聖書の基礎:聖書における必須の教義第6部B:教会論:教会の研究から「使徒行伝 章ごとの学び」の箇所の抜粋翻訳 1-3章
d. 使徒行伝 章ごとの学び
使徒行伝1章-主の御霊の預言にもかかわらず、ペテロとその仲間は、新しい使徒を「選ぼう」と決めて、驚くほどの忍耐のなさを見せました。これは明らかに間違いでした(旧約聖書の時代でさえ、エポデのウリムとトンミムを使う祭司だけが主に「イエスかノーか」の質問をする権限を与えられていたのですから)。マッテヤのことはそれ以降何も聞かれませんが、私たちの主はパウロを選ばれました(使徒行伝9章15節)。そしてパウロは、すべての書簡の中で使徒職を主張しています(第二コリント12章12節)。このことからだけでも、今日、キリスト教の実践の雛形として使徒行伝を用いることの危険性がわかります。[1]
使徒行伝2章-最初のペンテコステでは、聖霊の降臨に伴って「激しい風が吹いてきたような音」が聞こえ、「舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどり」、エルサレムの群衆に集団伝道が行われました。これらは、前にも後にも起こったことのないユニークな出来事です。「これは、いったい、どういうわけなのだろう」(使徒行伝2章12節)、「兄弟たち、私たちはどうしたらいいのだろう?」(使徒行伝2章37節)というように、これらの出来事を目の当たりにするユダヤ人の群衆の間には、まったく基準となるものが存在していません。–これは、始まったばかりの教会時代がもたらした状況の変化の大きさを示しており、それゆえ、このディスペンセーションの移行にともなう状況の変化に適応するための過渡期が必要であることを示しています。ペテロが福音のメッセージの中で水による洗礼を推奨したこともまた独特でした(使徒行伝第10章は事後理解)。この儀式は、イエス・キリストについてヨハネの証言を受け入れた人々と、新たに信者となった人々を団結させるだけでなく、ペテロが言うように、使徒たちが これらの新しい信者たちに手を置いて、聖霊の賜物を授ける機会を提供しました(使徒行伝2章38節「…そして、あなた方は聖霊の賜物を受けるでしょう」)。後になって(使徒行伝10章のように)この儀式は必要なくなりましたが、初期の段階では使徒の権威を確立するために重要だったのです(ルカ4章40節)。
その後、この最初の信徒たちに与えられた特別な交わりの時間もまた独特なものでした(使徒行伝2章42-47節)。しかし、教会時代の歴史におけるその特別な時点では、ペンテコステがもたらした勢いを獲得し、維持するのに十分なペースで教会の拡大と発展を加速させるために必要な霊的成長の迅速なスタートのための時間と空間を、これらの新しい信者に与えることになったのです。 使徒行伝3章-パウロがヘブライ人への手紙を書いたとき、エルサレムの信者たちに、神殿の儀式や犠牲を続けることは「神の子を再び十字架につける」ことになり(ヘブル6章6節)、「神の子を踏みつけることになる」とはっきりと告げました(へブル10章29節); しかし、この初期の時代には、ペテロとヨハネが神殿を訪れることは自然なことであり、御霊はそれを用いて、生まれつき足の不自由な人を癒すという驚くべき奇跡(このようなことは、今日では起こっていないことに注意する必要があります)を行いました。さらに、この時のペテロの説教では、水のバプテスマについては何も語っていないことに注目しましょう(使徒行伝3章19節と使徒行伝2章38節を比較)。
[1] 詳細は、ペテロ・シリーズ#2を参照。
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