イザヤ書53章5節で語られている「癒し」とは何か

https://www.ichthys.com/mail-healing%20Isaiah%2053-5.htm

<「質問と答え」ロバート・D・ルギンビル博士著 からの訳>

質問:

イザヤ書53章5節について質問があります。「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」という箇所を、肉体的な癒しとして適用する人々を私は見聞きしてきました。しかし私自身は、これは霊的な癒し、すなわち主なる神との交わりへ回復されることを指しているのではないかと考えています。先生の解釈をお聞かせいただけますでしょうか。

回答:

イザヤ書53章5節について、あなたの理解はまったく正しいです。全体の文脈は、キリストが私たちの罪と罪責のために成し遂げられた贖罪の犠牲について語っています。この箇所は、第一ペテロ2章24節でペテロが用いているのとまったく同じ理解です(さらに次の節<第一ペテロ2章25節>を見ると、「さ迷っていた」という表現が、肉体的な病気ではなく、私たちの全面的な罪深さを指していることが明確です)。確かに、イエスは地上でのご奉仕の間、多くの人々を肉体的に癒されました。しかしそれは、ご自身が誰であるか、つまりメシヤであることを示すためであり(ヨハネ10章38節)、また、肉体的な病を癒すことができたように、十字架におけるご自身の死によって私たちの霊的な病を癒されることを象徴的に示すためでもありました(ルカ5章17-26節、特に23節以下参照)。

付け加えておきますと、過度に重視すべき点ではありませんが、ヘブル語の nirpa`(「癒された」)は完了形で用いられており、直訳すれば「私たちは癒された」となります。たとえこれを一般的な完了形として理解したとしても、「必要に応じて繰り返し」という意味ではなく、「一度限り、完全に」という意味合いになります。すなわち、この癒しはすでに成し遂げられたものなのです(イザヤにおいては預言的に、十字架以後は事実として)。これは、キリストの罪のための「ただ一度限り」の犠牲を見据えた預言です(ローマ6章10節; へブル7章27節第一ペテロ3章18節)。したがって、この完了形の用法は、信者が繰り返し受ける肉体的癒しの約束を表現する仕方とは一致しません。もしそうであるなら、救いの時点ですでに私たちは一度限り完全に肉体的に癒されていなければならないことになりますが、そのように主張する人はほとんどいません。この箇所から、信者が常に完全な健康を約束されているとか、救い後に病気になった場合に即座の肉体的癒しが保証されているとか、あるいは慢性的な病から解放されると読み取ることは、私にはどうしてもできません。実際、使徒パウロ自身が慢性的な病を抱えていたことは明らかです(第二コリント12章7-10節; ガラテヤ4章13-15節参照)。

あわせて、次の資料もご覧になると参考になると思います。

キリストの血

The gift of Healing(癒しの賜物)

Jesus’ Healing by Touch(イエスの触れることによる癒し)

Is Jesus the only One who ever Cured Blindness?(盲人を癒したのはイエスだけか)

The Course of Jesus’ Ministry(イエスの公生涯の展開)

すべての罪、死、病に対する最終的な勝利と永遠の命を私たちに与えてくださるお方、主であり救い主であるイエス・キリストにあって。

ボブ・L.