飢餓と信仰 <改訳版>
終末論の諸問題 XCVII
からの抜粋翻訳
質問 #1:
ルギンビル博士、こんにちは。
私はいつも寝る前に聖書を読んでいるのですが、ルカ4章25節のこの箇所に出会いました。イエスがこのことを言われたのは、黙示録11章にモーセとエリヤについて記されている、将来起こることの予表としてだったのでしょうか。このような聖句にほとんど毎日のように出会うように思います。そして今のところ、それらが将来の艱難期に当てはまることに気づきます。繰り返しになりますが、私は聖書が言っていないことを言おうとは思っていません。自分の発言については慎重でありたいと思っています。ですから、もう一度お尋ねしますが、ルカ4章25節でイエスが言われたことは、艱難期がもたらすこと、すなわち世界規模の飢饉を指しているのでしょうか。
ご助力と専門的なご教示を本当にありがとうございます。
いつも祝福がありますように。また、主があなたを祝福し、守ってくださいますように。
あなたの友より
返信 #1:
ルカ4章25節について言えば、二人の証人がこれらの力を持つことは確かです。
この二人には、彼らが預言している間、雨が降らないように天を閉じる力があり、また、水を血に変え、望むたびにあらゆる災害をもって地を打つ力がある。(黙示録11章6節 NKJV)
また、「飢饉」が「第三の騎手」のもたらす有害な影響の一つ、すなわち艱難期における全般的な傾向の一つとなることも確かです。
(5)そして彼(すなわち、小羊)が第三の封印を解いたとき、私は第三の生き物が「来て見よ!」と言うのを聞いた。そして見ると、見よ、黒い馬がいて、それに乗っている者は手にはかりを持っていた。(6)すると、四つの生き物の真ん中から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦一クォートは一デナリ、また大麦三クォートも一デナリ[一デナリは一日分あるいはそれ以上の賃金に相当したので、これは異常なほどの高値です]。しかし、油とぶどう酒のことは[少しも]気にするな」。(黙示録6章5-6節)
そして、地の四分の一[すなわち、反キリストの王国]を支配する権威が彼ら[すなわち、四人の「騎手」全体]に与えられ、剣[戦争と革命、すなわち最初の二人の騎手]と、飢饉[第三の騎手]と、死[第四の騎手]とによって、さらには地の獣たち[すなわち、この四つの傾向をもたらす者としての反キリストとその偽預言者]によって、人々を殺すことになった。(黙示録6章8節後半)
したがって、艱難期には世界規模で経済的な締めつけが起こり、経済的困窮が生じ、また、場所によって、時によっては飢饉も起こることになります。私たちの主も、同じことを直接こう語っておられます。
また、あちこちに大きな地震があり、飢饉や疫病が起こり、恐ろしい出来事や天からの大いなるしるしがあるであろう。(ルカ21章11節 NKJV訳)
しかし、世界全体を一様に襲う飢饉ということになると、上の箇所で「飢饉」が複数形になっていること、モーセとエリヤが艱難期の前半にこの種の災害をもたらすことになっているように見えること、また、バビロンが滅ぼされる時にも比較的ぜいたくな暮らしをしていると描写されていること(黙示録18章1節以下参照)――そしてその時になって初めて、「彼女の災害、すなわち死と悲しみと飢饉とが、一日のうちに来る」(しかも、それは艱難期の終わり近くのことです)――これらのことは、全般的な食糧不足は起こるものの、その程度には、時期や地域によってかなり大きな違いがあることを示していると私は考えます(警告としてのラッパのさばきについても参照してください。そこでは非常に大きな混乱と破壊が起こり、食糧供給にも当然影響を及ぼさずにはいられませんが、これらのさばきはどこにおいても一様に起こるわけではないようです)。
しかし、一貫して普遍的である一つのことは、神に属する者たちに対する神の恵みと憐れみです。世俗的な観点からすれば、イスラエルの子らがエジプトに下った十の災害の影響を受けないことなどあり得ませんでしたが、実際には、彼らはまったくその影響を受けませんでした――彼らに対する神の恵みと憐れみのゆえです。また、その時が来たとき、彼らは紅海を背にして逃げ場を失い、はるかに強大なエジプト軍によって滅ぼされることなくエジプトから脱出することなど不可能でした。しかし実際には、彼らは一人の髪の毛一本さえ傷つけられることなく完全に逃れ、その一方で彼らの敵は根こそぎ滅ぼされました――神の力と慈しみのゆえです。
出エジプトは、艱難期のために意図的に示されたひな型であり、艱難期を聖書的に予表するものです(次のリンクを参照:「反キリストの予型としてのパロ」<A5版印刷本の「来たる艱難期第三部B」の15頁>、「出エジプトとの類似」<A4版印刷本「来たる艱難期第五部」の49頁>、「出エジプトとの類比」<A4版冊子「来たる艱難期第七部」の42頁->)。ですから、イスラエルの子らがあらゆる面で必要を満たされたように――海の向こう側に渡り、約束の地に入るまでの間も、必要な食物と水をすべて与えられたことを含めて――私たちもまた、たとえ奇跡的な介入が必要になったとしても、私たちの主が必要を満たしてくださることを確信して頼ることができます。主は、私たちのために備えをする「ヨセフ」を先に遣わされるかもしれませんし、マナを降らせ、からすを遣わし、油のつぼと粉のかめを尽きないようにされるかもしれません――あるいは、主が選ばれるどのような手段であっても用いられるでしょう。私たちのなすべきことは、その具体的なことについて前もって何も知らされていなくても、何があろうとも、主がそのようにしてくださると信頼することです。この正しい適用こそが、「聖徒たちの忍耐と信仰」なのです(黙示録13章10節。黙示録14章12節参照)。
飢饉の時には、神はあなたを死からあがない、戦いの時には、剣の力からあがなわれる。(ヨブ5章20節 NKJV訳)
あなたは滅びと飢饉とを笑い、地の獣を恐れることはない。(ヨブ5章22節 NKJV訳)
見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、その憐れみに望みを置く者の上にある。彼らの魂を死から救い、飢饉の時にも彼らを生かしておくためである。(詩篇33篇18-19節 NKJV訳)
主は正しい者の日々を知っておられ、彼らの嗣業はとこしえに続く。彼らは災いの時にも恥を受けず、飢饉の日にも満ち足りる。(詩篇37篇18-19節 NKJV訳)
わたしは若かった時もあり、今は年老いた。しかし、正しい者が見捨てられ、その子孫がパンを乞うのを見たことがない。(詩篇37篇25節NKJV訳)
主は正しい者を飢えさせず、悪しき者の欲望をくじかれる。(箴言10章3節 NIV訳)
正しく歩み、正しいことを語る者、ゆすりによる利得を退け、その手を押さえて賄賂を受けず、殺人の企てに耳をふさぎ、悪を見ることに目を閉じる者――このような人は高い所に住み、その避け所は山のとりでとなる。そのパンは与えられ、その水は絶えることがない。(イザヤ33章15-16節 NIV訳)
彼らは飢えることもなく、渇くこともない。暑さも太陽も彼らを打つことはない。彼らを憐れむ方が彼らを導き、水の泉のほとりへと彼らを導かれるからである。(イザヤ49章10節 NKJV訳)
だれが罪に定めるのか。死んで、さらによみがえられ、神の右におられ、また私たちのためにとりなしてくださるキリスト・イエスである。だれが私たちをキリストの愛から引き離すのか。患難か、苦しみか、迫害か、飢饉か、裸か、危険か、剣か。こう書いてあるとおりである。「あなたのために、私たちは一日中死に渡され、ほふられる羊のようにみなされている。」しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となっている。私は確信している。死も命も、御使いたちも支配者たちも力ある者たちも、現在のものも将来のものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。(ローマ8章34-39節 NKJV訳)
私たちの主イエス・キリストにあって与えられている守りと救いを確信して信頼しつつ、
ボブ・L.