終末論に関する論点 #156–レデットについて

あなたからのメール:終末論に関する論点 #156

https://ichthys.com/e-mails.htm

からの抜粋翻訳

質問 #1:

こんにちは、ルギンビル博士。

レディットReddit<特定の主題について意見を交換しあうことのできる掲示板>の話題に関連して、継続主義者(しるしの賜物は継続していると主張する人達)による次のような回答を見つけました。私は自分ならどう答えるか分かっていますが、あなたならどう答えるのか知りたいと思いました(自分の考えに見落としがないかを仮に検証する助けにもなります)。まず最初のものです。

継続主義は聖書的立場である。なぜなら、私たちは明確に霊的賜物を求めるよう命じられており、その命令が撤回された箇所は聖書のどこにも存在しないからである。パウロは第一コリント14章1節でこう書いている。「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を熱心に求めなさい。とくに預言することを。」この命令は初代教会だけでなく、時代を超えたキリストのからだとしての教会全体に与えられている。中止論者はしばしば第一コリント13章8~10節を引用する。「愛は決して廃れることがありません。しかし預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れます。私たちは部分的に知り、部分的に預言するからです。しかし完全なものが来るときには、部分的なものは廃れます。」彼らはこの「完全なもの」が完成した聖書正典を指すと主張する。しかしパウロは12節で続けてこう述べている。「今は鏡にぼんやり映るように見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」これは明らかに聖書のことではなく、イエスご自身のことである。「完全なもの」とは、私たちが主を顔と顔とを合わせて見、完全に知ることになるキリストの再臨である。さらにパウロはエペソ4章13節で、賜物は「私たちすべてが信仰と神の御子を知る点で一致し、成熟した者となるまで」与えられていると書いている。では自問してみてほしい。私たちはもうそこに到達しているだろうか。教会は世界的に一致し、完全に成熟し、何一つ欠けていない状態だろうか。明らかにそうではない。したがって、御霊の賜物の必要性は今も残っている。中止論者はよく「なぜ病院の人をみんな癒さないのか」と問うが、それはまるで癒しの賜物が自由に使える超能力であるかのような前提に立っている。しかし、明らかに癒しの賜物を持っていたパウロでさえ、すべての人を癒せたわけではない。第二テモテ4章20節では、彼はトロフィモを病気のままミレトに残している。第一テモテ5章23節では、テモテに胃のためと頻繁な病気のためにぶどう酒を少し用いるよう勧めている。癒しは自動的に起こるものではなかったのである。賜物は支配や操作のためではなく、神がご自身の御心に従って人々を通して働かれるためのものである。また彼らは、使徒行伝の終盤に向かって奇跡が減少したと主張するが、それは事実ではない。使徒28章という終盤の章で、パウロはポプリオの父を癒し、その後島の多くの人々を癒している。これは彼の宣教の晩年に近い時期であり、賜物は依然として活発に働いていた。さらに「偽の癒しや偽預言者はどうなのか」と言う人もいる。確かにそれは現実であり、深刻な問題である。それはキリスト教にとっての疫病のようなもので、多くの人々が何が本当に聖書的なのか疑う原因となっている。しかし、私たちの真理の基準は体験ではなく、神の御言葉である。賜物の乱用は、それを否定する理由ではなく、聖書的に正しく追い求める理由である。パウロもコリントで同様の問題――誤用、傲慢、混乱――に対処したが、「賜物をやめなさい」とは言わなかった。正しく用いる方法を教えたのである。ゆえに、私たちが信仰において一致し、イエスを顔と顔とを合わせて見る時が来るまで、私たちは今なお「霊の賜物を熱心に求めなさい」という明確な聖書の命令の下にある。どちらの極端さや乱用にも流されることなく、御言葉に堅く立とうではないか。

(https://www.reddit.com/r/TrueChristian/comments/1igbfho/thoughts_on_spiritual_gifts_signs_and_wonders/)

そして二つ目についてですが……この人の言っていることは妥当だと思いますか?私には(預言や使徒職の賜物は脇に置き、異言、癒し、奇跡に焦点を当てるなら)不合理には見えません。

私は、それらが原則として完全に消滅したとは思いません。しかし、今日私たちが生きている状況の中で、それらが頻繁に用いられるとは期待していません。悪霊憑きなどが完全になくなったとは思いませんが、私たちの文化圏で頻繁に見られるとも思いません。パウロは第一コリント12章と14章で霊的賜物について語る際、キリストのからだとその中での役割についても同時に語っています。明確に言えば、御霊が私たちに与える賜物は、教会、すなわちキリストのからだの益のためのものです。これは、賜物が「自分の霊的才能を特定すること」よりも、「からだへの参加」に関わるものであることを示していると思います。第一コリント12章はまた、賜物の「多様性」について語っており、特定の種類だけを期待すべきではないことを示唆しています。霊的賜物はさまざまな形を取り得ます。預言や異言はその一例であって、網羅的なリストではありません。しかし賜物の目的は常に、からだの祝福と建て上げです。したがって、御霊の働き方が2000年前と今日とで異なって見えるのは自然なことです。なぜなら教会も、文化も、世界も異なっているからです。同じ御霊が働いていますが、その働きの現れ方は時代や文化によって異なる可能性があります。例えば、未伝道民族に福音を伝える際に、超自然的な癒しや奇跡が起こったと語る宣教師の話を私は信じます。人々が見て信じるために、御霊がそのような方法を用いるのは理解できます。同様に、宣教師が未伝道地で目撃した信じ難い悪霊的現象についても私は信じます。サタンが恐れを生じさせるためにそのような手段を用いるのも理解できます。しかし西洋社会では、教会の存在が知られており、イエスの名も知られており(信じられてはいなくても)、神の御言葉も容易に手に入ります。そのような環境では、悪霊憑きなどが頻繁に現れるとは期待しません。それがサタンの目的達成に有効だとは思えないからです。同様に、西洋において預言や癒しなどの賜物が頻繁に現れるとも期待していません。なぜなら、御霊はさまざまな形で働いておられ、それら特定の賜物が現在の西洋教会にとって最も有益だとは思えないからです。

https://www.reddit.com/r/Bible/comments/x2ozki/gifts_of_the_holy_spirit

準備に関する励ましをありがとうございます。この問題について以前よりも心が平安になりました。言語学習について自分を疑い続けてきたことは、長い間私にとって大きな問題でしたし、実際あまり良い実を結びませんでした。むしろ落胆と気の散りを生んでいました。

あなたはこう書いていました:

文法に関して言えば、英語文法を学ぶことは、私見ではまったくの時間の無駄です。もしギリシャ語やヘブル語の理解に役立つ形で言語の仕組みを学びたいなら、それがラテン語を学ぶ理由です(ただし、それはまた別の山です)。

興味深いですね。仮に時間があり、導きを感じたなら、私はギリシヤ語、ヘブル語、アラム語を学ぶ対象にするでしょう。そこにラテン語も加えることができるかもしれませんね。ただ、かなり多いですが。

[省略]

キリストにあって

回答 #1:

分かりました。このことについては祈り続けます。あなたがどのような結論に至るか、また知らせてください。

Redditの件についてですが、この話題に関する質問には喜んで答えますが、私はこうした混乱した投稿に関わるつもりはありません。むしろ、なぜあなたがそれに関わろうとするのか不思議に思っています。もしこれらの人々があなたの書いたものに反応しているのであれば、弁証的な観点から返答を検討する意味はあるでしょう。しかし、こちらから自発的にこの種の<掲示板での意見の>やり取りに関わることが良い考えだとは思えません。もちろん、それはあなた自身が判断すべき適用の問題ですが、私はそうしない方を選びます。もし「手を置くことで癒す賜物」を持っている人がいるなら、私には痛む関節がいくつもありますから、ぜひ手を置いてもらいたいものです。しかし、実際にはそのような賜物を持つ人は誰もいません。それは約2000年間与えられていないからです(預言、異言、悪霊追放なども同様です)。ローマ・カトリック教会は、人々が「奇跡を行う」ことを信じており、それは確か聖人認定の条件でもあったはずです。しかし真実は、イエス・キリストを信じる者はすべて聖徒であり、とはいえ、その中で実際に聖化された歩みをしている者はごくわずかです。奇跡やしるしの賜物が今も存在するかのように装い、それを演じることは、私が思いつく中でも最も非聖化的な行為の一つです。

あなたのために祈り続けています、友よ。

イエスにあって、

ボブ・L

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質問 #2:

こんにちは、ルギンビル博士。(質問がいろいろ混ざってしまっていたらすみません。)

ご心配なく。彼らは誰かの質問に答えているだけで、私とは無関係です(たまたま公開投稿だったので外から目に入っただけで、私のウェブサイトとは関係ありません)。私はこれらのグループには参加していませんし、今後参加するかどうかも分かりません(ただし、しばらく祈りつつ考えるつもりです)。

まず最初にですが、「預言の賜物」は御言葉を教えたり説教したりすることを指すのだ、と言う人たちがいます。これは正しいのでしょうか?私は「預言」という言葉を使うのがあまり好きではありません。なぜなら非常に誤解を招きやすいからです(御霊が信者に新しい真理や啓示を直接伝えて宣言させるということは、もはや起こっていないからです)。

第一コリント13章10節の「完全なもの」は、あなたが以前言われたように「概念ではなく、より具体的なもの」を指すと解釈される必要があるのでしょうか?それはなぜ「神の御言葉(聖書)」を指すと理解されるのでしょうか?なぜ「キリストの再臨」という概念的な出来事ではなく、「具体的なもの」と言えるのでしょうか?それは文法的理由でしょうか?あなたが以前言っていたことを思い出しますが、ここには二つの別々の出来事があるのではなく、一つの包括的な流れがある――短期的には部分的知識が終わり(聖書が一時的賜物に取って代わる)、長期的には復活の体で主を見る時に完全な知識に至る――という理解でしたね。

8節から10節は、どのようにして「異言(賜物)」がキリストの再臨よりもずっと前に自然に終息することを示しているのでしょうか?

第一コリント13章は、知識、異言、預言がやがて消えること(賜物そのものとその働きの両方)について語っています。しかし、そこには癒しや奇跡については言及されていません。しるしの賜物支持者は、「これらの賜物(癒しや奇跡)が一時的で、すでに終わったと明言している聖書箇所は一つもない」と言うでしょう。牧師教師として、私たちは教えを聖書に基づいて説明しなければなりませんが、彼らがこのように主張する場合、どのように答えるべきでしょうか?あるいは、異言と預言の賜物がすでに消えた以上、他の奇跡的賜物も同様に消えたと理解すべきなのでしょうか?つまり、これらは代表例であり、私たちは「二つの例から全体を推論する」形で、すべての奇跡的賜物がすでに終わったと結論づけるべきなのでしょうか?

前回のメールで引用した投稿者の意見についてですが、困難な地域や特別な状況において、必要に応じて賜物が一時的に働く可能性はあると思われますか?つまり、恒常的な賜物(それらはすでに終わったと私たちは共に信じています)ではなく、「その瞬間だけの出来事」として、福音前進や未信者への到達のために、神が時折用いられる可能性です。あなたがこれらの投稿者と関わる気がないとおっしゃったのは理解していますが、次の引用文について、それが妥当、もしくは可能性としてはわずかにあり得るものだと思われますか(それだけをお聞きしたいのです。その後はこの話題を終わりにします)。

「例えば、未伝道民族に福音を伝える際に、超自然的な癒しや奇跡が起こったと語る宣教師の話を私は信じます。人々が見て信じるために、御霊がそのような賜物を用いることは理解できます。同様に、宣教師が未伝道地で体験した信じがたい悪霊的現象についても私は信じます。サタンが恐怖を生み出すためにそのような手段を用いることも理解できます。しかし西洋社会では、教会の存在が知られ、イエスの名も知られ(信じられていなくても)、神の御言葉も容易に手に入ります。そのような環境では、悪霊憑きなどは期待しません。それがサタンの目的達成に有効だとは思えないからです。同様に、西洋では預言や癒しなどの賜物が頻繁に現れるとも期待していません。なぜなら御霊は多様な方法で働いておられ、それら特定の賜物が現代西洋教会にとって最も有益だとは思えないからです。」

明らかに、使徒はもはや存在しません(十二使徒と同じ権威と性質を持つ意味において。ただし「遣わされた者」としての宣教師・伝道者はいます)。正典が完成した今、新しい啓示は不要であり、預言者も存在しません。しかし、異言、癒し、奇跡の賜物がすでに終わったとしても(これが私の質問の核心ですが)、神が現代においても、特別で一時的、かつ例外的な状況でそれらを用いられる可能性があると思われますか?以前このことを人に話した際、「それは生涯にわたって継続的にそれらを行う賜物とは違う」と返されましたが――まさにその通りで、それが私の言いたい点です。

キリストにあって

 

回答 #2:

預言には「将来を予告する(foretelling)」側面だけでなく、「神の言葉を告げ知らせる(forth-telling)」側面もあります。しかし、預言するのは預言者だけです。預言とは、聖書を介して間接的に得た情報ではなく、神から直接与えられた情報を語ることです。言い換えれば、本当の預言とは「神が私にこう語られた」という形のものであり、「私は聖書の中にこれを見いだした」ということとは本質的に異なります。彼らが主張しているのはまさに前者です。したがって、現在において預言は存在せず、預言者も存在しません(天にいる者たちを除いて)。

第一コリント13章10節について(私訳)

しかし、完全なものが現れたとき(すなわち、成熟した教会に完成した聖書が与えられたとき)、すべての部分的な手段は廃される。― 第一コリント13章10節意

いくつかの重要な点。まず、パウロがこの書簡を書いた時点では、「完全なもの」はまだ到来していませんでした。では、当時まだ到来しておらず、「完全なもの」と呼び得る対象として、聖書以外に何があるでしょうか。ギリシャ語原文では文字通り「完全な/完成した“もの”」と書かれており、「もの」という語は必須です。なぜなら定冠詞と形容詞が中性形だからです。もしキリストご自身を指しているのであれば、代名詞は男性形でなければなりません。さらに、キリストの再臨は聖書において「パルーシア(parousia)」 (link)と呼ばれます。再臨が「完全なもの」や「ある“物”」と呼ばれている箇所は他に存在しません。これらを無理に結びつけようとする唯一の理由は、この誤った立場を支えるために、この箇所を「中性化」しようとする試みに他なりません(しゃれのつもりはありませんが)。

第二に、この文脈はキリストの再臨ではなく、霊的賜物について語られています。パウロは意図的に、しるしの賜物と「完全なもの」とを対比しています。「しかし、完全なものが現れると、部分的なものは廃れる」ここで「完全なもの(to teleion)」は、「部分的なもの(to ek merous)」と直接対置されています。したがって、両者を切り離して解釈することは許されません。両者の間には非常に密接な関係があると理解すべきです。「部分的なもの」とは、神の御言葉を伝達するための一時的な霊的賜物です。したがって、「当時まだ完成していなかった聖書」、すなわち神が私たちに与える完全な啓示の完成形が到来することで、それら一時的な啓示賜物が不要になる、という理解は、正当であるだけでなく、私の見解では避けられない結論です。

神は、昔は預言者たちを通して、いろいろな方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。― ヘブル1:1–2(NKJV)

かつて神は様々な方法で真理を伝えてこられましたが、今や御子は「生ける御言葉」として、メッセージそのものであり、今日においては書かれた御言葉(聖書)を通してのみ私たちに語られます。以前の方法はすべて役目を終え、廃されました。私たちが今集中すべきなのは、最も純化された形の真理、すなわち「完全に完成したもの」である聖書なのです。

要約すれば、「完全なもの」が聖書を指すことは、私の見解では疑いの余地がありません。他の解釈は、上記の分析に照らして成立しません。正しい解釈を否定するだけでは不十分であり、それに代わる、同等に成立する説明を提示しなければならないのです。

(関連リンクIn BB 5: the perfect

That which is perfect

Grammar of “the perfect”

The Perfection of the Bible (in BB 7)

「これらの賜物が一時的であると明言する聖句がない」という主張について

愛は決して失われません。しかし預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れます。― 第一コリント13:8

この節は、パウロがすべての奇跡的賜物を代表する三つの例(信仰・希望・愛という三つの徳と対比するための構造)を用いて、それらが終わることを明確に示しています。

※これらの賜物は「完全なもの」が到来するまで存在していたため、パウロの時代には「すでに終わった」とは書かれていません。終わったのは「完全なもの」が来た後だからです。

「『二つを合わせて理解する』ということは、聖書教育(Bible teaching)そのものです」について: そして、私たち教師は何よりもまず主に対して、その責任を正しく果たす責務があります。人々が持つ正当な疑問に答えることは良いことであり、正しいことです。しかし、私たちが綿密な研究を通して、自分たちの教えが正しいと確信している場合、その教えに対するすべての反論を一つ一つ追いかける義務はありません。はっきり言えることですが、あなたが教えるどんな内容に対しても、必ず何らかの形で反対する人は現れます。だからこそ、私たちは自分が教える内容について、聖書とそれに対する詳細な理解に基づいて、信仰において堅く立つ必要があります。この件に関して言えば、これは「解釈の問題」ではなく、聖書が実際に何を語っているかの問題です。この文脈において「完全なもの」は「部分的なもの」と対置されています。これは、すべての「部分的なもの」を意味します。パウロがすべてを逐一列挙していないことは、反論の根拠にはなりません。例えば、彼はここで悪霊追放について言及していませんが、それなら私たちは自由にそれを行ってよいのでしょうか(実際にそうしている人もいます)。また、彼はエルマに対して盲目を宣告しました(使徒13:9–12)。それでは、私たちもそれを行えるのでしょうか。さらに、私たちは自分が使徒であると主張できるのでしょうか(実際にそう主張する人もいます。彼らにとっては、あなたや私が考えるほど「明白」ではないのです)。聖書は、使徒職の賜物が終わったと明確に書いているわけでもありません。このような例はいくらでも挙げることができます。

正直に言って、私がより深刻に懸念しているのは、「手を置けば癒せる」「奇跡を行うことができる」といった考えを、信者にほんのわずかでも与えてしまうことによって、すでに多くの人に与えられている被害、そして今後どの信者にも及び得る霊的損害です。あなたは、主がどちらをより悲しまれると思いますか。頑なで未熟な信者(あるいは信者を装った人)に、彼らが満足する答えを与えないことでしょうか(彼らはどんな答えでも決して満足しません)。それとも、この種の偽りに誘惑されてしまう未熟な信者の霊的破壊に加担してしまうことでしょうか。

先にも述べた通り、実際の癒し、実際の異言、実際の悪霊追放、あるいは使徒職の証拠を示してください。そうすれば、その時に改めて話し合いましょう。それまでは、「完全なもの」である聖書が、これらの部分的な賜物が一時的なものであったことを非常に明確に示しています。そして、聖書を読み、真剣に学ぶ者であれば誰でも、その中にある真理が、聖霊によって力づけられつつ、あらゆる面において私たちにとって完全に十分であることを知っています。

最後に言うまでもなく、神はご自身の望まれることを、いつでも何でもなさることがおできになります(詩篇115篇3節)。しかし、それと「神が実際にこれこれを行われた」と人が主張することとの間には、大きな隔たりがあります(特に今回のように、聖書がそれは起こらないと語っている場合にはなおさらです)。人間は、どんなことでも主張することができます。もし自分の目で実際に何かを見たなら、それにある程度の重みを置く理由はあるでしょう(もっとも、その場合でも誤認の可能性はあります。例えばマルコ13章22が示す通りです)。しかし、第三者の証言――つまり、あなたのメールにあるように、その場にいなかった誰かが、さらに別の名も知らない人物に起こった出来事を伝聞で語っているだけの話――を信じることは、健全な結論の根拠にはなりません。人は常に嘘をつきます。自分をクリスチャンだと称する人であっても例外ではありません。私たちは第三者の報告ではなく、聖書を信じるのです。

役に立てば幸いです、友よ。あなたのために日々祈っています。

イエスにあって、

ボブ・L

質問 #3:

こんにちは、ルギンビル博士。

「人々が持つ正当な疑問に答えるのは良いことであり正しいことだが、私たちが教えていることが確実に正しいと分かっている場合、すべての反論を追いかける義務はない」というあなたの言葉についてですが――

はい、正直に言って、これは私の弱点の一つです。あなたもこれまでのやり取りで見てこられたと思います。誤ったものを学び直して捨てる助けになるという意味では長所にもなり得ますが、あなたが言われたように、すでに真理だと分かっていることに関しては、むしろ弱点になってしまいます。私は反対意見を無作為に調べては、それをできるだけ早く解決しようとして執着してしまう傾向があります。しかし、やはり大局(基礎的真理や中心的論点)に集中し、細かい点は実際に誰かから質問されたときに対応する、という姿勢が必要なのだと思います。

あなたが言われた「あなたが教えるどんなことにも、必ず何らかの形で反対する人が現れる」という言葉はまったくその通りで、とても重要な指摘だと思いました。心に留めておく必要があります。

あなたが貼ってくださったリンクはすべて読みました。実は以前にも読んだことはありましたが、いくつかの詳細を忘れていました。私の主な質問は(細かい点はいったん脇に置くとして)、次の点でした。「困難な状況や場所において、必要に応じて、賜物が一時的に働く可能性はあると思われますか?つまり、恒常的な賜物(それらはすでに終わったと私たちは共に信じています)ではなく、“その瞬間だけ”の出来事として、福音前進や未信者への到達のために神が用いられる可能性です。」この点についてはすでに答えていただいたと思いますが、話題を変える前に、もう一度別の角度からだけ質問させてください(もしかすると、私は悪魔の代弁者のようなことをしているのかもしれませんが……)。

私たちは、しるしの賜物はすでに中止されたと信じています。一方で、霊的賜物(例えば教える賜物など)は、一度与えられたら基本的に生涯にわたって保持され、神が取り消されることは通常ないと理解しています。なぜなら、神が与えられた賜物は、その人に与えられたものだからです。そこで、上に書いた斜体部分の考え方ですが、これは「賜物を所有している」ことには当たらないのではないでしょうか。なぜなら、(仮定の話として)神が特別で例外的な瞬間にのみ力を与え、その後その人の人生において二度と起こらない、あるいは極めてまれであるなら、それは「恒常的な賜物」とは異なるからです。つまり、第一コリント13章が語る通り、しるしの賜物はすでに消滅し、もはや与えられていないが、それでも特別な状況や出来事のために、一時的に現れる可能性は完全に排除されるのでしょうか(恒常的ではなく、したがって本来の意味での「賜物」ではない形で)。

例えば、宣教師たちが、非常に遠隔で孤立した地域の人々に聖書を届けることも、翻訳することもできない状況にある場合を想像してください。私は、世界の最も辺境の地域の言語を識別し、学び、翻訳するには、何年もかかることがあると聞いたことがあります。ある宣教師たちは、特定の民族に福音を伝えるために、数か月、あるいは数年をかけて準備しなければならなかったケースもあります。正典は完成していますが、その人々が状況的にそれをすぐに利用できない場合はどうでしょうか。そのような期間に、何らかの奇跡的な「つなぎ(暫定的手段)」として、しるしの賜物が一時的に働く可能性はあるでしょうか。私はこの点を少し「回りすぎて」いるかもしれませんが、考慮すること自体は不合理ではないように思えます。

「完全なもの」については理解し、同意しています。これについて最後にもう一つだけ質問させてください。あなたは、ギリシヤ語原文が文字通り「完全な/完成した“もの”」と書いていると言われましたが、この「もの(thing)」という語は、最良かつ最古の写本に実際に含まれている語なのでしょうか。それとも、文法上必然的に「もの」と訳さざるを得ない形になっている、という意味でしょうか。

あなたが書いてくださった他の点については、すべて理解し、同意しています。

最後に、非常に多くの信者が自分には奇跡的賜物があると主張しています。例えば、30年間異言を語っていると言う人の記事を読みました。これは直接の証言です。私には、何千人もの人が同じような主張をしているのに、その全員が嘘をついていると考えるのは不合理に思えます。もちろん、その中には意図的に偽っている人もいるでしょう(実際、異言や癒しを偽装している例は多くあります)。しかし、それでもなお、何千人もの人が何かを主張しているなら、全員が嘘つきだとは思えません。それは、多くのキリストにある兄弟姉妹に対する重大な侮辱にも感じられます。では、もし彼らの多くが嘘をついていないとするなら、それは単なる「誤解された体験」なのでしょうか。もちろん、私は彼らが本当の意味で賜物を持っているとは信じていませんし、彼らの主張も信じていません(私たちは聖書を基準にします)。しかし、多くの人は自分の体験について誠実で正直でありながら、実際にはそれが自分の思っているものとは違うのではないかと思います。これは、彼らが混乱していて、本物だと思い込んでいるだけなのでしょうか。それとも、ある程度は悪霊的な働きによる可能性もあるのでしょうか。信者は悪霊に取りつかれることはありませんが、自ら扉を開くなら、攻撃や影響を受けることはあり得ます。他にどのような可能性が考えられるでしょうか。多くのカリスマ派の人々は、自分が賜物を持っていると本気で信じているため、嘘をついているつもりはありません。私たちは単に「彼らは混乱している」「出来事を誤解している」と言うべきなのでしょうか。

キリストにあって

回答 #3:

「弱点」について。この種の問題で、どこで立ち止まり、どこから踏み込むかは、常に判断が必要です。避けるべき二つの極端があります。すなわち、一方ではすべての反論を完全に無視してしまうこと、もう一方では終わりのない「再検討の沼」に引きずり込まれてしまうことです。私たちは、反論の価値を早い段階で正しく見極め、それにふさわしい配慮を与えるよう努めるべきです。そして、合理的な時間内に解決できない問題に囚われて、キリストの群れを養うという使命が妨げられるような状態に陥らないよう注意しなければなりません。

「恒常的な賜物」について。それを明確に述べている聖書箇所は私には思い当たりませんが、「恒久的である性質の賜物」に関しては、そのように理解するのは妥当な推論です。しかし、いくつかの賜物は、そもそも一時的であることを前提として与えられていました。例えば、もし「手を置くことによる癒しの賜物」が恒久的なものであったなら、なぜパウロはトロフィモを「病気のままミレトに残した」のでしょうか(第二テモテ4章20節; 使徒行伝28章8節参照)。すでに述べた通り、神はご自身の望むことを何でもなさいます。しかし、誰かが「神がこれを行われた」と主張したからといって、それが真実であるとは限りません。私たちは人を信じるのではなく、聖書を信じます。

神の奇跡的な働きについて: 神は今日でも常に奇跡的なことをなさいます。信仰生活をある程度続けてきたクリスチャンで、それを経験したことのない人がいるでしょうか。しかし、神が私たちのために行われることと、私たちが賜物を通して行う能力を与えられていることは別問題です。神が人を癒されることはあります。実際、頻繁に起こっています。しかし、誰かが他人に触れて癒したという正当な事例を、私は一度も見たことがありません。

「もの(thing)」という語について: ギリシャ語には「もの」を意味する語も存在しますが、その用法は非常にまれで、多くの場合は複数形で使われ、「財産」や「金銭」を意味します。ギリシャ語(ラテン語も同様)は中性名詞の性を持つため、英語のように「thing」という語を必要としません。原文は「完全なもの(中性単数)」と書かれています。英語で単に “the perfect” と訳すだけでは、それが中性・単数であることが明確になりません。そこで、英語では「thing」という語を補って初めて、文法的意味を正確に表現できます。英語の形容詞に性・格・数の区別が残っていれば必要ありませんが、現代英語にはそれがないため、この補足が必要なのです。ですから、「もの」は英語の形で直接そこにあるわけではありませんが、文法的には確実にそこに存在しています。

何千人もが嘘をついているとは思えない」という点について。その考えを持つなら、私はあなたに強く勧めますが、決して投資の専門家に自分の貯蓄を預けてはいけません(自分で管理してください。自分自身は信頼できますから)。ある非常に賢明で優秀な弁護士が、かつて私にこう言いました。「私の経験では、人は嘘をつく」。まずは、この異言の問題に関して「嘘をついていない人」を一人でも見つけてから、私たちはより寛大になるべきでしょう。私たちクリスチャンは愛に生きるべきですが、それは「愚かであれ」という意味ではありません。主が言われたように、私たちは鳩のように純真であると同時に、蛇のように賢くなければなりません。それは不正を行えという意味ではありません。人は不正を行う存在であり、そのことを警戒せよという意味です。そして多くの場合、人は自分の不正を「善いこと」として合理化します。多くのカリスマ派の人々についても、同じことが当てはまると私は思います。彼らは自分が劣っていると思われたくありません。他人の「正当な賜物」を否定したくありません。自分たちが「特別だ」と感じている運動を守りたいのです。そして、「たとえ自分が本当に異言を語っていなくても、兄弟姉妹XYZは本物だろう……そして、もしかすると自分もそうなのかもしれない!」という心理に陥ります。合理化や再定義(たとえば「自分の意味不明な発声も、人間の言葉ではなく天使の異言なのだろう」など)は、多くの人が実際には異言を語っていないにもかかわらず、語っていると主張する理由の一部にすぎません。

その獣は捕らえられ、それとともに偽預言者も捕らえられた。彼は獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者や獣の像を拝む者たちを惑わした。この二人は、生きたまま硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。― 黙示録19章20節

私たちは、自分自身のためだけでなく、何よりも羊たちを守る責任のために注意深くなければなりません。欺きは悪魔の常套手段です。特に牧師教師は、惑わされないよう細心の注意を払う必要があります。繰り返しますが、誰かが何かを言ったからといって、それが真実になるわけではありません。ある人が不正を行うとは想像できないからといって、その人が不正を行わないとは限らないのです。

彼はその人に言った、「わたしもあなたと同じ預言者ですが、天の使が主の命によってわたしに告げて、『その人を一緒に家につれ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と言いました」。これは彼がその人を欺いたのである。(列王記上 13章18節)

またカレヤの子ヨハナンと、野外にいた軍勢の長たちはみなミヅパにいるゲダリヤのもとにきて、 彼に言った、「アンモンびとの王バアリスがあなたを殺すためにネタニヤの子イシマエルをつかわしたことを知っていますか」。しかしアヒカムの子ゲダリヤは彼らの言うことを信じなかったので、 カレヤの子ヨハナンはミヅパでひそかにゲダリヤに言った、「わたしが行って、人に知れないように、ネタニヤの子イシマエルを殺しましょう。どうして彼があなたを殺して、あなたの周囲に集まっているユダヤ人を散らし、ユダの残った者を滅ぼしてよいでしょう」。 しかしアヒカムの子ゲダリヤはカレヤの子ヨハナンに言った、「この事をしてはならない。あなたはイシマエルについて偽りを言っているのです」。(エレミヤ40章13-16節)

これら二つの事例では、「嘘を信じたこと」または「人が悪を行う可能性を認めなかったこと」が原因となり、「蛇のように賢くあること」を拒んだ結果、当人たちは命を落としました。艱難期には、悪霊的な源から来る偽の奇跡が数多く現れます。それらは世の目には正当なもののように見え、「可能なら選民さえも惑わすほどの大きなしるしと不思議」(マタイ24章24節)となります。信者は決して軽信的になってはなりません。特に牧師教師はなおさらです。そして艱難期においては、なお一層そうです。以前もあなたに言いましたが、友よ――私たちは神とその御言葉を信じます。それ以外は「現金払い(証拠提示)」です。

あなたのために祈り続けています、友よ。

イエスにあって、

ボブ・L

質問 #4:

別のメールになってしまい申し訳ありませんが、「完全なもの」について、明確にするために最後にもう一つだけ質問させてください。

あなたは次のように書いておられました:「いくつか注意すべき点があります。まず、パウロがこの書簡を書いた時点では、『完全なもの』はまだ到来していませんでした。聖書以外に、当時まだ到来しておらず、『完全なもの』と呼び得る対象が他にあるでしょうか。ギリシャ語原文は文字通り『完成した/完全な“もの”』と書いており、『もの』という語は、定冠詞と形容詞が中性形であるため、翻訳上不可欠です。もしキリストを指しているのであれば、男性形でなければなりません。『キリストの再臨』は聖書ではパルーシアと呼ばれています。再臨は他の箇所で『完全なもの』や『ある“物”』と呼ばれたことはありません。これらを結びつけようとする唯一の理由は、この誤った立場を支えるためです。」

ここで、「10節をキリストの再臨として解釈することは成り立たない」という点は理解しました。しかし、少し混乱しています。上の太字部分であなたが「キリスト」と書かれたのは、「キリストの再臨」という意味で言われたのでしょうか。それとも、もし「キリストの再臨(パルーシア)」という表現を外して、単に「キリストご自身」として「完全なもの」を解釈することは可能でしょうか(それでも実質的には再臨を指すことになるとは思いますが、表現としては違います)。この節はそのように解釈することは可能でしょうか。それとも、あなたが言われた通り、文法的に男性形でなければならないため、その解釈は許されないのでしょうか。この点をはっきりさせたかったのです。

つまり、もし単に「キリスト」と言うなら、それは「概念」よりも「具体的存在」を指すことになるのではないでしょうか(もちろん、救い主を「もの」と呼ぶのは私も好みませんが)。

キリストにあって

回答 #4:

私は自分が書いた内容に満足しています。キリストの再臨に言及することは、キリストご自身に言及することと同じではありませんか。しかし、キリストは「もの」ではありません。この箇所をそのように理解するのは、英語としても不自然であり、ギリシャ語としてはなおさら不自然であり、そして何よりも聖書の表現として最も不自然です。そもそも、この文脈の中に、そのような結び付けを可能にする根拠がどこにあるでしょうか。それを可能にする要素は何も存在しません。もしパウロがその意味で書いたのであれば、彼はそれを明確に示す必要があったはずです(しかし、実際にはそうしていません)。もし彼がそれを意図し、前回述べたように「略語的表現」を用いたかったのであれば、新約聖書には再臨を表す専用語があります。それが parousia(パルーシア) であり、「到来」「再臨」を意味します。しかし、この語はここには使われていません。さらに、もし私たちがその語を「補って読む」必要があるのだとすれば(つまり、空白を埋める形で理解するなら)、「完全なもの」を「完全な再臨」と理解する場合、その形容語は補われる名詞 parousia(女性名詞)に一致して女性形になるはずです。しかし実際の本文はそうなっていません。これがギリシャ語の文法の仕組みです。

イエスにあって、

ボブ・L