天の御国の鍵
<質問と答え「Enoch’s Walk with God and Some Questions in the Gospels」からの抜粋翻訳>
質問 #2:
こんにちは。マタイ16章19節、すなわち「天の御国の鍵」と、「地上でつなぐこと・解くこと」と「天でつなぐこと・解くこと」について、ご説明いただけないでしょうか。…
返信 #2:
マタイ16章19節の「天の御国の鍵」について
マタイ16章19節の「天の御国の鍵」については、まず、「つなぐこと」と「解くこと」、すなわち鍵の本来の働きは、その鍵自体と結び付けて理解されなければならないことに注目すべきです。この議論の直前で、イエスはペテロに教会が建て上げられていくことについて語っておられました。それゆえ、この鍵と、それによる「つなぐこと」「解くこと」の力もまた、教会の拡大と関係していることは疑いありません。さらに、イエスは天の御国について、そして悔い改めとご自身への信仰を通してそこへ入ることを宣べ伝えておられました(マタイ4章17節)。したがって、「御国の鍵」とは、御国へ入る道を開くものであり、「解かれた者」は自由にそこへ入ることができ、「つながれた者」は入ることができない、ということは十分明らかです。私たちが天の御国へ入る道は、神の御子、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストへの信仰以外にありません。ですから、その信仰を可能にする「鍵」とは、キリストの御人格と十字架上の御業についての福音のメッセージ、すなわち私たちの信仰の対象となる情報であるに違いありません。
御国の鍵を、御国に入るための福音と理解するこの解釈は、イエスが使徒たちに与えられた福音宣教という基本的使命について、聖書全体が教えていること(マタイ28章18-20節; ルカ24章46-49節; 使徒行伝1章7-8節, 9章15節, 22章21節, 26章15-18節; マタイ10章5節以下; マルコ6章8-11節; ルカ9章3-5節, 10章1-20節参照)と完全に一致しています。また、私たちがどのようにしてクリスチャンとなるのかについて聖書が語ることとも調和しています。その一例がヨハネ3章です。そこでは、私たちは「水と御霊によって」新しく生まれなければならないと言われています。この「水」は、御霊によって与えられる、いのちを与えるさわやかなものとしての神の御言葉を表しています(これは聖書でしばしば見られる比喩です。イザヤ55章1節; ヨハネ7章37-39節; 第一コリント10章3節; エペソ5章26節; テトス3章5節; 第一ペテロ3章21節; 黙示録22章17節など)。そして、この御言葉は、福音を信仰とへりくだりをもって受け入れる心に対して、現実のものとなり、理解されるようになります。これこそ真のキリスト教的認識論です。
福音は、人を二つに分けるものであることにも注意してください。ある人は喜んでそれを受け入れますが、別の人はそれを拒み、心をかたくなにします。ですから、福音が語られるとき、ある人々は「解かれ」、別の人々は、自らの否定的な応答によって「つながれ」るのです。これは、マタイ13章19節で、悪魔が御言葉を理解される前に「奪い去る」と言われていることとよく似ています(つまり、その人は福音のメッセージに応答しようとせず、御霊の働きに心を開いて、福音というさわやかな「飲み物」を受け入れないのです)。確かに、この「鍵」はとりわけ使徒たちに委ねられました。しかし、それはすべての信者も用いることができます。実際、教会の土台を築くという点では十二使徒の働きが基礎的なものであったとはいえ(エペソ2章20節; 黙示録21章14節; 第一コリント3章9-11節参照)、私たちすべては、イエス・キリストの福音を取り次ぐよう召されているのです。
「鍵」という比喩は、黙示録1章17節でも、やや異なる意味で用いられています(そこでは「死とハデスの鍵」とされています)。しかし、その箇所もまた、イエス・キリストへの信仰を通して救いの機会が開かれることを示しています。この鍵について、私は『来たる艱難期』第1巻「序論」で次のように書きました。<訳注:原文は「黙示録1章17節」 となっていますが、「死とハデスの鍵」が出てくるのは黙示録1章18節です。>
私たちの主イエス・キリストが持っておられると言われる「鍵」とは、人が死と刑罰という共通の人間の運命から逃れることができるのは、ただキリストを通してのみであるという事実を示しています(ヨハネ14章6節)。神はその驚くべきあわれみによって御子を私たちのために与え、イエスは私たちのために死んでくださいました。それゆえ、この運命は、だれでもキリストに立ち返ることによって変えることができます。その人は罪と死の力から贖われ(ローマ8章1-4節; ガラテヤ3章13節, 4章5節; エペソ1章7節; コロサイ1章14節, 20節; へブル1章3節; 第一ペテロ1章18-19節; 黙示録1章5節)、その代わりに永遠のいのちを与えられるのです(第一ヨハネ5章11-13節)。ここで「鍵」が複数形で用いられていることにも意味があります。イエス・キリストご自身がその鍵ですが、私たちはその方を受け入れ、従わなければなりません(すなわち、恵みによって与えられたその鍵を受け取り、それを用いるために、その方に信仰を置かなければならないのです)。主はすでに、私たちすべてのために牢獄の扉の錠を解き、それを開いてくださいました(イザヤ42章7節, 61章1節参照)。しかし、私たちはなお、その方に従って外へ出て行かなければなりません(使徒行伝12章9節参照)。功績はすべて主のものであり、すべての働きを成し遂げられたのも主です(エペソ2章8-9節)。しかし、私たちが解放されるためには、その御業に応答しなければなりません(ヨハネ1章11-13節; ローマ10章8-11節)。主はヨハネ3章5節で、私たちが新しく生まれるとき、「水と御霊によって」救われると言われました。それは、一方では御言葉という水、すなわち福音のメッセージを信じ、それに応答すること、他方では御霊の力によって、イエス・キリストにあって神が私たちを救ってくださることを意味しています(エペソ5章26節; 黙示録22章17節)。同じように、「鍵」が複数形で用いられていることも、この極めて重要な真理を示しています。すなわち、救いには、神が成し遂げてくださる側面と、それに対して人間が信仰によって応答する側面の両方があるということです。神は御子を犠牲としてささげることによって、私たちのために考え得る限り最大のことを成し遂げてくださいました(ローマ5章6-8節; 第二コリント9章15節; エペソ2章8節)。しかし神は、私たちの自由意志を無視して、私たちの意に反してご自身を信じるよう強いることはなさいません(第一テモテ2章4節; 第二ペテロ3章9節; 黙示録2章21節参照)。
霊の戦い
からの引用:
質問 #4:
ルギンビル博士、こんにちは!私はこれまで、信者には神の力によって悪霊を追い出すことができると教えられてきました。しかし最近、一人の牧師(ジョン・マッカーサー)が、「私たちにはそれはできないし、そうしようと試みるべきでもない」と語っているのを聞きました。彼は、闇の国に対する権威を持っておられるのはイエスだけであり、悪霊を追い出す力は、使徒たちが確かに主の真の代理者であることを証明するために、主が特別に彼らへお与えになったものだと言っています(すなわち、肉体の癒やしや悪霊追放など、主がなさったことと同じことを行うことができたということです)。また彼は、聖書は悪霊を追い出すことを「信者」のしるしではなく、「使徒」のしるしとしているとも述べています。さらにその牧師は、信者は悪霊やサタンを「縛る(bind)」ことを試みるべきでは決してなく、そのようなことは愚かなことだと言っています。なぜなら、サタンは今も食い尽くすべき者を捜し求めて歩き回っているからです。彼によれば、悪霊につかれた人や悪霊の働きに直面したとき、最も良い対処は、それを祈りや断食をもって主に委ねることだということです。先生は、この牧師の見解に同意されますか。ありがとうございます!
神の祝福がありますように。
返信 #4:
ジョン・マッカーサーは、概して言えば、教理に関する良い情報源です。もちろん、私たちがお互いの教えのすべてを支持し合うという意味ではありません(たとえば、彼は艱難期前携挙説の立場です)。しかし、彼は保守的福音主義の中でも最良のものの一つを代表する人物だと言えるでしょう。
この点については、あなたがお伝えになった限りでは、私は彼の見解に同意します。「しるしの賜物」についての私自身の立場は、それほど断定的ではありません(とはいえ、その差はわずかです)。私は、神がなさることを制限したり、神が何をしておられるかについて、あまりにも断定的に語ったりしないよう注意しています。終わりの時代が始まる数年ほど前には、そのような賜物のいくつかが再び正当に働き始めることになるのではないかと私は考えています(もちろん、彼の神学体系では、信者は艱難期には地上にいないことになっています)。しかし、「縛る(binding)」という行為については(私の理解では、マタイ16章19節と18章18節は、悪霊について語っているのではなく、福音によって、それを受け入れる人々を真理によって「解放する」ことを語っているのです。「Binding」を参照)、あるいは悪霊追放についても、少なくとも神から非常に具体的で個人的な導きを受けていない限り、それらに関わらないことは非常に健全なことだと思います。今日、悪霊追放や悪霊への干渉と称されるものの、すべてではないにしても、およそ99%は本物ではありません。したがって、そのような見せかけの奇跡的活動に関わることで、信者が悪魔の策略に引き込まれてしまう危険性は、そこから得られるかもしれない利益より、はるかに大きいのです。一般的に言えば、この種の力や賜物や働きについては、「私はミズーリ州の人間です(I’m from Missouri)」という言い方をしたいと思います。つまり、「実際に見せてもらうまでは信じない」という意味です。もし神が本当にそのような賜物を与えておられるなら、それを疑いようのない形で示すことは極めて容易なはずです。しかし私は、使徒時代に見られたような超自然的な賜物について、そのような明白な実例を一度も見たことがありません。
現代の悪霊追放や、それに類する賜物の正当性に疑問を抱くもう一つの理由は、現在の「基本的な状況(ground rules)」が、イエスや使徒たちの時代とは異なっているように思われることです。当時は、ある人が悪霊につかれていることは、明らかだったようです。しかし今日では、私たちはさまざまな情報媒体に接することができますが、それでも「この人は間違いなく悪霊につかれている」と断言できる人を、私は一度も見たことがありません。もちろん、悪魔とその配下の悪霊たちは、今もなお、心を彼らに明け渡した未信者に取りついていることは間違いないでしょう。しかし今日では、彼らはもっと巧妙な方法で人々を操っているように思われます。それが悪魔の戦略的判断によるものなのか(その可能性もあります)、あるいは(私はこちらのほうがはるかに可能性が高いと思いますが)現在行われている聖霊の抑制の働きの結果なのか(SR2「聖霊の抑制の働き」、および CT2B「聖霊の抑制の働き」を参照)、いずれにしても、一つの疑問が生じます。もしその問題がすでに抑えられているか、あるいは私たちには見えないのであれば、それに対処するための特別な賜物が、なぜ今必要なのでしょうか。使徒たちの時代以来、多くのことが変わりました。それは神のご計画によるものです。特別な賜物や奇跡、あるいは「霊的戦い」に心を奪われている信者たちは、今日そのような賜物や奇跡や特別な力は神によって与えられていないという意味で誤った道を歩んでいるだけでなく、その誤った強調のために、本来神から与えられた務めを果たせていない場合がほとんどです。私たちは、霊的成長、霊的前進、そして霊的生産を通してイエス・キリストに栄光を帰すために、この地上に置かれています。そのような空想を追い求めるために、自分の時間や霊的資源を誤って用いることは、教会に何の益ももたらさず、ただ私たちの永遠の報いを損なうだけなのです。
この問題については、次の箇所でも詳しく述べています:
悪霊追放(Exorcism)<英文>
悪霊の影響(Demon Influences)<英文>
サタンの戦術的方法論(SR4)<リンク先ファイルでは129頁-/あるいはA4印刷本「サタンの反乱」の319頁-を参照下さい>
霊の賜物と霊的成長<英文>
霊的戦い I<英文>
サタンの世界体制<A4印刷本「サタンの反乱」では172頁-参照下さい>
すべての王の王、すべての主の主であられる、私たちの愛する主イエス・キリストにあって。
ボブ・ルギンビル
霊の戦いV
からの抜粋翻訳
質問 #6:
ペテロや使徒たちに与えられた「つなぐ権威」と「解く権威」について論じる際、ティーセンは、これをエレミヤ書1章10節と結び付け、「宣言的権威(declarative power)」と呼んでいます。これは非常に的を射た見解のように思えます。この箇所は、マタイ18章18節のような聖句を理解する上でも当てはまるように思われますが、先生はこの見解についてどうお考えでしょうか。
返信 #6:
エレミヤの場合には、そのとおりでした。すなわち、彼が神の御言葉を預言したことによって、そのような権威が働いたのです。実際に引き抜き、引き倒し、滅ぼし、あるいは建て、植えたのは、神ご自身とその御言葉でした。その意味では、確かに、彼ら(あるいは私たち)が福音を伝えるとき、その人が真理にどう応答するかによって、私たちは「つなぎ」、あるいは「解く」ことになります。しかし、私たちが「だれをつなぐか、だれを解くか」、あるいは「いつ、どのようにそうするか」を決めるのではありません。私たちはただ、聖霊が用いられるための神の御言葉を取り次ぐだけです。それは、エレミヤがしたことと同じです。
しかし、ティーセンが言おうとしているのは、この意味ではないように私には思われます。