<オーデイオのクラスの中で言われている「<教会時代とユダヤ人の時代の>艱難期の重なり」についての聖句について引用されているイクシスのサイトからの箇所を、参照のため以下に掲載しておきます https://ichthys.com/mail-eschatology-issues145.htmから抜粋翻訳:>
…<前略>…
*七千年の解釈は聖書に教えられており、理解され適用されるべきものです。
*教会時代は二千年の期間、すなわち2000年間続きます。
*教会時代は、キリストの十字架と復活後に始まりました。
*これらの出来事は紀元33年に起こりました。
*大艱難期は教会時代とユダヤ時代両方に属するため、大艱難の開始点を計算する際には、2000年の総計から差し引く必要があります。
*第七の封印が解かれる際の天の半時間の沈黙(黙示録8章1節)は、開始点を春から秋へ移す半年間の恩恵期間を意味します。
*聖書はこのタイムラインの短縮や延長を示すいかなる示唆も与えておらず、したがってそのようなスケジュールの変更は予想されていません。
…<中略>…
両時代をそれぞれの最後の七年間で結合させることで、イスラエルと教会(当然ながら最終的には一つとなる存在です——私たちは皆、キリストの花嫁の一部です)が、私たちのメシヤの帰還直前に結合する強力な象徴が生まれます。この重なりが正しい解釈である他の証拠をいくつか挙げます(「サタンの反乱の第五部」のリンクから<リンク先ファイルでは、101頁、日本語印刷本では440頁参照>):
1) キリストの体を構成する異邦人の完成は、再臨に(すなわち、艱難期の終わりに:ローマ11章25-26節)おけるイスラエルの心の変化と一致していること。
2) 「異邦人の時代<英文では複数のtimes>(つまり、1000年の期間の複数<として2000年>:ルカ21章24節)」と表現されている現在の時代の終焉は、エルサレムが「踏みにじられる」のが終わる時(つまり、キリストの再臨は艱難の終わり)という事実。
3) 現在の教会時代の反キリスト型の欺瞞者らの傾向は、艱難の中で反キリストが現れることによってのみ頂点に達するという事実(第一ヨハネ2章18節)。
4) 預言されている(そしてすでに観察可能な)教会の背教の傾向は、艱難においてのみ成就するという事実(黙示録3章14-20節と第二テサロニケ2章3節を比較)。
5) 教会時代は、現実的かつ聖典的に「終わりの時」の一部であり(第一コリント10章11節; ヘブル1章2節; 第一ペテロ1章20節; 第一ヨハネ2章18節)、「終わりの日」の決定的な期間である艱難から除外されるのであれば、この原則はほとんど意味をなさないこと。
6) 最後に、おそらく最も重要なことは、クリスチャンとしての私たちの希望の多くは、大艱難期の終わりに起こる主の再臨を心待ちにすることにあるという事実です(1テサロニケ4章13-18節; テトス2章13節、詳細に関してペテロ#27参照ください)。
また、この聖句もあります:
(5)それから、海と地の上に立っているのをわたしが見たあの御使は、天にむけて右手を上げ、(6)天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った、「もう時(文字通り、『時間』)がない。(7)第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになった(原文「福音」を宣べ伝えた)とおり、神の奥義は成就される」。(黙示録10章5-7節)
「神の奥義」とは、イエス・キリストとその教会以外に何でしょうか(例:ローマ16章25節; エペソ1章8-10節, 3章1-11節; コロサイ1章25-27節, 2章1-3節; 黙示録1章20節)? もし「神の奥義」が艱難期の終わりと同時に完成するのであれば、そして私たちが現在の「戦いの教会」としてまだ地上にいるのであれば、教会時代がまだ続いている可能性はないのでしょうか? これらは絶対的かつ最終的な結論ではありませんが、これらの証拠を総合すると、時を知っている信者が、間もなく始まる艱難期に備えないことは極めて賢明ではないと示唆されています。