2. アダムの創造
<「聖書の基礎第3部A: 人間についての研究」 ロバート・D・ルギンビル博士著 からの抜粋翻訳>
したがって、「かたち(image)」と「似姿(likeness)」の問題に関して言えば、創世記1章26-27節に記されている人間(アダムとエバ)の創造は、次の二つの一般原則に要約できます。
私たちは皆、神の像に造られています。 すなわち、私たちは皆、同一種類の霊的本質を共有しており、その最も顕著な特徴は、権威を理解し、それを行使し、それに応答する能力です。その目的は、地上において神の忠実な管理者として従順に歩み、イエス・キリストのために生き、働くことにあります(すなわち、神に積極的に応答することのできる真の「自由意志」です)。
私たちは皆、神の似姿に造られています。 すなわち、私たちは皆、それぞれ固有の人格を持ち、神の権威に応答するという個人的責任を負っています(すなわち、各人が自らの自由意志をどのように用いたかについて、神の前で最終的な責任を負うということです)。
創世記1章26-27節は、このような創造主と被造物である人間との関係を一般的に明らかにしていますが、創世記2章7節では、最初の人間アダムが実際にどのように創造されたのかが詳しく記されています。
主なる神は、その土地のちりで人(すなわちアダムの体)を形造り、その鼻にいのちを与える息(すなわち人の霊)を吹き込まれた。こうして人は生きる者となった。(創世記2章7節)
創世記2章7節の記述が、創世記1章26-27節に加えて与えられていることは重要です。というのも、前者は主として人間の霊の本質的な側面について教えているのに対し、後者はアダムの肉体の創造と、その肉体に人の霊を吹き込むことによって神が命を与えられた出来事を私たちに示しているからです。
創世記2章7節では、アダムの体は土から「形造られた」と記されています。この最初の人間の体を造るために用いられているヘブル語の動詞は yatsar(ヤーツァル:יָצַר) です。一方、創世記1章26-27節では、’asah(アーサー:עָשָׂה) と bara’(バラー:בָּרָא) という二つの異なる動詞が用いられており、それぞれ「造る」と「創造する」を意味します。旧約聖書では、これら三つの創造を表す動詞の意味には重なる部分もありますが、とりわけ神による人間の創造については、完全に同義ではありません。その点で、それぞれの動詞は概して次のような意味を持っています。
yatsar(ヤーツァル:יָצַר):「形造る」―一般に肉体について用いられる。
bara’(バラー:בָּרָא):「創造する」―一般に霊について用いられる。
‘asah(アーサー:עָשָׂה):「造る」―一般に肉体と霊を備えた生きた人間全体について用いられる。
この三つの動詞の用法は、イザヤ書において一つにまとめられ、人間が何のために創造されたのかが非常に明確に述べられています。
わたしの名で呼ばれるすべての者を、わたしの栄光のために、わたしは創造し、形造り、また造った。(イザヤ43章7節)
このイザヤ書の箇所には、これら三つの創造を表す動詞の意味に基づいた論理的な進行が見られます。まず人の霊が創造され、次に肉体が形造られ、最後に神がその霊を肉体に吹き込まれることによって、人は「造られた」者となります(まさに創世記2章7節の記述どおりです)。
これが実際の創造の過程であることは、創世記2章7節の本文を調べれば明らかです。まず、アダムの創造者は「主なる神」(yhvh ‘elohiym〔ヤハウェ・エロヒーム:יהוה אלהים〕)であると記されています。三位一体の三つの位格はいずれも「主」と呼ばれますが、創造における御父の代理者であり実行者は、私たちの主イエス・キリストです。このお方こそ、悪魔との戦いを導き、最終的にはサタンに代わって世界を支配する者として選ばれたお方です(ヨハネ1章3節; コロサイ1章16節; へブル1章2節)。そのとき主は、永遠に完全な神性を保持したまま、肉体と霊を備えた真の人間、すなわち神人(God-Man)として統治されます。
創世記2章7節の文脈は、アダムの体が真に物質的な存在であることをあらゆる面で強調しています。①彼は「土のちり」から造られました。これは、その物質的起源を示しています。②彼(すなわちその体)は「形造られた」とありますが、ここで用いられているヘブル語の動詞は yatsar(ヤーツァル:יָצַר) であり、この形成の可塑的な性質を強調する語で、陶器師が器を形造る場合によく用いられます(イザヤ29章16節など)。③さらに、「アダム」(’adham〔アーダーム:אָדָם〕)という名前そのものが、「土」(’adhamah〔アダーマー:אֲדָמָה〕)という語と密接に関係しており、人が自ら造られた地と深く結び付いていることを示しています。
注目すべきことに、このような物質的で、形造られ、土と結び付いた肉体の創造だけでは、生命は生じません。生命は、主なる神がこの新たに形造られた肉体の中に「生きた霊」を入れられた後にはじめて生じます。さらに、神が最初の人に人の霊(「いのちの息」、すなわち「いのちを与える息」)を吹き込まれた結果として初めて、アダムは「生きる者」となりました。天使たちによって目撃され、アダムのすべての子孫のために記録されたこの創造の過程は、①アダムが霊的存在であると同時に物質的存在でもあること、②人の霊も人の体も、本来互いに切り離されて存在するようには造られていないことを、極めて明確に示しています。
体から霊が離れているなら、その体は死んでいる。それと同じように、行いのない信仰も死んでいる。(ヤコブ2章26節)
私たちは知っている。もしこの地上の幕屋である私たちの体が取り壊されても、神から与えられる住まい、すなわち人の手によらず造られた、天にある永遠の住まいがあることを。この幕屋にいる間、私たちはうめきつつ、天から来る住まいを着ることを切に望んでいる。たとえこの幕屋を脱ぎ捨てても、私たち〔すなわち私たちの霊〕が裸〔すなわち体のない状態〕でいることにはならない。(第二コリント5章1-3節)