I.  誰がヘブル書を書いたのか?

この質問に対する簡潔で申し分のない答えは、「使徒パウロ」です。 しかし、この答えはこの著者にとっては絶対的に明確なのですが、様々な問題があるとして、誰もが常にこの評価に同意してきたわけではありません。 例えば:

この手紙の著者は自分自身を名乗らないが、もともとの受取人には明らかによく知られていた。約1200年間(紀元400年頃から1600年頃まで)、この書物は一般的に「ヘブル人へのパウロの手紙」と呼ばれていたが、初期の数世紀には、その著者について一致した見解はなかった。宗教改革以来、パウロが作者であるはずがないと広く認識されるようになった。 ヘブル人への手紙の教えとパウロの手紙の教えの間に不調和はないが、具体的な強調点と文体は著しく異なっている。 パウロの通常の習慣に反して、ヘブル人への手紙の著者は、彼が人間であることを示す以外(ヘブル11章32節)、手紙の中で自分を特定することはない。 さらに、「主によって最初に告げられたこの救いは、主の声を聞いた人々によって、私たちに確かめられました」(ヘブル2章3節)という記述は、著者がイエスの地上での宣教の間、イエスと共にいたわけでも、パウロのように復活した主から直接特別な啓示を受けたわけでもないことを示している(ガラテヤ1章11-12節)。NIVスタディ・バイブル K.バーカー (1985)

上記は、ヘブル人への手紙の著者に関する現在の福音主義学者の意見をかなり正確に反映したものです—しかし、あらゆる点で間違いがあります。 パウロが著者であるはずがないことを証明すると言われている上記の主張を検証してみましょう。

1. 強調

「ヘブル人への手紙の教えとパウロの他の書簡の教えの間に不調和はない」と後に認めていることからすると、これは奇妙な反論です。 確かにヘブル人への手紙は、パウロの他の書簡よりも多くの時間を費やしているテーマもありますが、コリント人への手紙、テサロニケ人への手紙、テモテへの手紙という三つの書簡を見ても、パウロの書簡はすべて内容が異なっています。 その点で、必然的に「強調」は、書き手と同じくらい、いやそれ以上に、書理由や目的にも関係してきます。 ヘブル人への手紙においてモーセの律法やイスラエルの歴史など、ユダヤ人の問題に関係するテーマが強調されているということは、この手紙がエルサレムとその周辺の信者に宛てて書かれたことを意味しているのでしょう。 仮に、パウロ以外の誰かが聖霊に命じられてこの手紙を書いたとしたら、その手紙は現在の手紙と「強調点」においてどのように違うのでしょうか。 ヘブル人への手紙は、その目的と読者層からして 「異なり」ますが、その違い自体は、パウロの著作を疑う根拠にはなりません。

2.文体

先ほどの引用でNIVスタディー・バイブルの編集者が認めているように、「約1200年間」この本は一般的に「ヘブル人へのパウロの手紙」と呼ばれていました。 彼らはさらに、「初期の数世紀には、その著者について一致した見解はなかった」と述べています。 というのも、教会史の専門家なら誰でもよく知っているように、教会時代の最初の4世紀について私たちが持っている情報は、ごくわずかであり、他方では、ほとんどの場合、少数のさまざまな学者(つまり、このような論争に関心を持つような人々)からのものだからです。 実際、このテーマに関する最古のコメントは、オリゲン(3世紀前半頃、エウセビウスが引用)のもので、作者について「神のみぞ知る」(Hist. Eccl. 6.25)という言葉がしばしば引用されています。 ギリシャ語では、この言葉は「誰がこの手紙を書いたかについては、神が真実を知っておられる」(『伝道史』6.25)となっており、これほど強調的でも断定的でもありません。[1]

しかし、私たちは写本、完全な、あるいはほぼ完全な古代の聖書写本を所有しており、その写本がパウロ書の中にヘブル語を含んでいることから、初期の数世紀における意見の一致を疑う余地はなく、それは間違いなく教会時代の初めから直接伝わってきたものです。 P46(チェスター・ビーティ・パピルスthe Chester Beatty papyrus、紀元2世紀頃)では、ヘブル人への手紙はローマ人への手紙に続いてパウロの書簡の中にあり、シナイ写本(紀元2-3世紀頃)でも、ヘブル人への手紙はパウロの他の書簡、すなわちテサロニケ人への手紙第二とテモテへの手紙第一の間にあります。バチカン写本(紀元4世紀頃)では、同様に第2テサロニケの信徒への手紙に続いており、初期のギリシャ語写本の大半も同様です。[2] したがって、実際の物的証拠からすると、初代教会はパウロの著作について疑いを持たなかったように思われます。 NIV SBによって報告された少数の屁理屈は、事後に学者筋からもたらされたものです。

ここで心に留めておくべきもう一つの重要なことは、どのような文章であれ、書き手の文体は、読み手を意識して決まるものだということです。 テモテとテトスへのパウロの書き方は、パウロが奉仕した教会への書簡に見られるものとは多少異なっている。エルサレム教会は、パウロ自身の教会ではなかったという点だけでなく、この手紙の前に、私たちが知る限り、パウロが使徒として奉仕したことすらなかったという点で、特異な教会でした。 聖書に記されているエルサレムの信徒たちとの事前の接触から察するに、そのようなパウロの働きかけに対するエルサレム教会の対応は、せいぜい生ぬるいものであったことです。

結局のところ、回心前のパウロは、エルサレムの信者たちを迫害することに個人的に深く関わっていました(使徒行伝8章1-3節, 22章4-5節, 22章20節, 26章9-11節; ガラテヤ1章23節)。 その後、彼らと交流しようとしても、その誠実さは疑われていました。最初快く話を聞いてくれたのはバルナバだけでした(使徒行伝9章26-27節)。命を狙われてタルソスに帰され(使徒行伝9章28-29節)、バルナバが彼を探した後、エルサレムではなくアンティオケに行きました(使徒行伝11章25-26節)。 その後のパウロとエルサレム教会との接触は、パウロがエルサレム教会に所属していると実感できたというよりも、むしろ好意を得ようとする部外者としての性格が強いです(使徒行伝11章27-28節; ガラテヤ1章15-20節, 2章1-10節)。 もちろん、これが彼がエルサレムに上った理由でした(御霊の導きに背いて: 使徒行伝20章22-23節; 21章3-4節; 21章10-14節; 次の聖句も参照: 使徒行伝22章17-18節; ローマ15章31節)、彼が逮捕されるに至ったのは、異邦人信者から苦労して集めた献金をエルサレムの教会のために献げたためでした(使徒行伝24章17節; 第二コリント8章9章; ガラテヤ2章10節)。 そして忘れてはならないのは、この訪問の結果、パウロは廃止となったと知っている儀式への参加を強要され、結果として逮捕され、ローマに初めて投獄される羽目になりました。 さらに、パウロがこの手紙を書いたのは、ローマでの二度目の捕囚生活においてです(下記Ⅱ節参照)。 したがって、この手紙は、私たちが持っている他のパウロの手紙とは大きく異なっており、また、パウロが書いた他のどの手紙と比べても手紙の相手との関係もまったく前例のないものでした。

エルサレム教会でのパウロの前歴と、エルサレム教会から見たパウロの権威の欠如のゆえに(使徒であるにもかかわらず、エルサレム教会ではほとんどの人がパウロのことをそう受け止めていたようです: ガラテヤ2章9節参照)、パウロが異なる口調を採用し、異なるアプローチをとったのには、そうしたそれなりの理由があったということです。これらの考察は、パウロの他の書簡に見られる使徒としての挨拶の省略(例えば、ローマ1章1節, 11章13節; 第一コリント1章1節, 9章1-2節, 15章9節; 第二コリント1章1節, 12章12節; ガラテヤ1章1節, 2章8節; エペソ1章1節; コロサイ1章1節; 第一テモテ1章1節, 2章7節; 第二テモテ1章1節, 1章11節; テトス1章1節)と、文体における幾分の変化を説明するのに役立ちます。 しかし、見落とされているもう一つの大きな考慮点は、(少数の異邦人改宗者もいますが)この読み手の会衆のほとんどすべてがユダヤ人信者であったという事実です。 実際、この手紙はユダヤ人聴衆に宛てた唯一のパウロの手紙であり、パウロより先に「信仰に入っていた」人達が、ほとんどではないにせよ、その多くを占めていました。

対象がユダヤ人であったこと、そして主題が律法の問題と、キリスト復活後の教会時代の新しい現実と律法(とそれら)がどのように関連しているかということが、この手紙の斬新な形式を決定する重要な要因だったのです(同じくユダヤ人信者にのみ書かれたヤコブの手紙の独自性を参照してみてください): ヤコブ1章1節)。ヘブル人への手紙は、パウロ自身の信徒を対象とした 「回勅」ではなく、パウロ自身の信徒ではない特定の信徒を対象とし、彼らに特有の問題(ユダヤ人であること、律法の儀式に歴史的に参加し続けていること)を扱った長い単行書です。 ヘブル人への手紙のこのような異なる目的は、必然的にその文体にも影響を与えました。 その形式は、伝統や空想に頼るのではなく、神に信頼するという問題についての詳細な弁明の性格を帯びています。 異教や哲学から真理に立ち返ることが絶対視されていた異邦人の信徒には、このようなアプローチは不要でした。 しかし、ユダヤ人信徒にとっては、それまでの神の真理の摂理である律法から、十字架につけられて復活し、律法を成就させ、その代わりに真理を照らす者として御霊を与えたメシアという、新たに啓示された真理への転換だったのです。

少なくとも、エルサレムではそうなるはずでした。 しかし、そうはならず、古いやり方が新しいやり方をかき消すような、外部からの腐食的な影響が蔓延している環境でした。そこで問題となった信者たちは、伝統的なユダヤ教に戻そうとする強い力に屈したり、初期のグノーシス主義に誘惑されたりしていました。 このような状況下では、異なる方法を採用し、異なる論証を展開し、著者自身のことについては、できるだけ表に出さずに置く必要がありました。著者は、明らかな理由と前述した理由により、あまり好意を持っていない人達に、すぐに耳を傾けてもらうために、教え自体が直接語りかけるようにする必要があったのです。

<続く>


[1] Eusebius, Hist. Eccl. 3.3.5; 3.38.2-3.を参照してください。

[2] D. Guthrie, New Testament Introduction (Downers Grove 1965) 686.