ニムロデとクリスマスツリー、異言、そして癒し <パート1>

https://ichthys.com/mail-nimrod.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

<質問と答えからの訳です>

質問:

いくつか質問があります。

  •  クリスマスとモミの木の飾り付けについてです。これは異教の習慣ではないのでしょうか(ニムロデを祝って、銀や金で松の木を飾るというもの)?

② 聖書には「異言を語ることを禁じてはならない」と書かれていないでしょうか。私の理解では、異言はすべての信者のしるしです。過去・現在・未来を通して、すべての人のためにあると言われています。確かに、いつかは終わるとありますが、知識は終わっていません。それなら、なぜ異言や癒しだけが終わるのでしょうか。

③ 私は神によって、二つの不治の病から癒されました。自分自身だけでなく、他の人たちに起こった本当の癒しの奇跡も目撃してきました。足がなかったところに足が生えたり、指が生えたりするのを見たことがありますか。私は見ました。それは神の恵みによる以外の何ものでもありません。もし強く聞こえたらお許しください。決してそのつもりはありません。私は宗教ではなく、神に堅く立っています。ただ、あなたの文章を読んでいて気になった点を指摘しているだけです。あなたが、多くの人に神の光と真理をもたらしている神の人であると私は信じています。そのことに感謝します。神があなたの日々を祝福してくださいますように。

主の御名において。

回答:

まずはじめに、温かいお言葉と励ましのコメントに感謝します。本当にありがたく思います。では、ご質問についてお答えします。

  •  第一の点についてですが、聖書の中には、ニムロデとクリスマスツリーを結びつける記述はまったくありません。私がニムロデについて書いた内容については、「サタンの反乱」第5部「洪水後における人間の自由へのサタンの攻撃、バベルの塔」をご参照ください。歴史的に見ても、ニムロデに関する言及は聖書の中にしかなく、創世記の該当箇所(また、歴代誌とミカ書にあるごく短い言及)にも、そのような話は一切ありません。クリスマスツリーの起源は、多くの象徴と同様に不明な点が多いものですが、それが聖書的な象徴ではないことは確かです。この点については、参考になる良いウェブ記事がありますので、「クリスマスツリーの起源」というリンクをご覧になるとよいでしょう。それが元々異教的なものであったかどうかは、ある意味では本質的な問題ではありません。これは感傷的な慣習であり、聖書の中に位置づけを持つものではありません。しかし、同じことは、伝統的キリスト教の多くの慣習についても言えることです。

教会が行っている聖書に明示的な根拠を持たない儀式のすべてが、それ自体として直ちに信仰に害を及ぼすとは限りません。問題が生じるのは、人々がそれらに聖書の真理と矛盾する意味や重要性を与えてしまう場合です。パウロが、偶像にささげられた肉を食べることを避ける必要があると確信していた当時の人々について述べているように、この点には二つの問題があります。第一に、その肉が何らかの形で魔術的に汚されていると誤って信じてしまう人々の側にある、良心と理解の弱さの問題です。第二に、これを正しく理解していながらも、そう信じている他の信者の前で公然とその肉を食べることが、彼らのつまずきとなる事実を考慮しない、愛の欠如という問題です(ローマ14章1-23節; 15章1節; 第一コリント8章1-13節参照)。この意味で言えば、クリスマスツリーを持つこと自体は問題ではありません。それが単なる文化的象徴であり、感傷的な慣習にすぎず、キリスト教的な意味を特別に持たないことを理解している信者にとっては、信仰上、是非を問われるものではないからです。しかし、次の三つの場合には問題となります。第一に、それが異教的象徴であると確信しており、その確信によって自分の良心が痛むにもかかわらず、なおそれを持つ場合です。第二に、それを持つことが、同じ考えを強く抱いている特定の人、あるいは複数の人にとって、深刻な霊的問題を引き起こすと分かっていながら、なお保持する場合です。第三に、クリスマスツリーに対して、感情や思い入れ、あるいは聖書に基づかない意味付けを過剰に施し、それが信仰の妨げとなってしまう場合です。そもそも、クリスマスは聖書には記されていません。私自身の年代的推定では、イエスが誕生された時期は、私たちが現在その誕生を祝っている時期とおおよそ重なっている可能性があります(「サタンの反乱」第5部「キリストの誕生」参照)。しかし、その日付自体は、復活のように聖書から特定できるものではありません(復活は過越の後の日曜日に起こったことが分かっているため、概算が可能です)。聖書は、特定の日を守ること自体が成熟した信仰の本質ではないことを明確にしています(ローマ14章5節; ガラテヤ4章10節; コロサイ2章16節)。特定の日の遵守はモーセの律法のもとでは重要でしたが、その律法は影にすぎず(コロサイ2章17節; ヘブル8章5節, 10章1節)、私たちは主イエス・キリストにおいて、その実体を持っています。

「クリスマスを祝うことは正当か」という点については、該当リンク<下記の「クリスマスを祝うことは正当か?」>をご覧ください。イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に同じ方です(ヘブル13章8節)。イエスの誕生、生涯、死、そして復活を信じる私たちにとって、昨日は救いの日であり、明日は主との再会の日であり、今日という日は、どの日であれ、主に仕え、主を愛し、主を学ぶための日なのです。どの暦の日であるかは、本質的な問題ではありません。

クリスマスを祝うことは正当か?

「Is it Valid to Celebrate Christmas?」

https://ichthys.com/mail-Christmas.htm

質問:

親愛なるルギンビル先生。質問があります。

第二コリント5章15–17節を読むと、クリスマスを祝うことは、主を「霊と真理をもって」礼拝することとは一致していないように思われます。私の理解では、クリスマスは、キリスト教が異教徒を取り込む必要があった数世紀後に、彼らが受け入れやすくするため教会に持ち込まれた習慣です。

そうなると、クリスマスは、ある意味で私たちの心に「覆い」をかけ、主をそのような方法で礼拝させるもののように思われます。神にとっては、そのように礼拝することは愚かなことなのではないか?とも思えます。

私はそのため、何年もクリスマスを祝っていません。先生のご意見を伺いたく思います。

ありがとうございます。

回答: あなたのクリスマスに関する質問は興味深いものです。『サタンの反乱』シリーズ第5部で述べたように、キリストが12月後半にお生まれになった可能性は実際かなり高いと思われます(ただし現在の暦で示される「紀元前1年」ではなく、実際には「紀元前2年」にお生まれになった可能性が最も高いと考えられます)。しかし、12月25日という日付が「キリストの誕生日」として文献に現れるのは4世紀になってからのことであり、その月の中の「正確な日付」を決定できる根拠はほとんど存在しません。文化的現象としてのクリスマスは今日、驚くほど大規模なものとなっていますが、最初からそうであったわけではありません。チャールズ・ディケンズがこれを大衆文化として広めたことが、その後の世界的な普及に大きな影響を与えました。今日では、クリスマスが「キリストとほとんど関係なく」祝われているケースすら少なくありません。聖書に「キリストの誕生日」という日付が示されていない事実は、重大な意味を持つように思われます。これに対し、十字架と復活の日付に関しては、より詳細な情報が聖書に与えられています。パウロは、特別な日を守ることを重視する姿勢を、しばしば「信仰の弱さ」と関連づけています(ローマ14章5節; ガラテヤ4章10節; コロサイ2章16-17節)。しかし同時に、信仰の強い者が、弱さのある者につまずきを与えないように配慮することも強調しています。この点を踏まえると、私たちは、兄弟姉妹をつまずかせないよう注意しつつ、文化としてのクリスマスにどう向き合うべきかを考える必要があります。ルドルフの物語、クリスマスツリー、感傷的な歌曲、ショッピングモールの過剰な商業主義、あるいは一部の家庭にみられる独特の感傷的儀式などは、言うまでもなくキリストとは無関係です。しかし、クリスマスの伝統の中には、キリストの誕生を記念しようとする意図をもつ要素も存在しています。そして、もしクリスマスをきっかけとして一人でもキリストのもとに導かれるなら、その点について私は喜びます。しかし、同時に、クリスマスがキリスト教のメッセージをゆがめる形で用いられるなら、その点は問題です。私個人の姿勢としては、周囲の人々に無用な反発やつまずきを与えないよう注意しながら、機会が訪れるときには、クリスマスが本来象徴している霊的真理を穏やかに指し示すように努めています。より根本的な問題は、キリスト教が歴史の中で制度化されていく過程で、儀式が「真実で能動的な信仰」に取って代わる危険性にあります。ローマ教会に端を発したこの傾向は、現代に至るまで伝統的なプロテスタントにも深く根づき、「プログラム(儀式)」が霊的成長の代わりとなってしまう状況が生まれています。これは重大な問題です。クリスマスを祝うかどうかという問題は、結局のところ、その人がどのような心でキリストを愛し、どのように日々主に仕えているかのほうが、はるかに重要なのです。日付そのものに霊的力があるわけではありません。真の礼拝とは、いついかなる時でも霊と真理によってキリストを敬うことなのです。

世界の救い主イエス・キリストにあって。

Bob L.

<パート2に続く>