元旦の祈り

年の初めに、大きな地震が能登半島で起こりました。

元旦にこのようなことが起こるということについて、主はきっと何かを語られたいと思っておられるに違いない、と妻に言われて、考えていた時、この聖句を思い出しました。

 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。 (マタイ16章3節)

 色々な兆候が世界で起こり始めています。これは私たちの世界が、終わりに向かってどんどん進んでいるということ、つまり私たちの主の再臨が間近かであることを気づかせようとしておられることでしょう。

 弟子たちがイエス様に「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」 と尋ねた時(マタイ24章23節)、主は、いくつものしるしを語られました。偽りキリストたちの出現、戦争、紛争、ききん、地震などを産みの苦しみの始まりとして語られました。新しい世界である至福千年の到来、つまりイエス様の再臨が喜ばしい誕生としてたとえられるなら、その前の陣痛の期間の始まりとしてそれらの兆候があることを主は弟子たちに告げられたのです。

 そして、今は、いくつもの兆候が現れ始めています。

 キリストではないものをキリストと見なすような、宇宙人説や、偽りや欺く霊、霊にとりつかれて不思議や力あることをして人の注意をひく人物たちや、また食糧危機(日本でも食べるものが無くて飢えている子供たちが増加)、そして戦争(今アラブ半島のマンデブ海峡が封鎖され、戦争が始まっています。ホルムズ海峡にその戦火が飛び火したら、そこからの石油に依存している日本は大打撃を受けるでしょう)、そしてこうした地震です。しかも年の初めに。主は私たちに「あなたがたは空の模様を見分けることができるのだから、どうして今の時代についてわたしが語った言葉をさとらないのか」と言われているように思えます。

 私たちは、主が気づかせようとしていることについて、真剣になる必要があります。

 災害も、自分のところで起こらないと結構無頓着です。しかし、被災地にいる人達だけが、何か特別悪いとか罪あるというわけではないのです。次のような聖句があります。

…ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。 (ルカ13章1-5節)

 主は悔い改めを求めておられて、まことの神に人々が立ち返るのを呼び掛けておられるのです。艱難期を私たちは迎えると私は信じていますが、聖書で言われている艱難期は、近年私たちが体験してきた災害とはくらべものにならないものです。

 主が新しい世界を打ち立てる前に、神の家のさばきから始めて、地を清められるのです。それは神のさばきの火によって清められ、嵐の風によって吹き払われることになるものです。他人事ではなく、主は私たちに真剣にこうした時の終わりがま間近であることに向き合って、主との関係を正すことを求めておられるのです。

 今、被災地で、苦しんでいる人達、不安で眠れない夜を過ごしている人達のためと、またたった今被災していない私たちが悔い改めるべきことを悔い改めることができるようにお祈りしましょう。

 祈り:天のお父様、イエス・キリストの御名により、恵みに与っている者として、お願いいたします。今生き埋めになって恐れにおびえている人達、またその人達の救出に当たっている救援隊の方たちのために祈ります。救出を必要としている人達が速やかに救い出されますように。救援隊の方たちに導きと知恵と力を与えて下さい。また避難している人たちが今夜、暖を取ることができますように。また不安を募らせている人達が、心を落ち着かせることができますように。普段、近所でいても会話がほとんどなかったりしていた人達が、今寄り添い、助けあい励まし合うことができますように。

 また現在被災していない私たちも、この世の時をさとり、あなたの再臨に対して備えることができますように。心を改め、行いを改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができますように。あなたをお迎えするためにランプの灯火をともし、油を備えていた賢いおとめのようになれますように。(マタイ25章1~13節)

 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 (マタイ 25章1-13節)