岩なるキリスト
「Christ the Rock which Moses Struck, the Rooster’s Crow, and the Cross」からの抜粋翻訳 -著者:ロバート・D・ルギンビル博士
質問 #2:
マタイ18章で、イエスはペテロに、「あなたはペテロで。あるそしてこの岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」と言われました。ご存じのように、カトリックは、この節を用いて、イエスがペテロを教会の長とされたことの証拠にするのを好みます。しかし私は、イエスがペテロについて用いられたのは ペトロスpetros であり、それは切り離された石や岩を意味する一方、「この岩」と言われた時には ペトラpetra を用いておられ、それは岩盤や巨大な岩塊を意味することをよく承知しています。また、アラム語では、どちらも同じケパ kepha(そうだったと思います)という語になることも知っています。私は、イエスが言われた「岩」とは、ペテロが告白した内容――すなわち「あなたは生ける神の子キリストです」という告白――を指しておられ、その啓示の上にイエスがご自身の教会を建てられるのだと理解しています。ところが、私がよくやり取りしているカトリックの人が、あるプロテスタントの注解者の文章を見つけてきました。「これは、オーラル・ロバーツ大学(オクラホマ州タルサ)神学・宣教学部准教授、ジェームズ・B・シェルトンによる注解です
…<訳文省略>
彼のアラム語についての説明が正しいのかどうかは分かりません。しかし私には、聖書外の文献を含めたコイネー・ギリシア語については、聖書時代のアラム語よりもはるかに豊富な資料があるように思われます。
よろしくお願いいたします。神の祝福がありますように。
返信 #2:
レンスキーの書いていることは妥当です。一方、シェルトンの論考は、文法的にも学問的な言語学の観点から見ても、大部分がこじつけにすぎません。そして、あなたはその問題点を非常によく見抜いています。イエスの時代の日常語であったアラム語がどのようなものであったとしても、この福音書はギリシヤ語で書かれているのですから、そのことは実際には重要ではありません。新約時代のアラム語について私たちが知らないことは非常に多くあります(アラム語には少なくとも四つの主要な方言があり、それら古代の方言はいずれも互いに異なっており、しかも現存する資料はきわめて断片的です)。しかし、いずれにしても、この箇所はアラム語ではありません。ですから、もしイエスがアラム語で話しておられたなら何と言われたであろうかと推測すること(ちなみに私は、この場面でイエスがアラム語を話しておられたとは考えていません)は、まったく論点を外しています。イエスが実際に語られた言葉について言えば、イエスは ペトロスpetros を二度用いることも、ペトラpetra を二度用いることも、もちろんおできになりました。それを妨げる文法上の理由も規則もまったくありません。したがって、イエスが言葉を使い分けられたのは意図的であり、その違いには意味があることは確実です。「あなたは ペトロスpetros であり、このペトロス petros の上にわたしはわたしの教会を建てる」と言うこともできましたし、「あなたは ペトラpetra であり、この ペトラpetra の上にわたしはわたしの教会を建てる」と言うこともできました。もしそのどちらかの表現であったなら、シェルトンの議論を否定することは容易ではなかったでしょう。しかし実際には、主は意図的に ペトロスpetros と、それとは別の ペトラpetra とを区別しておられます。ペトロスpetros は通常、一個の石(すなわち、普通は大きくない石)を意味します。一方、ペトラpetra は、あなたが引用した資料が示しているとおり、常に巨大な岩壁(例えばグランドキャニオンの断崖のようなもの)を意味します。その違いは実に顕著です。同じ語根が用いられているのは、教訓を与えるために意図されたものにすぎません。ペテロは小石であり、建物を構成する一部ではありますが、教会が据えられ、建て上げられるのは、キリストという、より大きな岩の上なのです。これは、ペテロ自身が第一ペテロ2章5~7節で述べていることとまったく一致しています。そこでも彼は同じたとえを用い、信者たちは教会を構成する生ける石であり、キリストという土台の岩の上に、霊の家として築き上げられていくと語っています。
マタイ16章18節の「この岩」の「この」という指示代名詞が女性形になっているのは、修飾語は修飾する名詞の性・数・格に一致しなければならず、ペトラpetra が女性名詞だからです。しかし注目すべきなのは、ペトロスpetros のほうが先に出てきていることです。ですから、「女性形を男性形に変えなければならなかった」という議論は、まったく逆なのです。本文では、その反対になっています。この考え方は、ギリシヤ語を正しく理解していない人にとってさえ、まったく成り立たない、ばかげた議論です。しかし、本当に重要なのは、この指示代名詞そのものです。「この岩」と言われたことによって、イエスは、まるでご自身を指し示すかのように、意図的にご自身へ注意を向けておられるのです。この点について、私は『サタンの反逆』シリーズ第5部の脚注で次のように書いています:
パウロ書簡だけでも、「マタイ16章18節はペテロが『最初の教皇』であったことを支持している」という主張が誤りであることを証明するには十分です。というのは、パウロ書簡は、その内容と分量の両面から見て、ペテロが他の使徒たちより優位にあったという考えを明確に否定しているからです。このような優位性を、ペテロ自身も決して主張していません。むしろ彼は、御霊の導きの下でパウロに敬意を示しています(第二ペテロ3章14-16節)。また、主ご自身も、異邦人への使徒として任命されたのはペテロではなくパウロでした(使徒9章15節。参照:ガラテヤ1章15節, 2章7節)。そしてパウロは、その務めを使徒たちの中でも最も偉大な者として見事に果たしました。マタイ16章18節そのものについて言えば、「この岩の上に」という表現によって、キリストが指しておられるのは明らかにペテロではなく、ご自身です。このことは、指示代名詞 ホウトスhoutos を、ご自身を指すものとして用いておられることから分かります。この用法には、ヨハネ2章19節に並行例があります。「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建て直す」という言葉の「この」は、ヘロデの神殿ではなく、主ご自身(すなわち、その御体:ヨハネ2章21節)を明らかに指しています。この点についてさらに詳しくは、『ペテロ』シリーズ第2課をご覧ください。
お役に立てば幸いです。いつものように、細かな点についてさらに話し合いたいことがあれば、どうぞまたお便りください。
私たちの岩であるイエスにあって。
ボブ・L