<それらの預言はすでに成就した…?>
<過去主義についての質問>
ロバート・D・ルギンビル博士著
…<訳者註: 質問者が、スティーブン・ベン=ヌン氏(回答ではB氏と表記)の「過去主義」(マタイ24章などの預言は全て一世紀に成就したとする説>についてどうボブ・L氏(ロバート・D・ルギンビル博士)が思われるか尋ねています。この質問9の質問の部分は非常に長いので、要約翻訳されています>
質問9
「この世代が過ぎ去ることはない」:マタイ23〜24章の再検討(スティーブン・ベン=ヌン)
私は長い間、マタイ24章を現代イスラエルと20世紀の政治的出来事というレンズを通して解釈してきました。今日の多くの教師たちと同じように、私はかつて32節の「いちじくの木」が、1948年のイスラエル建国によって成就したのだと信じていました。
「いちじくの木からたとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出ると、夏が近いと分かる。」
私たちにとってそれは明白に思えました。イスラエルの再興こそが、いちじくの木の芽吹きであり、預言の時計が動き始めたのだ、と考えていたのです。そしてその前提に立つなら、イエスの厳粛な宣言――「これらのことがみな成就するまでは、この世代は過ぎ去ることがない、」(マタイ24:34)――は、疑いようもなく私たちの時代を指しているように見えました。
しかし、時間そのものが、その解釈に問題があることを明らかにしました。もし「いちじくの木」を1948年と結びつけ、1世代を40年とするなら、期限は1988年に到来しますが、どの預言も成就していません。1世代を70年に引き延ばしたとしても、2018年はすでに過ぎ去ってしまいました。今や、理論を維持するために、ある人々は必死に「世代」の定義をさらに延ばし、年表を歪め、計算を作り替えるなど、あらゆることを行っています。
しかし、引き延ばせば引き延ばすほど明らかになるのは、私たちが聖書に従っていなかったという事実です。私たちは聖書を、ある体系に合うように無理やり押し込めていました――スコフィールドによって作られ、シオニスト神学によって形作られ、教会に取り込まれ、疑われることのない教義となった体系にです。聖句が私たちを導いていたのではありません。私たちが聖句を、自分たちの望む方向へ押しこんでいたのです。
ある姉妹が私に手紙を書き、次のように尋ねました。「マタイ24章34節『これらのことがみな成就するまでは、この世代は過ぎ去ることがない』を、あなたはどのように扱いますか」。この問いによって、私は新しい目で聖書に立ち返ることになりました。私が何年も見落としていた鍵は、実に単純なものでした。マタイ23章から切り離してマタイ24章を理解しようとしても、それは不可能なのです。
イエスは終わりのしるしから預言を始められたのではありません。まず痛烈な告発から始められました。マタイ23章において、イエスはパリサイ人と律法学者の仮面を剥ぎ、神が求めてもいない人間製の、タルムード的な重荷を人々に負わせる律法違反者として彼らを暴かれました。そして、アベルから彼らの世代に至るまでの義人の血について、彼らに責任があると告げられます。さらに決定的に、36節で次のように宣言されます。
「よく言っておく。これらのことはみな、この世代に臨む。」
その時点では、裁きそのものの詳細はまだ語られていません。イエスは導火線に火をつけただけでした。マタイ23章で舞台を整え、マタイ24章で、その世代が直面する裁きの内容を解き放たれるのです。このつながりを回復すると、すべてが変わります。章は封印された巻物のように開かれ、その預言は驚くほど明瞭に展開します――第一世紀に文字通り成就しつつ、同時に今日の私たちにも迫る霊的・比喩的意味を帯びているのです。
1.イエスが特定する「世代」(マタイ23章)
イエスは、戦争や戦争の噂、飢饉、地震、「荒廃の忌むべきもの」に言及される前に、まず裁きが下る世代を特定しておられます。マタイ23章は序論ではなく、告発状です。
(以下、マタイ23章29〜36節の引用と説明)
ここでイエスは、宗教指導者たちを「蛇」「まむしの子ら」と呼び、彼らが預言者を殺した者たちの真の後継者であることを暴かれます。そして「あなたがたの先祖の升目を満たせ」と語られますが、これは「父祖が始めたことを完成させよ」という意味です。彼らはメシヤを殺し、復活後には使徒たちを迫害することになります。それこそが、彼ら自身に裁きを招く行為となるのです。さらにイエスはエルサレムのために嘆き、「あなたがたの家は見捨てられて荒れ果てる」と告げられます。これは神殿の崩壊だけでなく、メシヤを拒んだことによる霊的荒廃をも含んでいます。
このように、マタイ23章は、誰が裁かれ、どの世代が対象なのかを定めています――すなわち、当時の指導者層と、イエスと同時代の世代です。マタイ24章は、その裁きがどのように展開するかを描いています。
2.神殿と弟子たちの質問(マタイ24章1〜3節)
イエスは神殿を出て、「ここでは一つの石も崩されずに残ることはない」と預言されました。これは遠い未来の神殿ではなく、その世代の神殿について語られたものです。弟子たちは「いつ」「あなたの来臨のしるしは何か」「世(時代)の終わりはいつか」と尋ねますが、これは1948年や遠未来の患難を主題とする質問ではなく、神殿崩壊とキリストの正当性の証明、そして神殿中心の旧約的時代の終わりに関する問いであると、著者は述べています。
3.偽キリスト、戦争、飢饉、地震(マタイ24章4〜8節)
著者は、これらの出来事が紀元30年から70年にかけて実際に起こったと主張し、ヨセフスやタキトゥス、使徒行伝などを根拠として挙げています。したがって、これらは「遠い未来のしるし」ではなく、当時すでに始まっていた「産みの苦しみ」であったとしています。
4.迫害と「全世界」への福音(マタイ24章9〜14節)
使徒行伝は迫害の現実を示しています。また、福音が「全世界」に宣べ伝えられるとは、現代的な意味で地球上の全員に及ぶことではなく、当時の「知られている世界」、すなわちローマ世界全体に広がることを意味すると著者は解釈します。その根拠として、パウロの言葉(ローマ10章18節、コロサイ1章23節)が提示します。
5.荒廃の忌むべきものと山への逃避(マタイ24章15〜20節)
著者は、これを紀元70年のローマ軍(ティトゥス)による神殿冒瀆と破壊に対応するものとし、教会史家の記録を引用して、信徒たちがペラへ逃れたことにも言及します。さらに、山・屋上・衣・妊婦といった表現に霊的象徴性を見出し、古い体制に戻るなという教訓として読み取ります。
6.大患難(マタイ24章21〜28節)
ヨセフスの記述をもとに、エルサレム陥落前後の惨状こそが「かつてない患難」に相当すると主張し、「日数が短くされる」という表現も、この包囲戦の文脈で理解されると述べています。
7〜8.人の子の来臨、いちじくの木、「この世代」
著者は、これらについても第一世紀的成就の枠内で理解すべきだとし、いちじくの木を1948年に結びつける解釈は誤りであると結論づけます。むしろ、当時の出来事の中で「この世代」すなわち約40年(紀元30〜70年)で成就したと主張します。
結論
マタイ24章が第一世紀に成就したと言っても、現代への意味が失われるわけではありません。むしろ、それは今日にも通じる警告として生き続けています。著者は、古い宗教体制への回帰や、良心を縛る制度への服従を拒み、キリストがすでに裁きと王権を受け、御霊を注がれた光の中を歩むべきであると結んでいます。
回答 #9:
背景の説明と情報の貼り付けをありがとう。とても興味深い内容でした。
1) もちろん、1948年という年も、ペンテコステ以降の他のいかなる年代も、聖書解釈の観点では意味を持ちません。なぜなら、教会時代、すなわち御霊の時代は「奥義の時代」であり、旧約の預言の中では(祭儀暦などに見られるように)ほのめかされているにすぎないからです。
2) 彼が言及しているのは、スコフィールド(スコフィールド注解聖書で知られる人物)のことです。初期の学者たちの中には、ディスペンセーショナリズムを行き過ぎて適用し(つまり多くを誤って理解し)た者たちがいましたが、その誤りは指摘されるべきです。ただし彼らは、解釈の前進という点では多くの貢献もしていました。問題は、目に見える教会がさらに前進する代わりに、彼らの誤りを「携挙」教義のように固定化し、教義として石に刻んでしまったことです。これは、ハイパー・カルヴァン主義者たち<カルヴァン主義(特に予定論)を極端に押し進めて解釈する人々>がカルヴァンの教えを扱ったやり方とよく似ています。
3) 「第一世紀に文字通り成就した」という点についてですが、B氏は「この世代」を、イエスが語っておられた当時の人々そのものだと考えているようです。しかし、主が言っておられるのは、実質的には「この種の人々」、すなわち、生まれながらに神の特別な民でありながら、かたくなに主を受け入れない人々のことです。この「型」は今も存在していることを、パウロも示しています。彼は、常に残れる者(レムナント)はいるものの、「一部のかたくなさ」(ローマ11章25節)がキリストの再臨まで続くと言っています。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。(ローマ11章25-27節)
問題は、英語の「generation(世代)」という言葉と、ギリシヤ語の genea / genos が持つ意味や含意との間にズレがあることです。詳しい説明は、Ichthysの「この世代This Generation (ヘブル3章)」および「この世代this generation」に関するメール回答を参照するのが最適です。<このファイルの最後に添付していますご参照ください>
4) エルサレムの滅亡について。主はルカ21章20–24節で、(約50年後に起こる)ローマ軍による都市の差し迫った破壊について語っておられます。しかし、その章の他の部分や「オリーブ山講話」では、主の再臨の直前に起こる破壊について語っておられます。エルサレムは紀元70年に破壊されましたが、それは完全な形での成就ではありません。たとえばゼカリヤ書14章に預言されているような解放は起きていません。包囲戦について語られている他の預言も、それに先立つ出来事(反キリストの出現や荒廃の忌むべきものなど)も、いまだ起きていません。とりわけ、ハルマゲドンと主の再臨に関わる出来事は未成就です。わずかな一致点を探し出すやり方は、聖書を寓意化することとほとんど同じであり、聖書を神の実際の御言葉と信じる者にとって、益のあることではないと私は思います。
5) ここですべてを反駁する時間はありませんが、聖書を読む人なら、第一世紀には決して成就していない事柄が数多くあることが分かるはずです。そのうち一つでも決定的なものがあれば、この理論全体は崩れます。そこで一点だけ述べます。マタイ24章には「反キリスト」という言葉は出てきません。「荒廃の忌むべきもの」とは、黙示録13章で偽預言者が立てる偶像のことです。テトスは反キリストではありません。反キリストは患難期の中間まで完全には現れず(第二テサロニケ2章3節)、全世界を支配します(黙示録13章8節)。また、テトスは像ではありません。これが極端な寓意化でなくて何でしょうか。さらに、ローマ軍が神殿に到達した時点では、もはや「逃げる」ことは不可能でした。偶像は包囲戦以前に立てられなければ警告は無意味です。Bが黙示録をどう扱うのか疑問に思います。この体系に合わせるには、黙示録全体を寓意化して消し去る必要があるでしょう。聖書解釈には正しい原則があり、とりわけ預言解釈においては重要です。私はその点を来たる艱難期シリーズの第1部(リンク先、IV.1「解釈学的課題」)で詳しく扱っています。
私は、Bが「携挙中心の終末論」や「1948年の特別視」という誤った枠組みから聖書解釈を切り離した点については評価します(聖書が書かれた時代にA.D./B.C.があったかのように考えるのは全くの誤りです)。しかし、彼の解決策は、解決する以上の問題を生み出しています。また、ほとんどのプレテリスト(歴史主義者)は不信仰者である(あるいはそう見える)とも言えるでしょう。この用語は、黙示録を無力化するために、たとえばネロを反キリストとし、書かれているすべてがすでに起きたか、単なる歴史的出来事の寓意だと主張する人々に使われることが多いからです。聖書を神の実際の御言葉と信じる者が、そのような考えを持つことはあり得ません。黙示録の出来事は、七つの教会の傾向やヨハネ自身の体験を除いて、まだ何一つ起きていません。しかし、書かれているすべては、やがて間もなく起こるでしょう。だからこそ、どれほど善意に見えても、誤った教えには近づかないことが大切なのです。
何らかのお役に立てば幸いです。B氏本人と議論するつもりはありません。あなたの背景説明を見る限り、彼はすでに十分多くの問題を抱えているようですから。
主イエスにあって、
ボブ・L
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「この世代」について:<ヘブル3章10節>
前述したように、「メリバ(Meribah)」とは「争いの場所」を意味し、出エジプトの第一世代の人々と、その約40年後の子どもたちが主を試みた場所に付けられた名称です。「この世代」という表現は、長老たちに見られた根深い心のかたさを特徴づけると同時に、同じ傾向がその子どもたちにも見られたことを示しています(民数記21章4〜8節, 25章1〜9節; 申命記9章4〜29節参照)。言い換えれば、「この世代」とは、限られた期間に属する単一の年齢集団を指すのではなく、多くの物理的世代にまたがって存続する、ある集団の性格、すなわち一つの「型」を指しているのです。
主イエスは、この並行関係を引き合いに出しつつ、同じ表現を用いてご自身の同時代の人々を描写されました。そしてそれもまた、同様に広い適用範囲を持っていました。すなわち、「この世代」とは、初臨の時代以降、イエスを拒み続けようとするイスラエルの人々すべてに見られる心のかたさを表しているのです(マタイ11章16節<日本語訳では「時代」>, 12章41〜42節, 23章36節<「この世代に臨むであろう」(ἐπὶ τὴν γενεὰν ταύτην)とは、この人々の集団、すなわちユダヤ人の上にという意味である。この表現は、福音書記者たちの中で、この意味においてしばしば用いられている。–Adam Clarke聖書註解マタイ23章36節>; マルコ8章12節; ルカ7章31節,11章30〜31節,11章50〜51節参照)。
よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この世代は滅びることがない。(マタイ24章34節/NIV; マルコ13章30節、ルカ21章32節参照)
さらにルカ福音書では次のように語られています。
いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。(ルカ17章24〜25節)
そしてこの預言は、肉によるイスラエルの大多数が、今日に至るまで自分たちのメシヤを受け入れることを拒み続けているという点において、すでに現時点まで成就していると言えます。パウロは次のように語っています。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 (ローマ11章25節)
モーセの時代における「この世代」とは、自分勝手な道を歩み、うなじのこわい者たちを指していました。それは親たちだけでなく、その子どもたちも含んでいました。同じように、主イエスの時代においても、「この世代」とは、救われるために主を受け入れることを拒んだ人々、そして親の歩みに倣って同じ道を歩み続けたその子孫を指していました。さらにパウロの時代においても、この表現は同じ意味を持っており、彼はこの並行関係を用いて、かつて受け入れた真理から離れ、再び当時の「この世代」と結びつこうとする危険を、読者に警告しました。その「この世代」とは、モーセの時代のイスラエル人の異教的堕落(民数記25章1〜9節参照)に相当するグノーシス的神話に従う者たち、あるいは、真理そのものである方が自ら証しをされたにもかかわらず、それを理解できなくさせたパリサイ人の伝統に従う者たちのことです(第二コリント3章14節参照)。
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。 (ヨハネ9章39〜41節)
質問 #7:
また良い一日をお過ごしください、先生。あなたのご回答を読んでいて、以前からずっと気になっていた、以下の聖書箇所を思い出しました。この節は、イエスが語られたしるしがエルサレムの滅亡ですでに起こったのだと主張する多くの人々によって用いられています。というのも、イエスが「この世代は、これらすべてのことが起こるまで、決して過ぎ去ることはない」と言われたからです。この点について、先生からさらに詳しいお話を伺えれば幸いです。今回もありがとうございます。神の祝福がありますように。
よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代<世代/ESV>は滅びることがない。 (ルカの福音書21章32節)
私たちの主イエス・キリストの御名によって。
回答 #7:
「この世代」という表現は、もともと旧約聖書に由来するものであり、年代的な区分を指すというよりも、世俗的・霊的な性質を持つ一つの「型」の人々を指しています。これを示す代表的な箇所(いわゆる locus classicus)は次の詩編です。
「主よ、あなたは彼らを守り、
この世代から、とこしえに彼らを保たれます。
悪しき者が至るところを歩き回り、
卑しい者どもが人々の間で高くされるときに。」
(詩篇12篇7〜8節〔KJV〕; 申命記32章5節, 20節; 詩篇95篇10節; 箴言30章11〜14節; エレミヤ書2章31節; 7章29節参照)
主イエスが用いられた「この世代」(ギリシヤ語 genos)という言葉は、ユダヤ人が全体として、メシヤであるイエスを受け入れることに関して、主の再臨まで心をかたくなにし続けるという事実を指しています(ローマ11章25節参照)。つまり、彼らは自分たちの目で主を見る時まで、「この型」に属し続けるということです。
解釈上の問題が生じるのは、ヘブル語の dor やギリシヤ語の genos を英語で「generation(世代)」と訳しているために、その英語の通常の意味、すなわち最大でも約40年程度の期間を指すと決めつけてしまう場合です。しかし、これらの箇所では、時間的な意味ではなく「型」や性質が問題にされており、ギリシヤ語 genos やヘブル語 dor は、必ずしも年代的な世代を意味しているわけではありません。
この点についてさらに詳しく知りたい方は、以下の資料をご参照ください。
英語の「generation」はギリシヤ語の「generation」と同一ではない
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストにあって。
ボブ・L