政治活動vs聖書に基づくキリスト教
<「Political Action versus Biblical Christianity」からの抜粋翻訳>
質問 #3:
先生の学識に裏づけられた教えに、心から感謝しています。同性愛行為について述べている、インターネット上の記事の次の抜粋について、先生のご意見をお聞かせいただけますでしょうか。この人の論証では、arsenokoites や malakoi といったギリシヤ語が重要な役割を果たしているようですが、私はそれらの語について何も知りません。しかし、私の心に与えられている御霊の照らしと、私自身が知っている限りのことから判断すると、この記事は聖書の真理を大きくゆがめているように思えます:
同性愛者を非難するために用いられる六つの聖書箇所:
創世記19章5節
「彼らを私たちのところへ連れ出せ。私たちは彼らを知りたいのだ。」
「知る(know)」という語は、単に「知る」という意味にすぎない。ヘブル語原文には同性愛を示唆するものは何も存在しない。その後の聖書においても、ソドムの罪として同性愛が挙げられている箇所は一つもない。現代の多くの翻訳は、ソドムの人々が同性愛者であったという虚偽を作り上げるために、本文へ言葉を付け加えている。「ソドミー(sodomy)」という語は聖書には存在しない。一般の人々は、聖書が男性同士の性的関係を「ソドミー」として明確に非難しており、ソドムの町が滅ぼされたのは同性愛のゆえであり、それが聖書の中で最悪の罪と考えられていると思い込んでいる。しかし、こうした考えには聖書の中に何の根拠もない。
第一コリント6章9節
「不義な者は神の国を受け継ぐことはありません。思い違いをしてはいけません。淫行を行う者、偶像礼拝をする者、姦淫を行う者、女々しい者、同性愛者、盗人、貪欲な者、酒に酔う者、ののしる者、人をだます者は、神の国を受け継ぐことはありません。」
「女々しい者」および「同性愛者」と訳されているギリシヤ語は、本来そのような意味ではない。
第一テモテ1章9-10節
「律法は、正しい人のためではなく、不法な者、反抗する者、不敬虔な者、罪人、汚れた者、俗悪な者、父や母を殺す者、人殺し、淫行を行う者、同性愛者、人さらい、偽りを言う者、偽証する者、その他健全な教えに反するあらゆる者のために定められている。」
「同性愛者」と訳されているギリシア語は、本来そのような意味ではない。「同性愛者」「性的倒錯者」あるいはそれに類する語として訳されているギリシヤ語 arsenokoites は、「男」と「寝床」を意味する二つの語から作られた語である。この語は聖書のほかにはどこにも見られず、パウロ時代の同時代ギリシヤ語文献にも発見されていない。そのため、その意味は分かっていない。この語は意味の不明確な語である。おそらく、ポンペイその他の発掘調査からローマ世界で一般的であったことが分かっている、女性客を相手にする男性売春婦を指しているのであろう。
また、「柔らかい(soft)」という語は「女々しい」という意味ではない。第一コリント6章9節で「女々しい」と訳されている語は、ギリシヤ語 malakoi であり、「柔らかい」「傷つきやすい」という意味である。この語は、マタイ11章8節およびルカ7章25節では衣服について「柔らかい」と訳され、マタイ4章23節および9章35節では「病気」という意味で用いられている。新約聖書ではそれ以外には用いられておらず、性的指向を示唆する意味はまったく含まれていない。第一コリント6章9節の malakoi は、おそらく「弱い者」「流されやすい者」「頼りにならない者」、あるいは「勇気や確固たる信念を欠く者」を意味しているのであろう。malakoi を「女々しい」と訳すのは誤りであり、無知であり、女性を侮辱するものであり、古代における用法を今日の「女々しい」という意味と比較しても、そのような訳を正当化することはできない。
返信 #3(前半)
私はそのウェブサイトについては知りませんが、これとよく似た議論は以前にも耳にしたことがあります。全体的な印象として言えば、世俗的な人が純粋に学問的な研究対象として聖書を読んだとしても、同性愛行為の実践が聖書によって非難されているという結論に至らざるを得ないように私には思われます。この結論に達するために、この著者が引用している箇所について、広範で詳細な釈義を行う必要はありません。私が知る限り、どの英語訳聖書を読んでも、そのことは自明だからです。そして、それらの翻訳は、この著者の見解に都合がよいように、これらの箇所をゆがめようとする努力など何一つしていません。
確かに、聖書には、英語訳を少し読んだだけでは、その真の意味や重要性がすぐには分からない箇所が数多くあります。聖書は、その文脈、歴史的背景、そして何よりも原語に基づいて理解されなければなりません。そのため、「難解な箇所(problem passages)」、すなわち、聖書全体の教えについてこれまで自分が信じてきたことと矛盾しているように思われる箇所に出会うことがよくあります。それは、その箇所自体を誤解しているためである場合もありますが、聖書全体にわたるある教理や原則について、より広い誤解を抱いているためであることもあります。後者の場合、「難解な箇所」は、実は私たちにとってこの世で最も良い友となります。なぜなら、もし私たちの先入観と一致しない御言葉の箇所を御霊が用いてくださらなければ、私たちは自分の考えを改め、真理を理解するようになることが決してなかったかもしれないからです。
しかし、極めてまれなことがあります(実際、私は一度も出会ったことがありません)。それは、一群の聖書箇所が、どれも同じことを教えているように見えながら、実際にはそうではないという場合です。これは、聖書的裏づけが実際には存在しない教理や教えについて、「難解な箇所」が真理を求める人を真理へと導き、聖書に支えられていない誤った教理から離れさせるという場合とは、まったく別のことです。この著者は、この二つを同じものとして扱おうとするという修辞上の誤謬を犯しています。もし聖書が同性愛行為についてまったく直接語っていないにもかかわらず(例えば、薬物乱用については聖書は直接扱っていません)、教会の教師たちが「聖書はそう教えている」と主張して、それに反対する説教をしているのであれば、それは一つの問題でしょう。しかし実際には、その著者自身が引用している箇所を、公平な立場で英語訳のまま読めば、一見して明らかに理解できる内容が示されています。したがって、「英語訳ではこれほど明白に見えることが、実はまったく明白ではないのだ」と主張したい側こそ、その証明責任を負っているのです。
これは、特定の社会的・政治的主張を持つ人々がよく用いる手法です。例えば、南北戦争以前から現在に至るまで、白人至上主義者や人種差別主義者たちは、自分たちの主張を「証明」するために聖書を利用してきましたし、今もなお利用しています。もちろん、人種的優越を証明する聖書箇所など一つもありません(例外があるとすれば、神のご計画の中におけるイスラエルの優越だけですが、それも信じるイスラエルについてのみです)。そのため、彼らは自説を支えるために、「原典のギリシヤ語やヘブル語によれば」などと言って、創造的な翻訳によって「証拠」を作り出さなければならないのです。イエスは、「あなたがたは彼らをその実によって知るようになる」と言われました。そして、この言葉は、いつの場合も非常に優れたリトマス試験紙となります。
原則: ある人や団体が、聖書から「証明」しようとしていることが、聖書を普通に読んでも明らかではなく、しかも聖書全体の常識的理解に反しているのであれば、そのような解釈を真剣に信用することには十分注意すべきです。
その原則から導かれる結論: もしその人々が政治的、あるいはその他の特定の目的を持っているならば、その主張はなおさら慎重に扱われるべきです。それを見分ける一つの良い方法は、次のように自問することです。「この人(あるいはこの人たち)は、聖書について他にも語っていることがあるのだろうか。それとも、この一つの問題についてだけ、聖書に関心を示しているのだろうか。」私にとって、この問いは決定的です。自分が何よりも大切にしている一つの主張を証明するためだけに聖書へ行く人は、ほぼ百パーセント間違った結論に至ります。なぜなら、その人は神の御言葉の真理を求めるという文脈の中で自分の問題を見ているのではなく、自分自身の目的のために神の御言葉を利用しているからです。
以上を踏まえた上で、個々の聖書箇所について簡単にコメントしてみたいと思います(もっとも、ここまで述べたことからも分かるように、この作業自体はほとんど意味のないことだと思います)。
1.創世記19章5節: この議論において、「ソドミー」という言葉を持ち出すこと自体が論点のすり替えです。ヘブル語の動詞 yada’(ヤーダー) は、非常にしばしば性交を意味します(例えば、「アダムはその妻エバを知った。すると彼女は身ごもった」という創世記4章1節のように)。創世記19章の文脈そのものが、この著者の議論を笑いものにしています。もし町の男たちが求めていたのが単なる「知的な意味で知ること」であったなら、なぜ御使いたちは彼らを打って盲目にしなければならなかったのでしょうか。また、もし性的な意味でないのであれば、なぜロトは、自分の娘たちを代わりに差し出して陵辱させようとしたのでしょうか。さらに、聖書はソドムと禁じられた性的行為を決して結びつけていないという主張も誤りです(ユダ7節。参照:第二ペテロ2章5-10節)。
2.レビ記18章22節および20章13節:この記事では、この箇所についてはまったく触れられていません。その理由は、おそらく、「女と寝るように男と寝てはならない。それは忌むべきことである」、そして「彼らは必ず死ななければならない」という言葉が、あまりにも明白で、都合が悪かったからなのでしょう。
3.ローマ1章26-27節: この箇所についても、同じくまったく取り上げられていません。その理由もまた、明らかです。どの翻訳で読んでも、パウロの言葉は同性間の淫行を非常に具体的に描写しており、それを不信者に典型的な行為として、最も強い言葉で非難しています。
4.第一コリント6章9節および第一テモテ1章9-10節: ここで用いられているギリシヤ語 malakoi と arsenokoitai は、ギリシア語では同性愛行為を表す一般的な語です。最初の malakoi は、今日でも現代ギリシア語において同じ意味の蔑称として用いられていますし、古代世界でも一般的に使われていました(プラウトゥスの喜劇を通してラテン語にも取り入れられています)。この語は確かに「柔らかい者(softy)」という意味ですが、英語においても(あるいは他の言語でも、たとえば私の記憶が正しければドイツ語の「sweet」のように)、比喩的表現が用いられているからといって、その語がこの意味において特定の意味を持つことが否定されるわけではありません。arsenokoitai について言えば、この語をこれまで一度も見聞きしたことのないギリシア語話者であれば、この記事の著者が主張しているような意味に理解することはまずないでしょう。その意味にするためには、この複合語を構成する二つの要素において、主語と目的語の関係を逆転させなければならないからです。語源から最も自然に導かれる意味は、「男性と寝る者たち」です。この語は malakos ほど一般的ではありませんが、決して他に例のない語ではありません。同時代の文献や碑文にも、伝統的な意味で用いられています。この記事の著者は、「この語が何を意味するのかは分からない」と主張しています。しかし、その「私たち(we)」とは、学術界全体を指しているのではありません。また、「この語は聖書のほかにはどこにも見られない」という主張にも、ほとんど説得力はありません。というのも、この語は第一コリント6章9節と第一テモテ1章10節という二つの箇所に現れており、そのどちらにおいても、他の性的逸脱を表す語(それぞれ malakoi と pornoi)と並べて用いられているからです。
聖書が何を語っているのかは明らかです。ある種の性的行為は聖書によって禁じられており、そのような逸脱は、人間が犯し得る神の律法に対する最も重大な違反の一つです。なぜなら、porneia(性的淫行)は、他の多くの罪以上に、それを行う人自身に対して、肉体的にも、心理的にも、霊的にも破壊的だからです。言い換えれば、それは自らを滅ぼす罪なのです(参照:第一コリント6章12-20節)。私は、神に立ち返って悔い改める代わりに、そのような罪を犯し続けることを選び、さらには自らの行為を正当化するところまで進んでしまう人々が少なくないという事実そのものが、今述べた原則の正しさを雄弁に物語っていると思います。貪欲な人、うそをつく人、人を憎む人などは、自分は本当は罪人ではないことを証明しようとして、聖書に訴えることはめったにありません。どのような罪であれ、この種の罪も含めて、誘惑を受けることと、その誘惑に負けることとは別のことです。私たちは皆、誘惑を受けます。また、罪に敗北することも別のことです。私たちは皆、時には罪に敗れ、そのために神の懲らしめを受けます。しかし、信者として罪と戦うことをやめ、抵抗することをやめ、自分の弱さを「受け入れてしまう」なら、私たちの信仰は急速に衰えていきます。さらに、罪と戦うことをやめて降伏するだけでなく、自分の良心の痛みに耐えられないために、その罪を積極的に受け入れ、自ら正当化するところまで進むなら、それは信仰そのものを完全に破壊する最も速い道の一つです。霊的な観点から言えば、そのような行為は、私たちが正当化しようとしている罪そのものよりもさらに悪いことです。なぜなら、それは背教への過程を加速させるからです(BB 3B「背教と死に至る罪」<英文>を参照)。
最後に、「ゲイ」であると自らを表現する人々に対して、私が何ら敵意を抱いていないことを明確に申し上げておきたいと思います。私の罪の性質についての理解では、私たちは皆、それぞれ重大な弱さを持ち、特定の罪へと強く傾く性向を持っています。そして、その弱さや傾向は、一人ひとり異なっています。それは、目の色や身長、知能などが人によって異なるのと同じです。また、栄養不足の子どもが、本来達するはずの身長まで成長できないことがあるように、環境が身体的特徴にある程度影響を及ぼすのと同じように、育った環境や養育もまた、私たちが罪の性質を制御する能力に影響を及ぼすことがあります。例えば、生まれつき非常に怠惰な性質を持っていたとしても、非常に厳格で勤勉さを求める親のもとで育てられたなら、その生来の怠惰は、そうでなかった場合よりも、はるかによく抑えられるでしょう。しかし、最終的には、私たちは皆、神が与えてくださった自由意志によって、罪と向き合わなければなりません。神と、その助けなしには、私たちは決して罪に勝利することはできません。しかし、自分のしたいことが明らかに罪であるにもかかわらず、それを正当化しようとすることは、霊的な死への処方箋です。
聖書が罪と呼ぶものはすべて罪です。そして、それ以外にも罪は数多く存在します(BB 3B「罪の本質」<英文>を参照)。私は、ある種の罪については他の罪よりも強い誘惑を受けます。そして、私にとって特に大きな誘惑となる罪が、あなたにとってはほとんど問題ではないかもしれません。その逆もまた同様です。しかし、御霊の助け、神の御言葉、そして聖別と聖なる歩みにおいてイエスに従おうとする決意によって、私たちは「容易にまとわりつく罪を捨て去る」ことを学ぶことができますし、実際に学ばなければなりません(へブル12章1節)。聖書学者でなくても分かることがあります。もし私たちが、血を流すほどまで罪に抵抗すること(へブル12章4節。参照:第一ペテロ4章1節)ではなく、自分たち自身が何が罪であり何が罪でないかを決める裁判官となり、自分が犯したい罪だけを例外扱いするのであれば、それは聖書と神を愚弄することになります。そして、神は、ご自身が愚弄されることを決してお許しにはなりません。
真理から少しも移り変わることのないお方、私たちの主、また救い主イエス・キリストにあって。
ボブ・L