第一ヨハネ1章9節における罪の告白
<イクシス・サイトから引用。ロバート・D・ルギンビル博士著>
質問:
第一ヨハネ1章9節について質問があります。この節は聖書の訳によって表現が異なっています(NIVでは「神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦してくださいます」、KJVでは「神は真実で正しい方であり、私たちの罪を赦してくださるのです」)。私がギリシヤ語について知っている限りでは、これは目的節(purpose clause)ではないでしょうか。つまり、「赦すために(in order to forgive)」という意味です。この違いと、この重要な節の本来の意味について教えていただけないでしょうか。
返信:
第一ヨハネ1章9節は、まさに非常に重要な節です。たとえこの節がなかったとしても、聖書全体から、①信者が定期的に自分の罪を神に告白することは極めて重要であること(参照:詩篇32篇; 38篇; 51篇; 130篇3節, 143篇1節; 箴言28章13節; マタイ6章12節; ルカ11章4節)、そして②そのようにするなら、私たちの身代わりとして十字架で死なれた救い主の御業に基づいて罪が赦されること(使徒行伝10章43節; エペソ1章7節; コロサイ1章14節; へブル10章19-22節; 第一ヨハネ4章10節)という結論に達するでしょう。しかし、第一ヨハネ1章9節は、その点を非常に明確に示してくれています。ですから、おっしゃるとおり、この節を正しく理解し、正しく訳すことは極めて重要です。
また、ギリシヤ語本文についてのご理解も正しいと思います。確かに、hina 節は文法的には目的節の形を取っていますので、一見すると少し変わった構文に見えます。しかし、これはコイネー・ギリシヤ語特有の用法であり(しかも先例があります)、結果と目的が一つに溶け合った表現になっています。したがって、その意味は、目的と結果が結び付いたものであり、英語の “so as to”(~するように、~するために)という表現に近いものです。そして、この「意図された結果」は、神の義と真実という性質から生じるものです:
・ 神は、私たちを赦すことが義にかなっているお方です。 神は、罪を赦してもなおご自身の義を保つことがおできになります。なぜなら、キリストがすべての罪の代価を支払われたからです。
・ また、私たちが罪を告白するとき、神はその赦しにおいて常に真実であり、信頼できるお方です。 すなわち、私たちが赦されるかどうかは、気まぐれや状況、あるいは私たちの祈りがどれほど熱心であったかによって決まるのではありません。そうではなく、私たちの罪を覆うのはキリストの血であり、そのキリストの血が、罪の汚れから「私たちの全身を洗い清め」、また、御子に従う者である私たちが犯してしまう罪について父なる神に赦しを求めるたびに、「私たちの足」をきよめてくださるのです。神は真実なお方だからです(参照:ヨハネ13章5-17節; へブル10章22節)。
私たちは皆、救われた後も罪を犯します。そして、自分には罪がないと主張することは危険な異端です。なぜなら、そのような主張は神を偽り者とするからです(第一ヨハネ1章10節)。しかし同時に、罪と戦うことは重要ではないと考えることも、同じように危険です(ローマ6章1-2節)。イエス・キリストを信じる者は、「これがなければ、だれも主を見ることはできない」聖化を追い求めるよう命じられているからです(へブル12章14節)。ですから、罪の告白に対する私たちの態度は、罪そのものに対する正しい態度を反映したものでなければなりません。一方では、キリスト・イエスにある赦しに確信を持つ必要があります(コロサイ1章13-14節)。しかし他方では、自分の行いについて、「罪を犯しても犯さなくても大した違いはない」と考えるような、いい加減な態度を取ることは許されません(罪が支払う報酬は死です。ローマ6章23節)。確かに、罪が宿るこの死ぬべき体にある限り、私たちは不完全なままです(ローマ7章24節)。しかし同時に、私たちはキリストにあって罪に対して死んだ者でもあります(ローマ6章1-14節, 7章4-6節)。それゆえ、私たちは罪をできる限り生活から取り除くよう努めるべきです(ローマ6章12-13節)。罪は、私たちを父なる神と私たちの主イエス・キリストから遠ざける妨げであり、つまずきであり、問題であり、また神から懲らしめを受ける原因でもあることを知っているからです(へブル12章5-12節)。
確かに、私たちが主と共に歩み、罪を告白し、正しいことを行おうと努めている限り、主が私たちを子として扱い、懲らしめてくださることを安心して信じることができます(へブル12章5節)。しかし、次のようなたとえを考えてみてください。学びの過程で失敗し、何度も失敗し、同じ失敗を何度も繰り返したとしても、本当に前進し、成長し、悪から離れて善へ向かっている息子であれば、愛ある父親は、その子が良い結果に至ることを確信し、忍耐をもって接するでしょう。しかし、ただ口先だけで罪を告白し、心の中では少しも生き方を変えるつもりのない息子となれば、話は全く別です。そのような者は、父親(そして、おそらく自分自身)を欺く以外に、何のために告白しているのでしょうか。ですから、罪を告白する時の私たちの態度は重要です。ダビデは、主から与えられた赦しを大いに喜びました(詩篇32篇1-11節)。私たちもまた、神のもとに来て認めた罪が赦されることを喜ぶべきです。しかし同時に、そのような時には畏れ敬う心も持たなければなりません。神は欺かれる方ではなく、侮られる方でもないからです。ダビデがある時にはすぐに神のもとへ行こうとしなかったのは、霊的反逆の中にあってさえ、神に対して偽りの告白をすることを望まなかったからです。彼は、自分の罪が悪であることを心から確信し、それをやめようと決意するまでは、自分が罪を犯したと認めたくなかったのです。
もちろん、私たちは皆弱く、このすべてにおいて完全であることは難しいものです。神はそのことをご存じです。神のあわれみは、私たちの理解をはるかに超えています。しかし、恵みの御座に高ぶった心で近づいたり、ただ口先だけで罪を告白したりすることがないよう注意しなければなりません。そのようなことをして何の意味があるでしょうか。主が私たちに「悔い改めなさい」と命じられる時、それは、自分の行いを見直し、これからは正しいことを行う決意を新たにしなさいということです(参照:黙示録2章5節)。求められているのは、単に「罪を犯した」と頭で理解することではありません。悪霊たちでさえ、自分たちが神の命令に背いたことは、ある程度理解しています(ただ、彼らはそれを少しも気にしていないだけです)。しかし、私たちは気にかけなければなりません。だからといって、罪悪感や自責の念に打ちひしがれ、自分を精神的に苦しめるべきだという意味ではありません(そのような態度は、神のあわれみとキリストにある赦しを理解していないことを示しています)。そうではなく、自分の過ちを素直に認め、自分が間違っていたこと、悪いことをしたことを理解し、少なくとも今後は神に喜ばれる正しいことを行おうという心を持つべきなのです。
私たちは弱いのでしょうか。神は私たちの弱さを助けてくださいます(イザヤ40章29-31節)。私たちは知恵を必要としているのでしょうか。知恵を与えてくださるのは神です(ヤコブ1章5節)。自分の心が自分の失敗や罪を責めているのでしょうか。神は私たちの心よりも偉大なお方であり(第一ヨハネ3章20節)、「敬虔な者を誘惑から救い出す」ことをご存じのお方です(第二ペテロ2章9節)。私たちがただ主と共に歩もうとするなら、主は私たちを泥沼から引き上げ、前へ導く力とご計画を持っておられます。私たちはこの地上で「罪のない完全な状態」に達することは決してありません。しかし残念なことに、自分の行いをほとんど気にせず、罪との戦いをまだ始めてもいない信者が少なくありません(へブル12章4節。参照:第一ペテロ4章1節)。この問題はクリスチャン生活において極めて重要です。なぜなら、悪い行いに抵抗することは、積極的な霊的前進を行う前に必要な、非常に重要な防御だからです。もし悪魔が私たちを個人的な罪深さという泥沼に引きずり込み、次から次へと悪い考えへ(あるいは同じ失敗へ何度も)倒れ込ませるなら、罪悪感、神からの懲らしめ、悪い行いがもたらす当然の結果、そしてその問題に心を奪われ続けることによって、クリスチャンとして霊的に成長し、神が私たち一人一人に備えてくださった務めを準備し、実行していくこと(エペソ2章10節)は、確かに非常に難しくなります。少なくとも、このように真剣な罪の告白を欠き、慢性的に罪を犯し続ける生活は、その人の証しを損ない、その奉仕にも悪い影響を与えます。たとえ、神がその大いなる真実と、限りなく測り知れないあわれみによって、真の悔い改めがなく、同じ罪を再び犯すつもりで告白している者の罪であっても、告白された罪をすべて赦してくださるとしても、慢性的な悪い行いを、「それはそれ」と切り離して考え、他の霊的生活には影響しないものとして扱えると、本当に思う人がいるでしょうか。特にキリストを信じる者において、そのような生き方が奉仕や評判、そして決して軽視できない、主が約束し、私たちに追い求めるよう命じておられる平安(ヨハネ14章27節; ローマ5章1節; へブル4章1節)に深刻な悪影響を与えないなどということがあるでしょうか。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1章9節)
ですから、自分が罪を犯したことにすぐ気づき、同じように速やかに主のもとへ行き、心から悔いて自分の罪を認めましょう。赦しを得るために自分の感情的な努力に頼ることもなく、また、ただ形式的に、あるいは人に見せるためだけに罪を告白することもありませんように。信者一人一人が、自分で気づいた罪を神に個人的に告白することは、霊的成長において非常に重要な要素です。そして、その一つ一つの場合において、「神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦してくださる」のです。実際的な面では、この問題にとらわれ過ぎて身動きが取れなくなってはいけません。聖霊は私たちの内に住んでおられるではありませんか。神は、私たちがただ罪を告白するなら、完全な赦しを約束してくださっているではありませんか。それなら、私たちは一つ一つの小さな行動や思いや言葉について過度に思い悩む必要はありません(どんなことでも極端に走ることはあり得ます)。しかしその一方で、明らかに故意の罪を犯したと気づいた時には直ちに告白するだけでなく、罪の告白を祈りの生活の定期的な一部とすべきです。思いと言葉と行いにおいて罪を犯す機会は非常に多いのですから、この点において私たちは皆、神と共にへりくだって歩むべきです(ミカ6章8節)。そして、天の父から受けることを願っているのと同じ赦しの態度を、常に他の人々に対しても持つことを忘れてはなりません。愛は多くの罪を覆うからです(第一ペテロ4章8節)。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人たちを赦しました。」(マタイ6章12節/NIV訳)
この教えについてさらに知りたい方は、次の資料もご覧ください。
『怒っても罪を犯してはならない――エペソ4章26節と罪の性質』 <未翻訳>
『聖書の基礎』3B「罪論」における「悔い改め、罪の告白、そして赦し」<未翻訳>
長い回答になってしまったことをお許しください。少しでもお役に立てば幸いです。
キリストにあって。
ボブ・ルギンビル