質問と答え:終末に関する事柄#153

Eschatology Issues CLIII

https://ichthys.com/e-mails.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

からの抜粋翻訳

質問#10

ロバート、こんにちは。

確かに、マタイ24章とテサロニケ第二は、艱難期後携挙の筋書きを示しています。多くの敬虔な兄弟姉妹が携挙前説を信じており、患難が始まる時に自分たちの多くが生きていることを理解する必要があります。彼らは、その只中を通り抜けられる唯一のものは、神の恵みが彼らを信仰のうちに強く保ち、終わりまで耐えられるようにすることである、ということを知った上でそこに入っていかなければなりません(第一コリント1章8節)。残念ながら、多くの人が準備していなかったために離れ去ってしまうでしょう。五人の愚かな乙女のようにです(マタイ24章10節; 第一テモテ4章1節)。そのような状態で彼らが救われうるのか、私には分かりません。

主が祝福してくださいますように、兄弟。

返信 #10

私は、私たちの兄弟姉妹が、まるで眠ったままのようにして艱難期へ入っていこうとしていることについて、あなたと同じ懸念を抱いています。

その点について私が申し上げたい唯一のことは、聖書によれば、大勢の殉教者が出る一方で、生き残っていて、主が戻られるときに復活を迎える者たちも多くいる、ということです。ですから、三分の二(おそらくその割合)はうまくやり遂げることになるでしょう。

私は、これが意味するところは、今眠っていない私たちが、今は道を外れている人たちが眠りから目を覚ましたときに、急いで正しい道に戻るのを助けるために、多くの助けを行うことになる、ということだと思います。ですから、今の時点で自分にどのような奉仕(ミニストリー)が与えられているのか確信を持てていない人に対して、私が言いたいのは、おそらく艱難期が始まったときに、助けを必要としている人々に「短期集中の真理の教え」を提供することが、その奉仕になる可能性が高いということです。

そのことはまた、私たちのうちのそのような者たちは、自分自身の備えを二倍にして進めるべきだ、ということも意味しています。なぜなら、「それを教える」ためには、自分が教えようとしている内容を、普通の人以上によく知っていなければならないからです。

イエスのうちにて。

Bob L.

質問 #11:

もし私が誰かとまったく同じ考えに立てたことがあるとすれば、それはあなたとです。わあ!神をほめたたえます。もし艱難期後携挙の筋書きが真実であるなら、どうしてこれほど多くの敬虔な兄弟姉妹が、聖書が教えていないことを信じているのか、大きな謎です。もし神に選ばれた者が欺かれることがないのなら、どうしてこんなことが起こりうるのでしょうか?

神の祝福がありますように、ロバート。

返信 #11(翻訳)

「これほど多くの敬虔な兄弟姉妹が、聖書が教えていないことを信じているのは大きな謎」という点についてですが、結局のところ、ラオデキヤ的な大多数の信者は、聖書が教えていない多くのことを信じています……。それは、彼らが教会で良い教えを受けておらず(そして、生ぬるさのために、成長できる場所を探そうともしないからで)、謎でも何でもなく、自由意志による怠惰な姿勢の結果です。

「もし神に選ばれた者が欺かれることがないなら、どうしてこんなことが起こるのか」という点については、そのようなことを示す節を私は知りません。明らかに、信者たちは常にだまされ、惑わされています。そしてそれは初めから続いている傾向です。だからこそ主は、現在この世界を支配している悪魔の体制が嘘と欺きに満ちているために、私たちに「蛇のように賢く」あると同時に「鳩のように素直」であるように命じておられるのです。欺かれない唯一の方法は、真理のうちに成長し、それをしっかりとつかむことです。しかし今日の信者のほとんどは真理について非常にわずかしか知らず、気にも留めていません。その結果として、彼らは艱難期前携挙説や異言、あるいは霊的な安全のために「教会に加入する」必要があるといった欺きにかかりやすい状態になっています。ほとんどの人があまりにも準備不足であるために、艱難期が始まるとすぐに、かなりの数が獣の宗教に加わってしまうでしょう(聖書は三分の一を示唆しています)。

あなたが考えている節はおそらく次のものです。

にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。(マタイ24章24節)

しかしこれは、十分に備えられた信者ですら、艱難期に起こる欺きに注意する必要がある、という意味です。言い換えれば、「自分には絶対にそんなことは起きない!」と油断してはならない、ということです。

質問 #12:

ロバート、こんにちは。

確かに、多くの牧師たちによれば、教会にはラオデキヤ的で生ぬるい要素があります。ただ、マッカーサー、ジェレマイア、スタンレー、グラハム、ヘイギー、スウィンドル、そして他の多くの牧師・説教者たちが、そのカテゴリーに入るとは、どうしても理解しがたいです。私はどうしてもそうは思えませんが、もしかするとそこに何らかの真実があるのかもしれません。私にはわかりません。もしそうでないなら、もっと大きな何かが働いているのでしょう。そして私たちは、それが何であるのか知っています。それでも、私たちは全体として聖書については同じページに立っています。しかし、もしこれら著名な牧師・説教者たちがラオデキヤ的である、あるいはただ欺かれているだけだとしたら――それは深刻な問題です(いわば「ヒューストン、問題発生です」という状況です)。あなたが指摘したように、非常に多くの人たちが「第70週」を耐える準備ができておらず、イエスとパウロが警告したように、離れていくことになるでしょう。私たちができることは、聖書が語っていることを分かち合い、それを神の御手にゆだねることだけです。多くの艱難期前携挙説の人が、「神は教会とイスラエルを同時には扱えない」と考えているようです。だからこそ、ふたつは患難期間中に同じ地上には存在できない、と。その前提が取り除かれれば、携挙前説は崩れてしまいます。

分かち合ってくれてありがとう、兄弟。

返信#12:

あなたが挙げた人物や、その教会・組織のいずれについても、私は推薦することができません。以下に、その理由を説明するリンクを挙げます。

<英文ですが、参照リンクをそのまま載せておきます。御心であれば、以下のリストの中からいくつか訳文を配信できるでしょう>

Bible Basics 6B:  Ecclesiology: the study of the Church

Finding a Church – or Something Better? III

Finding a Church – or Something Better? II

Finding a Church – or Something Better? I

Can you recommend a church?

Mega-Churches, Emergent Christianity, Spirituality and Materialism.

Christian Unity and Divisiveness.

Dysfunctional Churches.

Church: The Biblical Ideal versus the Contemporary Reality.

Red Hot or Lukewarm?

The Meaning and Purpose of True Christian Assembly

Spiritual Growth, Church-Searching and “Discipling”

Ichthys and Contemporary Christianity

ラオデキヤ的であることを思い描くのは、あまり調査や想像を必要としません。イクシスIchthys の 聖書の基礎シリーズ(リンク)を読んでいただければ、今日の教会と信者の大多数が、この「基本的」情報の10%さえ知らず、多くの場合はむしろ誤った見解を持っていることがわかると思います。どうしてここまで悪化したのでしょうか。教会側と会衆側の両方で、教会の規模や「娯楽」(適切な言葉が見つからないので)に焦点を当て、本当に難しい霊的成長の働き(学びと教え)を避け、代わりに感情的な説教を求めたり、週に一度「神にうなずくだけ」の安易な礼拝で満足したりしているからです。これが、今日の「見える教会」がこのような姿になっている理由です。そして実際、このような代用品にかかわっている人々は、誰かが正しい方法を求めようとすると非常に防御的になり、しばしばその人を非難します。それは、彼らが自分たちの悪い例に従わないからであり――パリサイ派や、律法に戻ろうとしていたヘブル書の信者たちのように、というわけです。

「艱難期に教会とイスラエルが同時に地上に存在できない。だからこそ艱難期前携挙説が成り立つ」という点についてですが、良い指摘です。この混同こそが、現代の「見える教会」の主要な誤りのひとつです。キリストの花嫁はひとりであり、それは教会であり、教会にはアブラハム以前の異邦人信者、アブラハム以後の異邦人信者、そしてアブラハムの肉の子孫である信者が含まれます。「イスラエルと教会」を完全に別物として切り離すのは、聖書的に見ても誤った、そして霊的に危険な考え方です。私たち信者はみなキリストにあってひとつですから、両者を絶対的に分けてしまうのは正しくありません。その誤りは、過度に分割的なディスペンセーション主義によるものであり(これは携挙前説の誤りを生み出した原因でもあります)、以下のリンクで説明しています。

<以下のリストの中の「ヘブル人へのて手紙 第一章」は近日中にダークトゥライトのサイトに掲載する予定です>

Hebrews chapter 1, section I.e., “Dispensations”

Hebrews chapter 3, “Dispensations”

BB 6B: Ecclesiology, section I.B.5, “The Time of Transition versus the Present Status Quo”

Dispensations I

Dispensations, Covenants, Israel and the Church III

Dispensations, Covenants, Israel and the Church II

Dispensations, Covenants, Israel and the Church I

イエスにあって。

ボブ・L.

質問 #13:

こんにちは、ボブ。

5月5日のメール投稿で、あなたは携挙前説の問題についてさらに扱っていました。マタイ24章13節とその文脈を読むと、パウロが他の箇所で語ったように、明らかに艱難期の終わりについて語っていると私には思えます。原文は違うことを示唆しているのでしょうか。

以前、レジの列に並んでいたとき、店員が前の客に向かって「私は心配いりません。私たちは携挙されます」と言いました。私は反対を言おうとしましたが、御霊が強く私の口を閉ざしました。私は長い間その理由を不思議に思い、最終的に、それは彼ら自身の試練のために、彼らのことをそのままにしておくためだった、と結論づけました。それが正しい推測なのかどうか、私はわかりません。彼らが乗り越えられることを願っています。

そちらルイビルで、すべてがうまくいっているよう祈っています。

主にあって。

返信 #13:

「原文は違うことを示唆しているのでしょうか?」についてですが、まったくそのようなことはありません。特にマタイ24章は、ギリシヤ語として最も簡単な部類に入ります。10種の翻訳を確認しても、基本的にすべて同じです。この偽りの教義(艱難期前携挙説)がどれほどずさんであるかを示す証拠です。もし誰かが、自分の受けている「教え」を聖書と照らし合わせて確認していたなら、イエスが明確に艱難期の「後に」ご自身が戻り、復活が起こると言っている(マタイ24章29-31節)にもかかわらず、この「携挙」の考えを初めて聞いたときに首をひねったはずです。しかし、ラオデキヤ時代である今は、信者たちはあまり聖書を読まず、時々聞く「教え」をそのまま受け入れて満足している状態です(あえて「教え」という言葉を使います)。それは、自分に負担をかけず、「気持ちよく感じられる」ものであればなおさらです。「患難を通らなくてよい、そしてそれを避けるために何もする必要はない」と言われることほど、負担もなく心地よいものはないでしょう。あなたの話は、まさにそのことを裏づけています!

私も彼らが乗り越えられるよう願っています。しかし、今日よく言われるように、その種類の「希望」は戦略ではありません。私たちの真のキリスト教的希望とは、主が、神の御心の中で私たちが通ることになっているすべてを、私たちが主に忠実であり続けるかぎり、安全に導いてくださるという絶対的な確信です。

こちらは雨がまだ降り続いています。大規模なダービー前の花火大会は、雨と洪水のために中止になりましたし、明日の対面授業も中止になったと知らされました。ですので、明日は多くの急ごしらえの対応が必要になりそうです(天気が悪い中でも授業に行くよりも、はるかに大変です)。

イエスにあって。

ボブ・L.

質問 #14:

こんにちは、ボブ。

確認をありがとうございます。聖書には、私がまだ完全に理解していないことがたくさんありますが、この点については早い段階で理解していました。どうして誰かが聖書を読んで、これを誤解できるのか、私には理解できませんでした。あなたが指摘するように、彼らは聖書を読んでいないのです。実際のところ、彼らのどれだけが聖書を持っているのか、私は疑問に思います。多くのカトリック信者は持っていないことを私は知っています。正直に言えば、私も艱難期を避けたいと思っています。しかし、もし主が私に何かの働きを与え、私をこの地上に留められるなら、私はそれを見ることになるのでしょう。今私が見ていることは、私に元気を与えるものではありません。私はその時を恐れています。

興味深いことに、私は出エジプト記を再び読み始めています。イスラエルの人々は繰り返し不平を言いましたが、従った者たちは無傷で通り抜けました。それは私に大きな希望を与えます。あなたが指摘されたように、出エジプトは艱難期の予型です。今日、__ が訪ねてきて、話の中で「__ は常に聖書を読んでいた」と言いました。それもまた私に希望と喜びを与えました。私はあの七年間を楽しみにしているわけではありませんが、その先を見ることには心が躍ります。

とりとめのない話になって申し訳ありません……。

雨のことはお気の毒です。こちらにも少し分けてほしいくらいです。昨日、わずかな雨と寒冷前線が来ましたが、それだけでした。あなたが濡れずに過ごせていて、オハイオ川がその河岸を越えていないことを願っています。

主にあって。

返信 #14:

出エジプトの並行関係については、新しいヘブル書シリーズに多く書いてあります(リンク)。

多くの人が艱難期を恐れていることは知っています。確かに、それ自体を楽しみにできるものではありません……ただし、艱難期が終わると主が戻ってこられるということ、そして艱難期が始まれば、主の再臨のおおよその時期を確実に知ることができるという点を除けば、です。また、モーセとエリヤの再登場、彼らの奇跡、そして144,000人の奇跡、神殿の再建、その時期についてのすべての預言の成就を見ることができます。そして、獣とその従う者たちによってどれほどひどい扱いを受けても、最後にはその点でも正義が実現することを見るでしょう……しかも完全に。これは非常に心強いことです。さらに、もし私たちがその時にまだ「ここにいる」のであれば、それは主が私たちに何かを行わせるためです。報いに値する何かを。

イエスにあって。

ボブ・L.

質問 #15:

こんにちは、ボブ。

私たちは、モーセとエリヤを見たときに彼らだと気づくと思われますか? 長年見てきた絵のようには見えないだろうと思います。彼らを認識するには、彼らが何をするかを見る必要があるでしょう。イスラエルは第三神殿の準備を進めています。見出しをざっと見ると、赤い雌牛はすでにそこにいて待っている、とあります。テキサス州から来たとのことです。もっとも、同じようにざっと見る見出しでは、科学者たちが火星で古代の異星文明の痕跡を発見したとも書かれています。今では信じられるものはほとんどありません。

ヘブル書シリーズの一部を読みました。目を治した後に全体を読むのを楽しみにしています。

嵐の中安全にお過ごしください。

イエスにあって。

返信 #15:

「モーセとエリヤを認識すると思うか」についてですが、もちろん、私たちは彼らの写真を持っているわけではありません。しかし、ペテロたちは変貌の山で彼らを「認識しました」(マタイ17章3-4節)。ですから、彼らは何らかの方法で自分たちを明らかにしたに違いなく、艱難期でも同じことが起こると私は確信しています。疑う余地はないでしょう。なぜなら、彼らだけが、聖書に預言されていることを行うことができるからです。

赤い雌牛については以前にも聞いたことがあります(リンク)。私は、イスラエルまたはその他の場所のいかなる団体による「準備」にもあまり重きを置きません。実際に何を、どこで、どのように行う必要があるかを知っているのは、神の実際の使者だけです。そして、必要な準備はすべて、即座に(必要であれば奇跡的に)整えることができるでしょう。

「火星で古代の異星文明の痕跡」という話については(笑)、人は何でも信じてしまうものです。実際、多くの人は真理以外のことならほとんど何でも信じる傾向にあります。これも、反キリストの宗教があっという間にほぼ全世界の支持を集める理由の一つです。

昨日と今日は晴れでした。大学は再開しましたが、私は火曜日は授業がありません(今日はオフィスアワーと事務作業だけです)。明日も晴れの予報ですが、週の半ばから後半にかけてまた雨が来る見込みです。

イエスにあって。

ボブ・L.

質問 #16:

こんにちは、ロバート。

あなたが祝福され、今週の特別な金曜日に主との親しい時間を持たれることを願っています。質問があります。あなたは、預言や異言のような聖霊の賜物はもはや存在しない、という意見を持っておられると思います。しかし今は、その点はいったん脇に置かせてください。私はその意見を持っているわけではありません。

私の質問はこうです。私はどうしたら正しく見分けることができるのでしょうか? ある人たちは、それらはサタンからのものだと言い、他方、それを実践する人たちは、異言を語ることによって経験した奇跡について話します。たとえば、話したことのある家族の一人は、一度スペイン語の歌を歌い、スペイン語を理解する妻がその意味を説明してくれた(あるいはそのようなことだった)と言いました。ですから、一方では、パリサイ派の人々がイエスが悪霊につかれていると言ったとき、彼らは大きな間違いを犯したのであり、イエスが癒しをなさったことは、神の霊が働いておられる明らかなしるしだった、と私は思っていました。

他方では、ある女性が、聖霊なしに何かを語ったり(未来を言ったのだと思います)、またシモンという魔術師も、おそらくいくつかの奇跡を行うことができたようです。

違いは何でしょうか? 癒しを行うことができるのは神だけであり、したがって癒しを行う人は神からの人なのでしょうか? どの奇跡が神からのもので、どれがそうでないのか、どうしたら見分けることができるのでしょうか?

読んでくださってありがとうございます……祝福がありますように、ボブ!

返信 #16:

聖書で私が読むことの一つは次のとおりです。

にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。 見よ、あなたがたに前もって言っておく。(マタイ24章24-25節)

やがて来る時代に、獣とその偽預言者、そして主が上で述べられた人々は、「しるしや不思議」を行います。しかし、それらは神からではなく悪魔からのものです。ですから、驚くようなことを見たとき、それを神からのものだと決めつけるのは危険な誤りです。主ご自身がそのことをおっしゃいました。ですから、私たちがだまされている場合であっても、あるいは本物の「不思議」であっても、ただし悪の力によって行われているならば、私たちは、聖霊が私たちの心に証ししてくださる真理、すなわち神の御言葉から学び信じてきた真理から離れてはなりません。

このような事柄に心を向けることは、主が私たちに本当に望んでおられること――真理を学び信じ、それを学んだ後にやって来る試練に耐え、そして主が導かれる正当な奉仕を通して他者を助けること――から大きくそれてしまうことになります。その他のことは、多くの場合むなしい努力であり、最悪の場合、私たち自身を暗闇の穴に投げ込むことになります。クリスチャンは、この種の惑わしに非常に弱いのです。なぜなら、私たちは心が優しく、人のことをよく思いたいと願うからです。サタンはそれを知っています。そして主もそれをご存じであるため、「鳩のようにすなおである」だけでなく、「蛇のように賢くありなさい」(マタイ10章16節)と言われたのです。

私は、これらの嘘に引き込まれることで、霊的成長の望みを失い、人生や霊性を破壊してしまったクリスチャンを多く見てきましたし、知っています。もし誰かが本当に聖霊に力づけられて異言を語っているのなら、それは素晴らしいことです。しかし、そのことは、異言を語っていない私やあなたにとって何の関係があるのでしょうか? もし誰かが本当に聖霊によって触れて癒す力を与えられているのなら、それは素晴らしいことです。しかし、私たちはそうではありません。ですから、そのことは、私たちがこの地上で主のために何をしようとしているのか、何をすることになるのかについて、何も変えません……ただし、私たちがそのような人々を追いかけ、そのようなグループに関わるという致命的な誤りを犯す場合を除きます。実際のところ、私はあなたに真実を言いますが、それらはブラックホールのようなもので、多くの人が二度と戻って来ず、戻って来たとしても大きな傷と後悔を負っています。なぜなら、それらは実際には偽りの道だからです。

あなたは、自分がしようと思うことをするでしょう。しかし、悪を試すような行為は非常に危険です。火薬は、若い人にとって花火のように楽しいことがあるかもしれません。小さな爆発です。しかし、私の高校時代の親しい友人は、それをやりすぎて、文字どおり自分自身を吹き飛ばしてしまいました。ほかにも、薬物、アルコール、危険な行動など、多くの類似例があります。あなたが言及している事柄におけるもっと大きな問題は、人々が神からの者であると主張し、神の業を行っていると主張することです――それは、クリスチャンにとって、火薬や薬物やアルコール、危険行動よりも少なくとも二倍は危険です。

慎重で疑い深い調査――他人の言葉をそのまま受け取るのではなく――をすれば、必ずそのような事柄はごまかしであることが明らかになります。聖霊が癒せないことがあるでしょうか? 聖霊が異言を与えられないことがあるでしょうか? 神は何でもおできになります。しかし、神が何かをしておられないのに、それを神がしていると偽って主張すること、またはそのような人々と関わることは非常に危険です。

このテーマについては、ウェブサイトに多くの記事があります。例:

<英文ですが、参照リンクをそのまま載せておきます。御心であれば、以下のリストの中からいくつか訳文を配信できるでしょう>

The Gift of Tongues: part 3

Third Party Testimony: We Believe God and His Word – Not People

God Heals – in His way (not our way)

Prophets, Prophecy, and False Prophets

Confronting False Groups and False Teaching VI

Cult Characteristics (in HE 10)

イエスにあって。

ボブ・L.

質問#17:

ボブ、答えてくださってありがとうございます!

ここからが問題です。私はこういったことに実際に参加したことがありますが、今はそれについて疑問を持ったのでやめています。

それは __ でのことでした。あるグループの人たちが、私が異言の賜物を受けるようにと祈ってくれました(彼ら自身も異言で祈っていました)。しばらくして、私も同じことをしましたが、とても早い段階で、私はそれをかなり奇妙だと感じました。それで今の今までやめています。

もしそれが神からのものだったのなら、私はやめるべきではなく、それを実践しているクリスチャンたちを避けるべきでもないはずです。

しかしもしそれが神からのものではないのなら、私はそれには絶対に手を出さず、そういうことをしている人たちを避け、教会を変えるべきかもしれません。なぜなら、私の教会の中には(少なくとも一人、とても愛すべき兄弟が)それを実践している人がいるからです。それだけでなく、私の家族/家族の一人も異言を語ることに関わっています。そして、信仰において私を大いに助けてくれたある男性もこれを行っています。

ですから、私はそれが神の御霊からのものなのか(ケース1)、それとも(少なくとも次に挙げるほど悪くはないかもしれない)単に人間から出たものなのか、あるいは別の何かから出たものなのか……本当に知りたいのです……どうか最後のものではありませんように!!

ここでもう一つ質問があります。

わたしが悪人に向かって、悪人よ、あなたは必ず死ぬと言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を、あなたの手に求める。 (Eze 33:8)

そこでは、ある裁きが彼らに下らないように、悪しき者たちに警告することについて語られています。しかし、私たちには今、もっと大きな罰を前にしている悪しき者たちがいるのではないでしょうか。すなわち、捕囚ではなく、地獄での永遠の苦しみです。

それなら、私たちが野外伝道や、帰宅時間にきちんと間に合う範囲であっても、与えられたあらゆる機会を用いて福音を宣べ伝えないなら、神はやはり、彼らの血を私たちの手からも求められるのではないでしょうか?

主イエス・キリストの御名によって、祝福がありますように!

返信 #17:

これらの点を逆の順番で取り上げますと、この規定はエゼキエルに対してのものでした。主ご自身が彼を「見張り」として任命し、この務めをお与えになり、その務めは、おそらく、主が彼に語られたことを、聞く耳のある人たちに分かち合うというかたちで「自分の仕事をする」ことによって果たされたのだと思われます。バビロンに住む捕囚の民の生活を調べるために、エゼキエルが捕囚共同体のあちこちを歩き回ったという印象は、私たちには与えられていません。

私たちは預言者ではありません。私たちは主によって、個人的かつ直接的に、この特別な「見張り」の務めに任命されたわけではありません。私たちはイスラエルという国民でもありません。ですから、このことには直接的な適用はありません。しかし、もしあなたがこの箇所にもとづいて、「私たちは皆、主のために『自分の仕事』を果たすべきだ」と言いたいのであれば、私はそれには全面的に同意します。そして、もし私たちに伝道の賜物と伝道の務めが与えられているなら、いったん私たちが成熟にまで成長し、正しく試され吟味され、そして主によってその務めへと導かれたならば、そのときには私たちは、現代の「打ちっぱなし」のような伝道がしばしばそうであるようなやり方ではなく、主が望まれるかたちで、その務めを忠実に果たすべきです。(現代のそのような伝道は、新しく救われた人たちを、救われたあとは自分で何とかするように放り出してしまったり、ラオデキヤ型の「教会」に任せてしまったりします。それに比べて、パウロが小アジアで伝道した教会を再訪したときの熱心さ、そして自分のチームからの訪問や手紙を通して、その教会と関わり続けた熱心さを思い出してください。)

わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 (第一コリント9章16節)

パウロも同じように、私たちの主から(異邦人に伝道するようにという)個人的かつ直接の任命を受けていました。しかし彼でさえ、最初に霊的に成長し、試され、その後にその務めへと導かれることが求められました。最初の宣教旅行は、主がダマスコ途上で彼に現れてから、かなりの時が経ってからのことでした(ガラテヤ1章15-18節参照)。

ですから、私たちが「自分の仕事をしていない」ことを心配する前に、まず最初のことを第一にしなければなりません。すなわち、成熟にまで成長し、主が私たちを試され、精錬されることを受け入れ、主が私たち一人ひとりのために用意されている特定の仕事/務めへと導いてくださるのを待ち、それから心を尽くしてそれを行う、ということです。しかし、今日の多くの信者たちは、この最初の三つの段階を飛ばしてしまいたいと願っています。

最後にこの点について言えば、主が「喜んで与える人」を愛されるのと同じように、これら三つの準備の過程で主が私たちに望んでおられることをすることは、恐ろしい義務感ではなく、喜びとなるべきです。そして、務めの中で主の御心を成し遂げることは、その中でも最も大きな喜びであるべきです。なぜなら、それは大きな永遠の報いへとつながるからです。

(1)そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。(2)あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。(3)また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。(4)そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。 (第一ペテロ5章1-4節)

異言についてですが、あなたが言っていることはよく分かります。誰でもでたらめな音を口にすることはできます。多くの異教の宗教でも同じようなことが行われています。しかし、聖書に出てくる「異言の賜物」は、常に「聞き取ることのできる、人間が実際に話す言語」を語ることでした。それは決してナンセンスな音の羅列ではありませんでした。もしそれを本当に経験していたなら、「自分が経験した」とはっきり分かるはずです。そこに疑いがあるのは、もっともなことです。というのも、異言を教えるグループが教えているのは、聖書的な異言ではないからです(前に挙げたリンクを参照してください)。

イエスにあって。

ボブ・L.

質問 #20:

…あなたが送ってくださった 2026年の件と、(教会時代、大患難時代の時期などの)リンクを、私はまだ読み進めています。私はメモを取りながら読んでいて、いくつか質問があります。今のところ質問は一つだけにします。あなたは、「バビロンの大淫婦」はニューヨーク市だと思いますか?――そして、その滅びは文字通り「一時間のうちに」起こるのでしょうか?…

返信 #20:

「バビロンの奥義(ミステリー・バビロン)」の特定についてですが、彼女はポリス(都/都市国家) と呼ばれています。さらにその都/ポリスは、「地の王たちを支配する者」(黙示録17章18節)です。これは、どの「都市」にも当てはまりません。可能性としてローマだけかもしれませんが、それでもヨーロッパにおいてのみで、地上全体ではありません。

また、ローマの場合でさえ、ローマはただの「都市」ではなく、「都市国家」でした。それがポリスという語の本来の意味で、単なる都市部だけでなく、その都市が支配する領域全体を含むのです(「モスクワ」と言ってロシア全体を指す、「北京」と言って中国全体を指す、というような使い方に似ています)。したがって、バビロンは実際には、私たちの言い方で言えば「国家」であって、単なる「都市」ではありません。

「一時間」は、この文脈では「短く定められた期間」という意味です。黙示録18章に最も詳しく記されているこのバビロンの滅びは、大患難時代の最後の年、ハルマゲドン作戦の直前に起こります。この滅びが完了するには数か月かかります。この点に関する最良のリンクはこれです。

バビロンの具体的な特定については、次のリンクをご覧ください。

「来たる艱難期第3部」の「将来の『謎のバビロン』の正体」

<リンク先ファイルの37頁参照>

In Jesus,

Bob L.