方だけです。人間は本質的に、昔も今も同じです――罪の性質を持っています。そして戦場も本質的には同じです。悪魔とその手下たちが、許されている範囲で、この世を動かしています。しかし、私たちのうちには御霊が住んでおられます――旧約時代の人々にはなかったことです。そして私たちには、聖書全体が与えられています――これは何と計り知れない祝福でしょう! 残念なことに、ほとんどのクリスチャンでさえ、その価値を正しく認識していません――もっと肝心なことを言えば、聖書そのものと、聖書についての良い教え(それを見つけることができればですが)を十分に活用していません。
心配しようと思えば、心配の種はいくらでもあります。しかし実際には、何についても心配する意味はありません。神がすべてを完全に支配しておられます。そして実際、起こることはすべて、神があらかじめ予見しておられただけでなく、時間と空間を創造される前から神によって定められていたことなのです。私たちが目にしているすべてのものは、想像もできないほど小さなものです――神が本当はどれほど「大きな」方であるかを、私たちが理解することさえできれば。
私はかなり順調に回復しました。以前より「一歩か二歩」後退してしまいましたが、それを取り戻そうと頑張っています。一か月ほど前に少し頑張りすぎてしまい、その時に膝を痛めました。でも今では両膝とも良くなってきています。ありがとう!
友よ、私もあなたのことを祈り続けています!
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #8:
ボブ、ほとんどのクリスチャンは、聖書を読むことさえしていないのではないかと思います。少なくとも、私が見てきた限りではそうです。ただ、最近の私は何事についても、かなり悲観的な見方をしているのですが。
回復しているとのことで、うれしく思います。
私たちの主にあって、
返信 #8:
「ほとんどのクリスチャンは、聖書を読むことさえしていないのではないか」という点について。残念ながら、そのとおりだと思います! そしてもちろん、たとえ聖書を読んでいたとしても、それを聖書に忠実な教えと結びつけていなければ、霊的成長という点では決して前進することができません。「悲観的な見方」ということについて――別の言い方をすれば、「現実的な評価」ということですね。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #9:
ボブ、こんにちは。
ちょっと近況をお知らせします……今週後半に、もっと長いメールを送ります。
[省略]
ただ今のところは、そうしたことすべてから静かに距離を置き、一日一日をその日ごとに受け止めながら、家の作業や学び、そして奉仕に備えて身辺を整えることに忙しくしています。今も感情的にはかなり苦しんでいますが、その痛みは日ごとに少しずつ耐えやすくなっています。そして、すべてが最悪で、最も深刻だった時から時間が経つにつれて、少しずつ普通に物事を行い、生産的に過ごせるようになってきました。以前は精神的なショック状態にありましたが、今では泣き、悲しむことができるようになり、それによって起こったことを心の中で整理し、癒やされ、前に進めるようになってきました。
__はずっと私のそばにいてくれていますし、このことが私にどれほどの痛みと苦しみをもたらしたかを見て、辛抱強く接してくれています。__も人生で多くの心痛や裏切りを経験してきたので、私の気持ちを理解してくれます。
いずれ必ず乗り越えられると分かっていますし、一日一日、少しずつ取り組んでいます……以前は感情的にも精神的にも麻痺したようになり、何もできませんでしたが、今ではそこからかなり先まで進んできました。学びと霊的成長の勢いを少しずつ取り戻し、近いうちに奉仕に本格的に取り組めるよう、その土台を築こうとしているところです。
主はいつも私と共にいてくださり、常に真実で忠実な方です。私は主の再臨を待ち望んでいます。そして、あらゆる虐待や不親切や残酷さから解放され、主の御国で主と共にいて、本当に私を愛し、私に害を加えようとはしない兄弟姉妹に囲まれることを切に願っています。
イエスにあるあなたの友より、
返信 #9:
「私は主の再臨を待ち望んでいます。そして、あらゆる虐待や不親切や残酷さから解放され、主の御国で主と共にいて、本当に私を愛し、私に害を加えようとはしない兄弟姉妹に囲まれることを切に願っています」ということについて。私たち皆も同じです! これもまた、今この地上にあるものではなく、これから来るものに心を向けるべき大きな理由の一つです(コロサイ3章1-2節)。
今もなおこれほど苦しい闘いが続いていることを残念に思いますが、友よ、あなたからの良い報告を聞いて励まされました! そして__もよく支えてくれていますね! __のためにも祈っています。
そうです、これからも「少しずつ削り続けて」ください! どんな木でも、倒すにはそれしかありません。たとえセコイアのような巨木であっても、根気よくたゆまず続けるなら、たとえ切れ味の鈍い斧でも、やがては倒すことができます。
友よ、これからも祈り続けています。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #10:
ボブ、こんにちは。
もしリンクが必要でしたら送ります。見出しだけですべてを物語っていると思います。私たち皆にとって、状況は危うくなってきています。彼らは「クリスチャン」というレッテルを貼られた人なら、誰でも標的にしようとしているように見えます。もし問い詰められたなら、私は真実を語らなければなりません。そしてニュースで読む限り、そうすれば命が危険にさらされることになるでしょう。もしそうなら、それもやむを得ません。マタイ24章9節が、今日まさに現実になりつつあるように見えます。
そちらルイビルでもすべてが順調であるよう祈っています。こちらはずっと暑くて、この年老いた体には、もう本当にこたえます。
私たちの主にあって、
返信 #10:
暑さのこと、お気の毒です! こちらでは少し暑さが和らいでいます。また、ミシガンではようやく煙から解放されたと聞いています。熱帯低気圧がテキサス方面へ向かっているようですね。それでそちらも少し涼しくなるかもしれません。
クリスチャンに対する迫害についてですが、あなたのおっしゃっていることは分かりますし、そこには確かに真実な面もあります。しかし私は、悪魔が非常に狡猾であるということにも注意を向け、それを指摘しなければならないと思っています。何しろ、悪魔の邪悪な子である反キリストは、自分こそキリストであると主張することになります(それゆえ「反[anti]キリスト」なのであり、この anti には「敵対する者」だけでなく「代わりとなる者」という意味もあります)。そして獣の宗教は、偽キリスト教的なものとなるでしょう――それは、ニューエイジ的なたわごとやカリスマ派のナンセンスに関わっている今日の目に見える教会の大部分と、よく似たものになるでしょう。
[クリスチャンに対する]敵意をあおることは、欺きの達人が用いる策略となり得ます。なぜなら、1)それによって人々を、あらかじめ意図された方向に結集させることができ、2)彼らを奮い立たせ、行動(政治的行動)を起こしやすい状態にし、さらに、クリスチャンとして取るべき正しい態度、すなわち物事を神の御手に委ねることではなく、まったく世俗的な考え方をするように仕向けることができるからです。
何しろ、この聖書研究では以前から、反キリストが権力を握る方法の一つとして、中東の同盟に対抗するため、「十字軍」を装って支持を集めることになると考えてきました。ですから、私たちはこの傾向を忌み嫌う一方で、悪魔が、自称信者たちを欺くために獣に利用させようとしているものの一つでもあることを認識する必要があります。
友よ、あなたの健康のために祈っています!
イエスにあって、
ボブ・L.