ichthys.comに「サタンの反乱」の著者であるロバート・D・ルギンビル博士の読者との興味深いコミュニケーションを見つけました。この訳本の出版にあたり、読者の皆さんにご紹介したいと思いました。というのは、多くの人が持っているかもしれない共有する質問者の質問(私も同じ質問を持っていましたので)と、博士の答えからさらに養われることになり、また博士のお人柄に触れることができると思ったからです。
質問#11
親愛なる教授、
この世界で、信頼に値する真実なものはただ一つ、もちろんそれは神の聖なる御言葉です。唯一の問題は、その言葉を理解することです。おそらく私は、聖句に直接表現されていることと、仮定に基づく解釈の違いに、十分に注意を払ってこなかっただけなのでしょう。あなたのせいではありません。あなたは、2026年が艱難期の開始の日であることは一つの解釈であるとおっしゃいました。<中略>
…あなたは御自分の解釈に自信があるとおっしゃいますが、その自信はどの程度のものなのか、私はもっとよく知りたいのです。あなたは15年債権を買いますか? 新しい屋根が必要なら、15年耐久物か30年耐久物のどちらを買いますか?
神様がいつ私たちを<天の>ふるさとに呼んでくださるかわからないので、私たちは毎日が最後の日だと思って生きなければなりません。私の地上の未来は12年(前後する可能性あり)に限られているのでしょうか、それとも他の先生方がおっしゃるように、私たちにはわからないのでしょうか? 一緒に聖書の勉強を始めた頃、息子が私に、もしその日が間違っていたらどうするのかと尋ねました。私はその時、聖書をもっと勉強して後悔することはないと言いました。息子は賛成してくれました。もちろん、今でもその言葉を信じています。感謝のうちに。
キリストにあって
<ルギンビル博士から>
回答#11
まず、あなたがおっしゃったことはすべて素晴らしくよく考察されていると思いますし、あなたの観察と結論のすべてに完全に同意します。あなたの根本的な質問に答えますと… . . .
聖書に書かれていることは真実です。聖書に直接書かれていないことを推測するとき、それは解釈です。
聖書の事実: イエスは神です (例: マタイ1章23節; ヨハネ1章18節; ローマ9章5節; テトス2章13節; ヘブル1章8節; 第一ヨハネ5章20節)。
聖書の事実:イエスご自身が語っておられるように、艱難はあります(マタイ24章21節; マルコ13章19節)。
聖書の事実: 艱難期は7年間続き、大艱難はその半分です(ダニエル7章25節; 9章25-27節)。
聖書の事実: 千年王国は千年続きます(黙示録20章2-7節)。
聖書の事実:異邦人の時代とユダヤ人の時代はおよそ4,000年続きました(聖句に基づく計算はリンク⁎を参照してください)。<⁎リンクは、サイトの「サタンの反乱 第四部 Ⅱ.人間の歴史における神の計画」の項にあります。今回出版された日本語の「サタンの反乱-艱難期への序章」では434頁~>
聖書の解釈:教会の時代も2,000年続くので、創世記の再創造の7日間と平行する7,000年の完璧な人類の歴史が与えられます(この解釈の確信レベルは、上述のものとヘブルの儀式暦の情報に基づいて非常に高いですが、聖典が実際にこの数字を提供していないため、これは一つの解釈です:それは推論です)。
2026年についてはどうでしょう?艱難期が千年王国より先に起こり、復活が艱難期の後に起こることは間違いありません。教会時代は、十字架とイエスの復活から始まり、艱難期の開始の間にある奥義<と呼ばれている>時代です。艱難期の開始の時期は、教会時代の2,000年の直後に始まると解釈するのが妥当です。
しかし、キリストが十字架につけられ、墓からよみがえった日付は、聖書と世俗の証拠を組み合わせて決定されます。私たちは、前者<聖書>をどのように読むかについて高い確信を持っていますが、後者<世俗の証拠>に関しては、聖書から来た情報ではないので、明らかに独断的になることはできません。例えば、ルカがヨハネのバプテスマ宣教の日付(キリストの3年半の宣教の開始を特定するために必要な日付)を定めるとき、ルカ3章1節で「ティベリウス・カエサルの治世の15年」と言っています。それが何を意味するのか、そして、世俗的な歴史において、それがいつであったのか(すなわち、西暦28年8月19日から西暦29年8月18日の間のどこか)についても、かなり確かな考えを持っています。しかし、この判断は聖書ではなく、世俗の歴史的記録に基づいています。
私は多くの時間と労力を費やして、年代に関するさまざまな聖書の記述と、私たちが持っている世俗的な歴史的証拠とを結びつけました。これらの結果は、先のリンクで紹介されています。自信は?というと、はい、あります。しかし、この解釈は多くの「流動的なもの」の上に成り立つものであり、そのいくつかの証拠は聖書から得たものではありませんから、2026年という日付が数年早かったり遅かったりする可能性があることを認めるべきでしょう。もちろん、私はそう<その可能性>は思っていませんし、そんなことが起こるとも思っていません。でも、私が言ったことを主の御前に言い開きするのは私の責任です。
情報を得て「どうするか」については、私は(お金のかかる)債券を買いません。地上の視点から見て状況が「良い」か「悪い」かに関係なく、主がこのミニストリーに参加することを望んでおられる限り、神が私を助けてくださる限り、私は何とかやっていけているし、これからもやっていくつもりです。艱難期でなくても、状況は非常に悪くなる可能性があります。
私は第二次世界大戦の研究者ですが、あの時代に多くの人々(生き残った人々も、そうでない人々も)が経験した時代や状況を振り返ると、それ以上悪い状況の艱難期というものが想像しがたいです。しかし、もちろん、<艱難期において状況は>もっと悪くなるでしょう。私たちの主ご自身が、上述の聖句で、そのように語っておられます(マタイ24章21節; マルコ13章19節)。しかし、第二次世界大戦の世代は、多くの場合、艱難の到来を予見することができず、多くの大陸で多くの人々がすべてを失いました。
要は、私たちには明日があるかどうかもわからないし、ましてや15年債が満期を迎える前に何が起こるかもわからないということです。私たちは、ヤコブが勧めるように、「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」 (ヤコブ4章15節)と言わなければなりません。そうすれば、私たちの生き方への適用という点では、艱難期が明日起ころうが、今から100年後に起ころうが、その間のどの時期に起ころうが、問題にはならないはずです。艱難期が近いことを理由に慎重な対策を取る(例えば、新たな目的意識を持って霊的な成長に集中する)ことは間違いではありませんが、今日何かをすることが正しいのであれば、艱難期の日にちに関係なく、今日それをすべきです。それが私の見解です。
私は預言者ではありません。預言の賜物を持たない私は、聖霊と与えられた賜物の助けを借りて、聖書について理解するために与えられたことを、聖書を熱心に学びながら教えています。聖書が語っていない事柄に関して「解釈の余地」がある場合、あるいは教えの一部が聖書以外の情報に基づいている場合には、それを指摘するのが私の義務です。特に今回のように、読者が「<教えを>とおり過ごし」(第二ヨハネの手紙1章9節)与えられた情報を誤って適用してしまう可能性がある場合はなおさらです。
結局のところ、私たちがこの地上にいるのはほんの短い間だけです。私たちが下す決断、特に大きな決断が、永遠の光に照らされたものであり、私たちの主人を喜ばせ、主人の裁きの座で良い報告を受け、良い報いを受けるものであるなら、艱難期のタイミングに関係なく、その決断は良いものであり、適切なものでしょう。しかし、もし私たちが自己中心的で、自分自身の快適さと幸福にしか関心がないのであれば、それに応じた報いがあります。たとえ艱難期の正確な日付について正しかったとしても、私たちの行動が自己中心的であるなら、私たちが予測を立て何をしようが、その大いなる<裁きの>日に主の御前ですべて焼き尽くされてしまうのです。
これらのあなたの送ってくださるこのメールでのあなたの善意と真摯な態度にとても感謝しています!あなたの真理への献身を喜びつつも、これらの教えのどれかがあなたを苦しめたかと思うと胸が痛みます。上記のいずれについても、遠慮なく私に返事を書いてください。
「私はその時、聖書をもっと勉強して後悔することはないと言いました。彼は同意してくれました。もちろん、今でもその言葉を信じています」に対してアーメンです。アーメン!
イエス・キリスト、私たちの祝福された希望、その再臨を待ち望んでいます。
ボブ・L.
p.s.、長い質問を読み飛ばして答えだけを読むのはあなただけではありません。でも、他の皆さんがあなたの送ってくださったこの貴重な質問を読んでくれることを願っています。
以上が、ルギンビル博士のサイトに見つけた「質問と答え」の一つを翻訳したものでした。
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