あなたからのメール
終末論の諸問題 CLXIX -169
https://ichthys.com/e-mails.htm からの抜粋翻訳
[2026年8月15日掲載]
<返信は、ロバート・D・ルギンビル博士によります。>
質問 #9:
こんにちは、ボブ。
今、私はすっかり疲れ果てていて、かなり弱っています。家に戻ってきて、少し休もうとしていたのですが、水道局がよりによって今週、道路全体を掘り返して、寝室の窓のすぐ外で水道管の修理をすることにしたのです。今は断水していて、私は布団の中に身を縮めながら、__のことを心配する家族や友人たちからの電話に対応しようとしていました。
[省略]
この騒音では、自分が何を考えているのかさえ分からないほどです。掘削工事は、ほとんど私が帰ってきたその日から始まりました。このタイミングが偶然ではないとしても、驚くべきではないのでしょうね?
明日は街(マンチェスター)へ出て、今では利用できるようになった大学図書館の利用証を使い、祈りのリストや学び、ミニストリーの計画にもう一度しっかり取り組めるようにしたいと思っています。家で静かにこれをできればと思っていましたが、そうはいかないようです。
明日は__がただ「普通」であってくれることを願い、そのように祈っています。というのも、そこでは移民問題をめぐって、以前から攻撃的なデモ行進や警察との激しい衝突が繰り返されてきたからです(Britain Firstの抗議デモ対Antifaの対抗デモ)。こちらでは聖ジョージの日(4月18日)にそれが頂点に達しました。この日はイングランドの守護聖人の日であり、それゆえ愛国心や国民としてのアイデンティティと誇りの象徴だからです。正直なところ、今はもう、こうしたことすべてに心底うんざりしています。皆がサタンの王国の縄張りをめぐって争っていますが、私の目は主の再臨に向けられています。
以前は艱難期を恐れていましたが、今ではむしろ、それが始まることを待ち望んでいます。なぜなら、そうなればカウントダウンが始まり、一日一日と私たちの主が近づいて来られるからです!
主がこのすべてを通して私を必ず支えてくださることは分かっています、ボブ。でも私は、この世とそこにあるすべてのものに本当に疲れ果てています。この罪に満ちた世界が完全に滅ぼされることは避けられず、しかもそれは神によるものなのに(その時には元素さえ溶けてしまうのですから)、なぜ支配神学を唱える人たちがこの世界をめぐって争いたがるのか、私には理解できません。
できるだけ早く故郷に帰りたいと強く願っています。この世のものに対する欲望はもうまったくなく、今では私をこの地上につなぎ止めるようなものもほとんどありません。この世から解放され、永遠に主と共にいたいと切望しています。しかし同時に、主が私の従順を通して成し遂げたいと望んでおられる働きがあり、私に与えたいと望んでおられる報いがあることも分かっています。ですから実際、今私がこの地上で生き続けているのは、ただ主の御心を行うためです。この世的な欲望がもうなく、ここにあるすべてのものが苦い後味しか残さない今、私を前へと駆り立てているのは主の御心を行うことだけであり、私に与えることを主が望んでおられる報いを勝ち取ることだけが、私に目標を与えてくれます。
ここには、私の心を引きつけるものは何もありません。人々が人生で追い求めているものには、すっかりうんざりしてしまいました。私の本当の喜びは、主のうちにしか見いだせません。
友よ、心配しないでください。私は絶望したりはしません……。疲れ果ててはいますが、それは悪いことではありません。今では、本当に尊いものが何なのかが、まるで水晶のようにはっきり見えるようになった感じがします。サタンの華やかな飾りや安っぽい宝物は、もう私を誘惑しません……。私には、それらは虫に食われた布切れと色を塗ったガラスにしか見えません。伝道者の書にあるように、ソロモンがなぜそのすべてにうんざりするようになったのか、私には分かる気がします。もちろん、私はソロモンが持っていたような祝福や豊かさを経験したことはありません……それでも、サタンの滅びゆく王国で、そのようなものを何か手に入れるという考えそのものに、もううんざりしています。
今の私の目は千年王国に据えられています。そしてパウロと同じように、ここで乏しい生活をするにせよ、豊かに暮らすにせよ、主がおられるのですから、それは私にとって大したことではないと感じています。アーメン!
イエスにあるあなたの友より、
返信 #9:
このようなことすべてを聞いて心が痛みます。外出がうまくいったことを願っています。これほどの重荷を背負い、さらにこうした気を散らす出来事が次々と加わっているにもかかわらず、あなたがミニストリーを続けて踏ん張っていることは、あなたの霊的な粘り強さを十分に物語っています――いいえ、私も、これらが単なる偶然だとは思いません。
「以前は艱難期を恐れていましたが、今ではむしろ、それが始まることを待ち望んでいます」について。それは確かに、激しい苦難や試練の中にある「希望の光」です。物事が困難になればなるほど――その困難が、正しい霊的前進に対する妨害であり、成熟した信者に臨む試練である限り――私たちは、自分たちにとって本当に大切なもの、すなわち主と、主の真理と、主の教会にますます目を集中させるようになります。そして、この地上でのあらゆる苦難の後に来るものを、ますます待ち望むようにもなります。もし私たちがあなたのしているように、妨害や試練によって歩みを遅らせたり、意気消沈させられたりしないなら、それらはかえって私たちを主に近づけ、向こう側にあるものへといっそう目を向けさせるようになります。ヨブはこのことの完全な模範です……「友人」たちに腹を立てさせられるまでは。
それでももちろん、私たちは皆、苦難から解放され、ひと息つく時が与えられることを願っていますし、それを期待し、そのために祈ってよいのです。そして友よ、それこそまさに、私があなたのために祈っていることです。
外出がどうだったか、また知らせてください――そして、状況を知らせ続けてくださってありがとうございます。
私は今日で35年間の教師生活を終えましたが、この一年はその中で最も厳しい一年であり、この学期も最も厳しい学期でした。それでも主は、そのすべてを通して私を支えてくださいました。そして今、私自身、本当にひと息つける時を経験しています。ですから友よ、あなたのお祈りに心から感謝します! これから数か月の間に与えられる機会をできる限り活用して、間もなくやって来るかもしれないものに備え、私たち皆が霊的な戦いに十分備えた状態になっておくことは良いことです。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #10:
こんばんは。
お元気でお過ごしのことを願っています。先週、ナホム書を読みました。聖書の各書の一覧を見ていてナホム書が目に入り、もうずいぶん長い間読んでおらず、何について書かれた書なのかもまったく覚えていないことに気づいたのです。まず第一に――すごいですね。言葉の表現が(少なくともNASBでは)非常に力強いです。どこか詩的な感じもします。
第二に、そしてこちらの方が重要なのですが、ニネベについての描写が、黙示録におけるバビロンの描写と非常によく似ていることに気づきました(先生がそれをアメリカと解釈しておられることは知っています――私もそう考えていますが、先生の聖書研究シリーズではまだそこまで読み進めておらず、今はまだ「サタンの反逆」を学んでいるところです)。先生がいくつもの箇所で、この二つ(ニネベとバビロン)を関連づけておられることも分かりました。
[リンク:旧約聖書の解釈12]<英文>
[リンク:聖書の基礎第2部B 終末論]<英文>
(神が一貫してバビロンだけを用いられるのではなく)複数の都市や国を用いておられる目的は、イスラエルの歴史を通して、さまざまな実例をイスラエルに示すためなのでしょうか? 世界史の授業で習った記憶では、帝国の覇権の移り変わりという点で、一般にアッシリアの次にバビロンが続きました。ですから、ナホムが書き送った当時の人々にとっては、バビロンはそれほど大きな意味を持っていなかったのかもしれません。
もともと私が尋ねようとしていたのは、「ナホム書の出来事はすでに完全に成就したのでしょうか、それとも、まだ将来に成就するものなのでしょうか?」ということでした。その点については、見つけたリンクから答えを得ることができました。今はただ、黙示録のバビロンが、旧約聖書ではなぜこれほど多くの異なる名前で呼ばれているのか、その理由を知りたいと思っています。
返信 #10:
ニネベとバビロンだけでなく、ツロもそうです。このことについて、CT 3Bから引用します。
ペテロがローマの教会を「バビロンにいる、あなたがたと共に選ばれた婦人」と呼んでいることは、帝国を支配しながらも、ある意味では帝国そのものとは別個に存在する、全体を統括する権力の中心という考えを反映しています。この構図は、将来、復興した帝国を支配し、「獣に乗る」ことになるバビロンの姿と一致しています(第一ペテロ5章13節と黙示録17章1節, 17章3節, 17章7節, 17章9節, 17章15節, 17章18節と比較)。読者には、このシリーズの第1部で、(フェニキアの主要都市の)ツロと(アッシリアの首都の)ニネベについて述べたことを思い出していただきたい; これら二つの都市の前者はその最高の経済大国として、後者はその最高の軍事大国として、私たちがもっぱら「バビロン」と呼んでいる未来の「謎の」王国との類似性を示すために使われています。[1] 結局のところ、反キリストは、エゼキエル書第28章において「ツロの王」として描かれているのです(上記のII.1 .c.1参照)。
ですから、「なぜ」という点について言えば、イスラエルの預言者たちは、艱難期と彼ら自身の時代(あるいは間もなく到来する時代)との類似点に基づいて、警告の預言をすることがしばしばありました。私はこれを「『主の日』のパラダイム」と呼んでいます(「来たる艱難期第一部」のリンク参照)。このように迫り来る裁きを比較する際には、当然ながら、当時存在していた国々を用いる必要がありました(そうでなければ、その裁きがどれほどのものなのかを想像することもできなかったでしょう)。したがって、預言者たちが歴史上のバビロン、ニネベ、ツロについて描写することによって、将来の終末論的なバビロンについて多くのことを知ることができるのです。
彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕していることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊によって福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのである。これらの事は、御使たちも、うかがい見たいと願っている。(第一ペテロ1章12節 NIV)
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #11:
ルギンビル博士、
お元気で、毎週、主にあって成長を続けておられることを願っています。
先生の記述について、もしかすると訂正が必要かもしれない聖句の参照箇所を一つ見つけました。次のところにありました。
[ichthys.com/mail-Gods-will.htm]で、参照箇所(cf.)が創世記5章20節となっています。
これは先生が意図された聖句で合っていますか? NASBの創世記5章20節には、「こうしてヤレドの一生は九百六十二年であった。そして彼は死んだ」とあります。
「私たちはこのことから大きな慰めを得ることができます。なぜなら、私たちに、自分では第一級の災難としか思えないようなことが起こっている時(そして人間の目には、それ以外のものとして見ることがほとんど不可能な場合もあるでしょう)でさえ、神は災難さえも用いて、『すべてのことを益となるように働かせて』くださるということだからです。すなわち、私たちの霊的成長と実を結ぶ働きのため、そして神の栄光のために、真の、神から来る、祝福された、最善の益となるように働かせてくださるのです(創世記5章20節参照)。」
別のことについてですが、答えを求めて調べている中で、いくつか質問があります。艱難期の間、特にその前半には、信者は仕事を失い、財産も取り上げられることになるのでしょうか? もしそうであったとしても、主が真実な方であり、私たちを顧み、その日その日に必要なものを備えてくださることは分かっています。私は、それを共産主義のもとで起こったことと似たようなものとして考えていますが、この時期はそれよりもはるかに厳しいものになるとも思っています。また、主の真実さがどれほどすばらしいものであるかも知っています。虐待していた人のもとを、お金も仕事もない状態で離れた時、私はそれを経験しました。主は本当に備えてくださいます! Ichthysのこのコミュニティーにいるほかの人たちが、艱難期とその後のイエスの再臨が近いことを理解しながらも、それと同時に、通常ならするであろう人生上の決断をし、長期的な計画を立てていることにも気づきました。このことについて、健全な理解を持てるよう助けていただけますか。また、自分が投獄されたり、殺されたりするよう召される可能性があることも理解しています。そして私は成長しようと努めており、主イエスにお会いすることを励みとしています。本当に報いを得たいと願っていますし、主の栄光を見るのが待ちきれません。これは何と喜びに満ちた希望でしょう。そして、この時代に生まれる者として主が私を選んでくださったことを思うと、涙が出ます。この世に生きながら、この世のものではない者として生きる――何とすばらしい時代でしょう。
また、決断を迫られている時に神の御心を祈り求めることについてです。私は祈り、主を求め、自分の意志ではなく主の御心がなされるよう願っています。また、主の知恵と識別力を求め、その決断に関係する相手の心を柔らかくするにせよ、かたくなにするにせよ、主の御心が実現するようにしてくださいと願っています。そのうえで、「主の栄光のために正しい決断をしていると思い」、自分の動機が利己的な利益を求めるものではないかを考え、吟味しているのであれば、もしその決断が主の御心にかなわない場合、私が主の御心を願っているがゆえに、主がその決断の実現を止めてくださるのでしょうか? 私は主の真理から、次のようなことを理解しています。主は私の心を探られること。私が主を愛しているので、主はすべてのことを私の益となるように働かせてくださること。心を尽くして主を求めるご自分の子供たちを、主は支え、強めてくださること。主はバラムのろばに語らせることさえなさったこと。また、アブラムが(二度)サライを自分の妻ではないと言い、自分の妻がほかの男に連れて行かれ、その男と寝ることになっても仕方がないという態度を取った時にも、主はそれが起こるのを阻止されました。それが、世を贖うメシヤの子孫を生み出すという主の御心のためであったことも分かっていますが、それでも主は、それが起こるのを阻止されました。また、主が、私の信仰を成長させるために、自分で決断する自由を与えてくださっていることも理解しています。主はすでにその決断をご存じであり、すでにすべてを私の益となるように整えてくださっています。主は私の信仰の程度がその決断に影響することもご存じで、それさえもすでに私の人生の中に織り込んでくださっています――主のための生ける石として。
お時間のある時に、お返事をいただけるのを楽しみにしています。先生のためにいつも祈っています。
私たちの贖い主、報いてくださる方、そして主であるイエスにあって!
返信 #11:
よく気づきました。「5章20節」ではなく「50章20節」です――これは私がよくやってしまう類の間違いです(私は数字が苦手なことで有名です)。
「艱難期の間、特にその前半には、信者は仕事を失い、財産も取り上げられることになるのでしょうか?」について。それは十分にあり得ますが、そのような迫害が主として起こるのは、後半の「大艱難期」である可能性の方がはるかに高いでしょう。なぜなら、獣がエルサレムの神殿に居を構え、全世界に刻印を受けるよう命じるのは、その時になってからだからです。また、世界各地の信者が経験することは、地域によってかなり異なると考えてよいでしょう。たとえば、「来たる艱難期」シリーズで示唆しているように事態が進み、バビロンと復興したローマがイスラム連合と覇権を争うことになるなら、後者の勢力圏にある国々の信者は、ただちに信仰ゆえに苦しむことになると考えて間違いないでしょう(実際、彼らは今すでに苦しんでいます)。
また私は、バビロンの奥義について述べられていることから考えると、その領域内にいる信者たちは、「大迫害」の最中でさえ、ほかの地域の信者たちより比較的楽な状況に置かれる可能性がある、とも考えています(たとえそれが相対的な意味でしかないとしても)。なぜなら、反キリストには自分の本拠地を安定させておく必要があるからです。しかしその一方で、「バビロンから逃がれよ!」という命令と、それに伴う重荷は、ここに住む信者たちに特有のものとなるでしょう。これから起こることについてあまりに動揺する前に、私たちの神には不可能なことは何一つないということを思い出す必要があります。神はすべてをご存じであり、あなたも理解しているように、あらゆることを前もって、完全かつ細部に至るまで計画しておられます。私たちの務めは、何が起ころうとも神を信頼することです。そうするなら、すべては大丈夫です。もし私たちが飢えや欠乏に苦しむことが神の御心であるなら、それを避けるためにできることはありません――しかし、それでも神が私たちを養ってくださることを私たちは知っています。私たちを生かすために、必要ならマナを降らせ、あるいは食物を携えたカラスを送らなければならないとしても、神はそうしてくださるでしょう。その時、私たちはただ神を信頼すればよいのです――そして、その時が来る前から、そうであると確信している必要があります。
ききんの時には、あなたを死からあがない、戦いの時には、つるぎの力からあがなう。(ヨブ5章20節 NKJV)
あなたは滅びとききんとを笑い、地の獣を恐れることはない。(ヨブ5章22節 NKJV訳)
見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。(詩篇33篇18-19節 NKJV訳)
主は全き者の日々を知られ、その嗣業はとこしえに続く。彼らは災いの時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。(詩篇37篇18-19節 NKJV訳)
わたしは若かった時もあり、年老いた時もある。しかし正しい者が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請い歩くのを見たことがない。(詩篇37篇25節 NKJV訳)
主は正しい人を飢えさせず、悪しき者の欲望をくじかれる。(箴言10章3節 NIV訳)
正しく歩む者、正直に語る者、しえたげて得た利を退ける者、手を振って、まいないを取らない者、耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、目を閉じて悪を見ない者、このような人は高い所に住み、堅い岩はそのとりでとなり、そのパンは与えられ、その水は絶えることがない。(イザヤ33章15-16節 NIV訳)
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ。(イザヤ49章10節 NKJV訳)
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちは、わたしたちを愛して下さったかたによって、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8章34-39節 NKJV訳)
このような問題を扱っているリンクを二つ挙げておきます。
「飢餓と信仰」<改訳版>
「Ichthysのこのコミュニティーにいるほかの人たちが、長期的な計画を立てていることにも気づきました」について。それは正しく、適切なことです。艱難期は、この秋に始まる可能性も十分にあります。十字架が紀元33年であったとし、ユダヤ時代の最後の七年間と教会時代の最後の七年間とが重なると仮定したうえで、千年を一日とする解釈に従って聖書を解釈するなら、それが聖書の示唆するところだからです。しかし、これは直接的な教えではなく、あくまで一つの解釈です。私たちが常に目を覚まし、霊的に警戒しているように、主の再臨は聖書において常に差し迫ったものとして描かれています。しかし、その警戒心は、普通の生活を放棄することを意味するのではありません――むしろその反対です。私たちは皆、イエス・キリストをあがめる生活を送り、さまざまな責任のすべての領域において、自分がなすべきことを行い続ける必要があります。それは、何らかの形で主と顔と顔を合わせるその時まで、艱難期の間でさえ変わりません(マタイ24章40-41節参照)。
「私は祈り、主を求め、自分の意志ではなく主の御心がなされるよう願っています」について。それはすばらしい祈りであり、すばらしい見方です。あなた自身の心を本当に知ることができるのは、主とあなた自身だけです――そして時には、私たち自身でさえ自分の心を読み取るのに苦労することがあります(エレミヤ17章9-10節)。私たちの決断が、ほかの人々とその人たちの決断にも関係することである場合には、まさに肩の力を抜いて、物事を主に委ねるべき時です。主が私たちにとって最善のことを心にかけてくださっていることを、私たちは知っています。罪深い行動を取ったり、罪深い動機によって行動したりしていない限り、主を愛する私たちのために、主が「すべてのことを共に働かせて益として」くださることを確信してよいのです(ローマ8章28節)。ただし、それは物事が私たちの期待したとおりになるという意味ではありません。私自身の人生経験や世の中を見てきた経験からすると、たいていはそうはなりません。しかし、私たちが主にしっかりと従って歩もうと最善を尽くしているなら、自信をもって祈ってよいのです――そして、いったんその祈りを「送り出した」なら、主が私たちを見守ってくださっていると信じて、信仰によって前へ進んでよいのです。私たちは自分にできる最善を尽くし、それ以外のすべてを主の御手に委ねるのです。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #12:
ルギンビル先生、
まず、私の家族の状況について祈ってくださったことに感謝します。金曜日の夜に話し合いを持ちましたが、以前よりもずっと良い状態になったように思います。これで前に進んでいけそうです。これからも意見の違いはいくらかあるだろうとは思っていますが、もしかすると、私の考えに耳を傾けようとする彼らの姿勢を、私は見誤っていたのかもしれません。この経験を通して多くのことを学びました。
聖書に関係するユダヤ文化(律法、祭りなど)を学びたいと思っています。そうした事柄について話し合う際に、よりしっかりとした理解の土台を持てるよう、真理を理解したいからです。Ichthysでは、へブル書シリーズが良い出発点のように思えますし、「サタンの反乱」の一部も役立ちそうです。関連するテーマについてメール掲載記事もすでにいくらか調べてみましたが、もっと体系的に学ぶ必要があると思っています。私たちはイエスの犠牲の後の時代に生きているのですから、旧契約を正しく理解することをおろそかにせず、今日の教会についても正しく理解したいのです。おそらく、そのうちいくつか質問することになると思います! これを学ぶための最善の方法について何かご提案があれば、ぜひ教えてください。
それとは別に、今週、まったく予想していなかったことが起こりました。__と__との聖書の学びは、病気やさまざまな生活上の事情のために、長い間中断していました。今週また集まることができ、コロサイ3章を学びました。二人の配偶者はいずれもカトリックの家庭で育っており、二人とも地元のカトリック教会に通うことを考えているらしいのです。__はマリアに祈ることを「友人に自分のために祈ってもらうよう頼むこと」だと説明しました。私は、どうすればこの学びの中にもっと真理を取り入れられるかを考え始めたばかりだったのですが、今度は、偽りが入り込んでくるかもしれない状況にも対処しなければならなくなりました。今のところ、次はテーマ別の学びをする方向に傾いています。イエスの生涯と犠牲、霊的成長の重要性、あるいはクリスチャンの人生における苦難のいずれかを取り上げることを提案しようかと考えています。
この二つの聖書の学び(家族とのものと、友人たちとのもの)で、私にどれほど良いことができるのかは分かりません。私には、だれかに何かを納得させることも、偽りを信じないように守ってあげることもできないと分かっています。
これからの一週間が良いものとなりますように!
キリストにあって、
返信 #12:
「ずっと良い状態」になったとのこと、本当に良い知らせですね! 少なくとも平和な関係を保つことができるなら、その先にほかにどんな可能性が開けてくるか、だれにも分かりません。
「聖書に関係するユダヤ文化を学びたいと思っています」について。まず指摘しておきたいのは、これは二つの異なる事柄だということです。聖書時代における歴史的なユダヤ文化については、聖書からしか知ることができません。それ以後に発展し、今日存在しているユダヤ文化は、必ずしも聖書的なものではまったくありません(実際、たいていの場合、両者の間には大きな隔たりがあります)。聖書が何を述べているのかを知りたいのであれば、聖書を読み、良質な注解書(Ungerのものなど)を読み、Ichthysを読むことなどが、そのための方法です。現代のユダヤ文化を研究することについては、何をお勧めすればよいのか、私にはよく分かりません。その理由の一つは、ユダヤ教も、さまざまなグループ、運動、信条などの点で、少なくともキリスト教と同じくらい「多様」だからです。ですから、本格的に取りかかる前に、何に焦点を当てるのかを少し時間をかけて絞り込む必要があるでしょう――少なくとも私には、それが良い考えのように思えます。
あなたの聖書の学びと、「私には、だれかに何かを納得させることも、偽りを信じないように守ってあげることもできないと分かっています」について。それでも、あなたが努力していることは立派だと思います! さらに重要なのは、何を、どのように、どこで行うべきかについて、御霊に耳を傾け、主があなたに語っておられることを聞く必要があるということです。このことについて、あなたのために祈っています。
いつでも遠慮なく書いてきてください!
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #13:
ルギンビル先生、
ユダヤ文化について。聖書におけるユダヤ文化と現在のユダヤ文化との違いを指摘してくださり、ありがとうございます。私が本当に関心を持っているのは、聖書におけるユダヤ文化を学び、旧約聖書と新約聖書のさまざまな事柄がどのようにつながっているのかを理解することです。これらの事柄について私に無知なところがあれば、どうかお許しください。
メール掲載記事をいろいろと調べています。私の理解が正しければ、十字架の後の今、私たちがユダヤ人の過越を祝わないのは、イエスが私たちの罪のために死んでくださったからですね(過越が予表していた主要なものは、世の罪のための主の死であったからです)。イエスは、ご自分の死を将来のものとして待ち望むための過越に代えて、ご自分の死を覚えるために聖餐を与えてくださいました。またIchthysで、過越における四杯のぶどう酒は後代にできた伝統であり、聖書に定められた過越の祝いの一部ではなかったと読みましたが、これは知りませんでした。これはどのようにして分かるのでしょうか。また、それはかなり確かなことなのでしょうか? この伝統がいつ始まったのかを示す記録はありますか?
モーセの律法を守ることによって救われることは決してありませんでした(使徒行伝13章39節; ローマ3章20節)。たとえ律法を完全に守ることができたとしても(もちろん、私たちのだれにもそんなことはできませんが)、それでも救われることはありません。なぜなら、律法にはあらゆる罪が一つ残らず列挙されているわけではなく、また私たちは依然として罪深い肉に汚され、不完全であって、聖なる神の御前に出ることのできない者だからです。キリストがまだ受肉して私たちの罪のための犠牲を成し遂げておられなかった時には、祭り(過越など)を守ることは神にかなったことであり、神から命じられていたことでした。律法を守ることも、神を愛し、人を愛するという正しい心で行われ、人間が作った伝統に固執するのではなく、神が望まれる生き方に従うものであるなら、神にかなったことでした。しかし今や、キリストが勝利を成し遂げ、私たちを罪から解放してくださり、聖霊が私たちの内に住むために来てくださったので、私たちは御霊の自由のうちに神に仕えることができます。
しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。(ローマ7章6節)
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。(ガラテヤ5章13節)
過越は、私たちすべてのためのキリストの十字架上の死を前もって指し示すものです。イエスは最後の晩餐において、新しい儀式(こう呼んでもよいのでしょうか。それとも「命令」とした方がよいでしょうか?)、すなわち聖餐を行うことを私たちに与えてくださいました。いずれの場合も、その霊的な意味を正しく理解せずに儀式を行っても、何の益にもならず、かえって霊的な害をもたらす可能性があります。十字架以前に信者が正しく過越を守ったなら、その人は、自分たちを救うメシアを神が備えてくださることへの信頼を表していたのですね(そして、神が彼らをエジプトから救い出してくださったことも覚えていたのでしょうか?)。十字架以後に信者が正しく聖餐にあずかる時、その人は、自分たちを救うメシヤを神が実際に備えてくださったことへの信頼と、イエスが完成された御業への信頼を表しています。これらの儀式は、私たちの心を真の霊的現実に向けるためのものであって、行いによって「聖なる者」になるための手段でも、主への信頼とは別に「聖なる者」になるための手段でもありません。
以上が、現在の私の理解です。何か理解を深めるべき点や、見方を改めるべき点にお気づきでしたら、教えてください。
質問1: メシアニック・ジューであれ異邦人であれ、十字架上で完成されたキリストの御業を祝い、覚え、またユダヤ人に対する神の約束が成就することを待ち望むものとして、過越の祝いに参加することは認められるのでしょうか?
質問2: 聖書においてユダヤ人と異邦人はどのように異なっているのでしょうか。また、自分が異邦人であることを踏まえて、私はそれをどのように理解すればよいのでしょうか?
神がアブラハムに約束を与えられたことは知っています。そして私の理解が間違っていなければ、その約束はアブラハムの大いなる信仰のゆえに与えられたものです。聖書は、神は人を偏り見られないと述べていますが、一方でユダヤ人が神の選民であり、神が異邦人とは異なる仕方で彼らを守っておられることも知っています。ユダヤ人は神にとって特別な存在であり、だれかが彼らを傷つければ、たとえ神ご自身がその人々を用いられたのであっても(旧約聖書にはそのようなことが時折記されています)、神は彼らに苦しみを与えた者を罰せられます。それでも聖書は、神が異邦人の神でもあると述べ(ローマ3章29-30節)、今やユダヤ人と異邦人は一つのからだであるとも述べています。
先生がIchthysで、イスラエルと教会の間にそれほど大きな隔たりがあると考えるべきではない、と書いておられることも知っています。ただ、これらすべてを頭の中でうまく整理するのに苦労しています。メシアニックの信者であることは、異邦人の信者であることよりも優れているのでしょうか? ガラテヤ3章28節のような箇所を見る限り、そうではないように思えます。しかし一方で、ローマ3章1-2節のような箇所もあります。神は全世界を、そしてこれまで生きた一人一人を愛しておられますが、神のご計画の中でイスラエルには特別な位置があります。ですから、そのことをもっと理解したいのです。
ユダヤ人とイスラエルに対して私たちがどのような態度を取るべきかについては以前にも話し合いました。私たちは彼らの安全を願うべきですが、政治的な行動についてまで意見を持つ必要はない、ということでした。
これらの事柄を理解するのを助けてくださり、ありがとうございます。
キリストにあって、
返信 #13:
「私が本当に関心を持っているのは、聖書におけるユダヤ文化を学ぶことです」について。それは非常によく分かります。伝統について言えば、ここで同じように当てはまる原則は、聖書に書かれていない伝統を続けたいのであれば、それに何らかの聖書的根拠があることを示す責任は、それを続けようとする側にあるということです。ですから、「ぶどう酒の杯」については、聖書を読んでいるあなたなら、それが聖書に記されていないことをご存じでしょう。したがって、「それはどこから来たのか?」ということは、歴史的な問題としては興味深いかもしれませんが、聖書的・教理的な問題ではありませんし、聖書が示している真理を私たちがどのように理解するかには何の関係もありません――少なくとも、関係させるべきではありません。
「十字架の後の今、私たちがユダヤ人の過越を祝わないのは、イエスが私たちの罪のために死んでくださったからですね」について。そのとおりです。過越は十字架を予表し、十字架について教えるものです。ですから、過越について――伝統的な過越ではなく、聖書に記されている過越について――知ることは良いことです。なぜなら、そこに旧約聖書の中で明確に示されているイエス・キリストを見ることができるからです。
「以上が、現在の私の理解です」について。すべての点で、まさにそのとおりです!
質問1: 私は次のように書かれているのを読みます。
しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。あなたがたは、日と月と季節と年とを守っている。わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。(ガラテヤ4章9-11節 NIV)
だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。(コロサイ2章16-17節 NIV)
ほかの人がこれをどのように適用するかについて、私がその人を裁くべきではありません。しかし、これらの聖句は私には十分明白に思えます。そして、パウロがエルサレムの信者たちに犠牲について述べたのは次のことです――結局のところ、過越も犠牲の一つなのです。
いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、また新たに悔改めにたち帰らせることは不可能である。なぜなら、彼らは、神の御子を自ら十字架につけ、さらしものにするからである。(へブル6章4-6節 NKJV)
質問2:
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神でもあるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、無割礼の者をも同じ信仰によって義とされるのである。(ローマ3章28-30節 NIV訳)
「信仰によって義とされる」ことと「信仰を通して義とされる」ことの間に、実質的な違いがあるでしょうか? ありません。どのような経緯で信仰を持つに至ったにせよ、ユダヤ人であれ異邦人であれ、私たちはその信仰によって義とされます。そして、ユダヤ人であれ異邦人であれ、救われるためにはすべての人が信仰によって義とされる必要があります。
私はこのように説明したいと思います。もしある人が偉大な音楽家の子供であるなら、その人が音楽家としての道を進みたい場合には有利な立場にある、と言うことができるでしょう――しかし、それはほかの人と同じように学び、練習する場合に限ってのことです。ユダヤ人であることは、あなたが理解し、挙げているあらゆる理由から、大きな利点です――しかし、それも、その人が信仰によって主イエス・キリストのもとに来る場合に限られます。そうでなければ、その利点はすべて何の役にも立ちません。そして同じ原則は、どのような背景を持つ信者にも当てはまります。ユダヤ人であることは、信者が最高の報いを得ようとする場合には大きな利点です――しかし、それも、その人がほかのすべての人と同じように、霊的成長、前進、そして働きに励む場合に限られます。そうでなければ、そうではありません。
「メシアニックの信者であることは、異邦人の信者であることよりも優れているのでしょうか?」について。信者は信者です。 もしある人がメシアニック運動に夢中になっているなら、おそらくその人は成長しないでしょう。なぜなら、そのような「考え方」には誤った教理が多く含まれており、ラオデキヤ時代の目に見える教会におけるほかのどの運動と比べても、霊的成長に特別熱心であるわけではないからです。実際、その人が自分の救いを、これらの儀式その他のものと何らかの形で結びつけて考えているなら、その程度に応じて、救いそのものが問題になりかねません――救われるためには水のバプテスマが必要だと信じることが問題になり得るのと同じようにです(そして、本当は有効ではないものに誤って頼る、これに類するほかのすべての場合も同様です)。
友よ、あなたのことを祈りに覚えています――そして、あなたのお祈りにも心から感謝します!
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #14:
ルギンビル先生、
メールの問題が続いていて、本当にすみません。先生にご迷惑をおかけしているようでしたら申し訳ありません。どうして気まぐれのように届いたり届かなかったりするのか分かりません。再送してくださって、本当にありがとうございます!
「それは聖書的・教理的な問題ではなく、聖書が示している真理を私たちがどのように理解するかには何の関係もありません」について。これは、以前私がガリラヤの結婚式の習慣を扱った映画について質問したことを思い出させます……。つまり、聖書時代のユダヤ文化とその霊的意味を理解するために必要なのは、聖書に書かれていることだけだということですね。
ガラテヤ4章9-11節について。律法を与えたのは神であるのに、なぜパウロはここで「奴隷にされる」という否定的に聞こえる表現を用いているのでしょうか? 使徒行伝15章10節では、「わたしたちの先祖もわたしたち自身も負いきれなかったくびき」と言われています。パウロはローマ3章20節で、「律法によって罪の自覚が生じる」と書いています。
(12) このように、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、かつ善なるものである。(13) それでは、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。しかし、罪が罪として現れるために、善なるものによってわたしに死をもたらし、戒めによって、罪が限りなく罪深いものとなるためであった。(14) わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。(ローマ7章12-14節)
私たちがこのくびきを負いきれないのは、律法によって自分の罪を認識し、自分には聖なる者となる道がまったくないことを悟るからなのでしょうか? 私たちは律法を守ることによって義と認められることは決してありませんが、それでも神はイスラエル人に律法を守ることを望まれました……それは、彼らをほかの国々から分け、神に属するとはどういうことかを諸国民に示すためだったのでしょうか? そして過越には、やがてキリストが犠牲となって私たちを律法のくびきから解放してくださることが予表されていたのでしょうか? モーセが律法の中でイエスについて書いたことを述べている聖句も見つけました(ヨハネ1章45節)。
律法は、きたるべき良いことの影を持つだけで、そのものの真の形を持ってはいない。それだから、年ごとに絶えずささげられる同じようないけにえによって、近づいて来る者たちを完全な者にすることは決してできない。(へブル10章1節)
出エジプト記のこの聖句は、どのように理解すればよいのでしょうか?
「種入れぬパンの祭を守りなさい。わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの地から導き出したのは、まさにこの日だからである。それゆえ、あなたがたは代々、これを永遠の定めとして守らなければならない。」(出エジプト12章17節)
辛抱強く教えてくださり、そして祈ってくださってありがとうございます!
キリストにあって、
返信 #14:
あなたのメールサーバーが、何らかのアルゴリズムによって、私からの返信の一部を「迷惑メール」フォルダに振り分けている可能性はあります。いずれにしても、もし私からいつまでたっても返事がない時には、また今回と同じことが起きているか、さもなければ私がバスにはねられたかのどちらかです。
「つまり、聖書時代のユダヤ文化とその霊的意味を理解するために必要なのは、聖書に書かれていることだけだということですね」について。実際的な意味では、概してそのとおりです。というのも、こうした事柄について聖書以外から知ることのできるものの大部分は、かなり後代のものであって、聖書時代の信仰共同体を反映してはいないからです。しかし、すべての事柄、すべての個々の例は、それぞれその内容に即して評価しなければなりません。ですから、「ぶどう酒の杯」に古代からの根拠がないのであれば、たとえ古代イスラエル人がそれを行っていたとしても、それが主によって定められた過越についての何らかの真理を反映していることにはなりません。「結婚式の習慣」の問題は少し異なります。というのも、その場合、「聖書解釈者」たちは聖書本文を取り上げ、本文が許している範囲を越えてそこから推論し、何の証拠もないのに、それが二千年にもわたるイスラエル一般の結婚習慣を教えていると主張し、さらにその誤った枠組みを新約聖書の教理に誤って適用しているからです。これが、伝統的神学(聖書的神学とは対照的なもの)の問題を一言で言い表したものです(アウグスティヌスを読めば分かります)。
「奴隷にされる」について。パウロが次の章の最初の節で述べているとおりです(もともとの手紙には、ここに実際の区切りはありません)。
キリストは、自由を得させるために、わたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。(ガラテヤ5章1節 NIV訳)
聖霊を与えられている教会時代の信者には、それ以前のどの世代の信者よりも、霊的成長のためのすばらしい機会が与えられています。私たちには聖書があり、御霊があり、霊的賜物があり、一人一人が賜物を持ち、(理想的には)互いに助け合う一つのからだの一員とされています――そして、祭を祝ったり、いけにえをささげたりするために絶えずエルサレムまで旅をする必要がないからこそ、私たちにはより多くの時間と力があります。私たちが戦っているこの霊的な戦いの中で、何もすることのできない一日を毎週取り分ける必要もありません。また、律法にある数多くの複雑な要求や命令を負わされることもありません。結局のところ、「過越を祝いたい」と思う人は、律法のくびきの下に自分を置くということは、自分の気に入ったわずかな部分だけではなく、律法全体を守る義務を負うことになるということを覚えておくべきです。
もう一度、割礼を受けようとするすべての人に言っておく。その人は律法全体を行う義務を負っている。(ガラテヤ5章3節 NIV訳
律法全体を守っていても、その一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となる。(ヤコブ2章10節 NIV訳)
はい、律法は、イスラエルをほかの諸国民から分けるという神のご計画の中で、その役割を果たしました。外面的な儀式を通して、イスラエルが神に対して聖別された民であることを示したのです。しかし、それらの儀式はその聖さを表すことはできても、実際にそれを生み出すことは決してできませんでした。今、私たちには、律法がただ予表していたイエス・キリストにあって、その実体があります。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについて証しをするものである。」(ヨハネ5章39節 NIV訳)
出エジプト12章17節についてですが、あなたが尋ねているのは、この祭を守る理由とされている部分についてでしょうか? もしそうなら、ヘブル語の接続詞 ki は、理由を表すこともできますが、強調・提示の意味でも用いられます(たとえば「実に」「まことに」といった意味です)。出エジプト23章15節と34章18節にも、この祭を守るようにとの命令がありますが、そこでは「なぜなら/というのも」に当たる部分は、祭を守らなければならない理由ではなく、祭を守る時期と結びついています。このことは、出エジプト12章17節をどのように理解すべきかについてもよく合います。つまり、ここで述べられている理由は、祭そのものの目的や意味に関するものではなく、なぜその時期に守るのかという時期に関する理由だということです。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #15:
ルギンビル先生、
メールの迷惑メールフォルダを確認しましたが、何も入っていませんでした。ただ、実際のサーバー側も確認して、何か問題が起きていないか見てみようと思います。最近も数日間まったくメールが届かなくなって、__がサポートに問い合わせを出さなければならなかったことがありました。ですから、向こう側でも何か起きているのかもしれません(ただ、私はそのあたりの仕組みをよく理解していませんが)。
今のところ、この件についての質問の大部分には答えていただいたと思いますので、できるだけ簡潔にして、これ以上あまり先生のお時間を取らないようにします。
「奴隷にされる」について。つまり律法は奴隷のくびきであり、私たちに罪を示し、聖さを表し、キリストの罪のための犠牲を指し示すためのものであったということですね。そしてキリストの犠牲は、罪からの自由を単に象徴するだけでなく、実際に私たちを罪から解放してくださり、その結果、今では「古い文字によってではなく、新しい霊によって仕える」ことができるようになった(ローマ7章6節)、という理解でよいでしょうか。それとも、まだ何か見落としているでしょうか?
出エジプト12章17節について。曖昧な聞き方をしてしまって、すみませんでした。私が気になっていたのは、「代々にわたる永遠の定め」という部分です。これを、今日でも過越を祝い続けるべきだという意味に読む人もいるのではないかと思ったのです。
結局のところ、こうしたことの一部は、私が人々と話したり、人々の言っていることを聞いたりする中で、少しつまずかされているということなのだと思います。聖書がはっきり教えているように見えることに反するそれらの考えを、本当に信じ始めているわけではないのですが、自分で気をそらされてしまっているのです。
キリストにあって、
返信 #15:
メールのことは気にしないでください。私たちには十分うまく機能する方法があります。つまり、返事がなければ、もう一度書いてください。ただし、ほかのだれかに重要なメールを送る場合は……。
「律法」について。はい。その目的はすでに果たされました。もちろん、聖書全体を読むことから益を受けるのと同じように、律法を読むことからも今なお益を受けることができます。しかし、宗教的戒律という面では、現在は効力を持っていません。
キリストは、信じるすべての人に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。(ローマ10章4節 ESV訳)
実際、律法にとどまり続けたことこそ、エルサレム教会を破滅に導いた大きな誤りでした(リンク先のへブル書シリーズ参照)。
しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。あなたがたは、日と月と季節と年とを守っている。わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。(ガラテヤ4章9-11節 NKJV)
「代々にわたる永遠の定め」について。このような表現は律法の中で、さまざまな事柄に繰り返し用いられています。ですから、これを「律法を永遠に守り続けなければならない」と読むこともできるでしょう。しかし、それが正しくないことは、私たちには分かっています。
いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、また新たに悔改めにたち帰らせることは不可能である。なぜなら、彼らは、自分たちのために神の御子をもう一度十字架につけ、さらしものにするからである。(へブル6章4-6節 NIV訳)
それは「代々にわたる永遠の定め」でしたが、その「代々」はすでに来て、そして過ぎ去りました。これはイスラエル人に対する命令であって、その当時の異邦人信者に対する命令ではありませんし、まして教会時代の異邦人に対する命令ではありません。メシヤの千年王国では、律法の多くの側面が再び設けられることになりますが、そのすべてが復活するわけではなく、また十字架以前とは異なる意味と適用を持つことになります。
疑問を持つことや質問することは悪いことではありません。いったん答えを得て、それを理解したなら、理解した真理にしっかり立ち続けることが大切です。そうすれば、絶えず「波にもてあそばれたり、いろいろな教えの風に吹きまわされたり」することがなくなります(エペソ4章14節 NIV)。
友よ、あなたのことを毎日の祈りに覚えています。
イエスにあって、
ボブ・L.
質問 #16:
こんにちは、ボブ、
こちらです:
再臨は、ダニエル9章にある反キリストとの契約からちょうど7年後に起こります。
ですから、それが携挙であることはあり得ません。もしそうなら、その時期をかなり正確に計算でき、したがって知ることができてしまうからです。
携挙は、だれも知らず、また決して知ることのできない日に起こるものでなければなりません。艱難期がいつ始まるのかも私たちには分かりませんが、それは7年間の契約によって始まります。人々が「平和だ、無事だ」と言っているその時、突然の滅びが彼らに襲いかかります。そう言うのは不信者たちであり、艱難期は特に、そしてただ彼らのために定められたものなのです。
ノアの箱舟を思い出してください。ノアとその家族は、今の信者たちに相当します。洪水(来たるべき艱難期)は、信者たちがその中で苦しむためのものではありませんでした。迫害はそれとは異なり、その目的も異なります。迫害において苦しむのはクリスチャンだけです。艱難期は不信者のために定められています。そのようなことは洪水以来ありませんでした。
(ただし、携挙の後に信仰を持つようになる艱難期の聖徒たちは大勢いるでしょう。)
私たちは携挙の時に栄光のからだを受けます。一瞬のうちに、私たちは変えられるのです。
それが間もなく起こり、あなたもそこにいることを願っています。
あなたはかつて、この問題について正しく信じていました。ほかにも多くのことについて、あなたは正しいです。
神があなたを祝福してくださいますように、兄弟。
こんにちは、ボブ、
私たちの見解が異なるのは、終末論だけだと思います。
私は、艱難期前携挙と千年王国前再臨を確信している信者であり、今のところ、それらを捨てるべき理由を何一つ見いだしていません。
これらの教えは、私の信仰を大いに励ましてくれます。
私は、これらのことは初代教会で教えられていたものの、カトリックが教会を支配するようになった時に捨て去られたのだと考えています。ダービーがこの考えやディスペンセーション主義の基礎となる要素を考案したのではありません。彼はそれらを取り戻したのです。
カルヴァン主義もカトリック教会も、それらを否定しています。どちらも間違っています。ある面では、宗教改革はカトリック教会の異端に対する行き過ぎた反動でしたが、どちらも初代教会の終末論を回復することはありませんでした。
私は、無千年王国説と千年王国後再臨説(そして、さらに悪いことに過去主義)のほうが、実際には異端だと考えています。
これらはどれも信仰にとってはるかに危険であり、再臨と黙示録全体を事実上霊的なものとして解釈することによって、霊的な油断を助長します(私は、黙示録は彼らが教えるよりもはるかに文字どおりに理解すべきものだと信じています)。
携挙は再臨とは別の出来事です。なぜなら、聖書における両者の描写が異なっているからです(私たちは引き上げられて空中で主に会い、その時から後はいつまでも主と共にいるのに対し、再臨では主が地上のオリーブ山に来られます)。また、この出来事の日や時はだれにも分からないからです(携挙はいつ起こってもおかしくないのに対し、再臨はダニエルの第70週の終わりに起こることが分かっており、そこには正確な日数が示されています)。
したがって、携挙の時を計算することはできません。一方、再臨の日はかなり正確に計算することができます。
聖書は、携挙と再臨が別々の出来事であり、実際に起こる様子もまったく異なることを明確に裏づけています。
私たちが引き上げられて空中で主に会い、その5分後にまた地上へ戻って来るというのは、まったく理にかなっていません。
さらに……聖書は、私たちは御怒りに定められてはいないと述べています。また、携挙はノアの箱舟の予型であり、同じ目的のために、まったく同じように働くことを示唆しています。
艱難期(それまで歴史上起こったどんなことよりもはるかにひどいもの)の唯一の目的は、不信仰な世界を罰することです。信者がそのような激しい御怒りを受けるように定められていないことは明らかです。
私はこのことを固く確信しています。聖書がそれを明確に裏づけているので、そう信じないわけにはいきません。
こんにちは、ボブ、
聖書は、あなたの教理を非常によく裏づけています。私はいつも、もし見かけ上の矛盾があるなら、それは解釈がどこか間違っているからだ、と言っています。
私たちが信仰を養い、それを生きたものとして保ち続ける限り、救いを失うことを恐れる必要はありません。
問題なのは、私たちが犯す過ちではありません。大切なのは、あきらめないことです。
今日私たちが目にしているものの多くは、カルヴァン主義と深く関係しています。それが五特質のうち一つだけを受け入れるものであれ、五つすべてを受け入れるものであれ、同じことです。
カルヴァン主義は、アウグスティヌス主義を装い直したものにすぎません。マニ教的なグノーシス主義の異端です。
神があなたを祝福してくださいますように、兄弟。
返信 #16:
あなたの弁明には非常な熱意がこもっています。私は以前にも、この問題について携挙説を支持する人たちに同じような熱心さがあることに気づいてきました(ローマ10章2節)。これは「強く主張しすぎる」という類のもので、もし私自身の経験が参考になるなら、自分でもその立場の根拠が非常に弱いことを分かっていながら、ほかの人たちを納得させることができれば、自分自身も安心できるというところから来るものです。というのも、私もかつてはこの誤った教理を信じていたからです――自分で真剣に聖書を読むようになるまでは。
あなたが聖書の聖句を一つも引用していないことに気づいています。それも無理はありません。なぜなら、艱難期前の復活を教えている聖句は、聖書には一つもないからです。聖書における復活についての記述は、すべてキリストの再臨と結びついています――なぜなら、復活が起こるのはその時だからです。教父たちの言葉を釈義することを考える前に(これほど意味のない作業を私はほかに思いつきません)、まず、このことについて私たちの主が何と言っておられるかを見てみましょう。
「しかし、その時に起る艱難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」(マタイ24章29-31節)
これを、聖書のほかの箇所で預言されている超自然的な暗闇(イザヤ13章9-13節, 34章4節, 60章1-3節; エゼキエル32章7-10節; ヨエル2章2節, 10節, 31節, 3章15節; ゼパニヤ1章15-18節; ゼカリヤ14章6-8節; マタイ24章29節; マルコ13章24-25節; 使徒行伝2章17-21節; 黙示録6章12-13節)と比較し、さらに、御使いのラッパが復活を告げる第一テサロニケ4章その他の復活の記述(第一テサロニケ4章16節; 第一コリント15章52節参照)、そしてここにあるそのほかのすべての細部とも比較してみれば、聖書における復活の描写はすべて互いに一致していることが分かるでしょう……そして、それらがすべて再臨と結びついていることも分かるでしょう。
以上が要点を簡潔にまとめたものです。さらに詳しく調べたいのであれば、以下にいくつかリンクを挙げておきます――しかし、マタイ24章だけでも十分です。
「終末論に関する諸問題 XXIV:『携挙』その他」<英文>
「艱難期前の『携挙』:いわゆる『切迫性』その他の誤った根拠への反論」<英文>
「艱難期前携挙という偽りの教えの危険性」<英文>
「携挙はいつ起こるのか?」<英文>
「Parousia(パルーシア)」<英文>
「艱難期前携挙説の起源と危険性」<英文>
「携挙はない」<英文>
「信仰を脅かす三つの偽りの教理」<ペテロシリーズ#27>
「艱難期前携挙に置かれた誤った信頼」<英文>
「小羊の花嫁の復活(来たる艱難期第5部)」<A4版印刷本「来たる艱難期第五部」の94頁->
「艱難期前『携挙』という誤謬を退けるべき理由」<英文>
イエスにあって、
ボブ・L.
[1] 第1部「終末の時代に関する聖書の資料:旧約聖書」のIV.2.a参照。