正直さ(ひとしずく 4377)

正直さというと、自分が相手の間違いや嫌なところをなんでもしゃべることだと思っている人がいます。

自分もそうだったと思います。

しかし、それは自分がいかに独善であるかを正直に暴露することになることがあります。私にとってありがたかった正直な言葉は、私の高校の物理の先生の「先生もわからないんだよ」という正直なひと言でした。

私が家出をして、どこに行ったかわからなくて、学校の先生や生徒をさわがせた時のことです。

 私が、人生について悩んでいたことは、生徒も先生も皆、知っていたと思います。人は何のために生きているのか? 目的もわからないのに、どうしてただ、がむしゃらに進んでいけ、というのか?? まず、自分がどこに向かうのかを、真剣に考えるのは、まず先に来るのではないか? なぜ、人は、そんなことは考えなくていいのだというふうにふるまえるのか?

 仲間は、初め私の話相手になってくれましたが、後で、「もうそんな話しないでくれ」と言われるようになりました。

 先生が入れ替わり、立ち代わり、私を助けようとしてくれましたが、私の言っていることに、ある若い教師は、ただ黙ってしまいました。ある年配の先生は、そんなこと考えないで、まず受験勉強したらいい。お前なら**の大学に入れるから。

 本を読んでも、友達に話しても、先生方に聞いても、答えは得られず失望でした。私は、答えが欲しくて必死でした。私は、自分に答えを与えてくれる人を見つけなければ、と思い立って旅に出たのです。つまり家出ということになりました。私が高校では生徒会長をしていたので、突然いなくなって、全校生徒にいつまでも隠していることはできなかったでしょうし、私がそういえば、悩んでいたようだったことは、気づいた人も少なくなかったと思います。

 私が二か月後に帰ってきたとき(まだ答えは見いだせなかったけれど、大学に行けば答えを見つけれるかもしれないと思って、家に帰ることにしたのです)、あとで、母親は、警察に捜索願を出しましょうかと学校の教師に言われた時、「いや、あの子は、ひとりになりたくて出たのだから、そっとしてやったほうがいい」と答えたそうです。

 私が、戻って初めて教室に行って、朝のホームルームの時、担任の先生が、おもむろに、「先生にもわからないことはあるんだ」というような話をしました。その話の前後は覚えていませんでしたが、教室のみんなも、私も、私の悩み事について、先生が相談にのれなかったのは、先生自身も答えをもっていないんだということを皆に知らせたようなものでした。

 私は、その時、ホッとしました。そうか、先生もわからないんだ。だから答えを彼から聞けなくて当然だ。そして私は先生も知らないことの答えを得ようとしているんだ、と落ち着くことができたのです。

 先生にとって、それは身を低くさせられることであったと思いますが、私が突然いなくなったことについて、彼のできる限りの優しい対応であったと思います。私は答えは得ていなかったものの、自分だけがわからない、おかしな存在というふうに思わなくていいと思えたことは、少し落ち着かせてくれました。

 わたしは、人生の目的についに、わかるまで、探し続けてよかったと思います。私は後で聖書に出会いました。そして、私の質問に答えてくれる神と聖書の真理を見つけて、私は変わりました。

 正直さは、正直を生み出しました。自分がいかに問題をかかえ、不正を行い、罪深い者であるかということを正直に見つめ始めることになったのです。私は、表向きは生徒会長をして、模範生であったけれども、裏では万引きをしていたのです。自分に耐えられなくなって、すべて私が万引きをした店をまわって、正直に話しました。ある人は、「もう忘れなさい」、ある人は「弁償するように」と言いました。私は、バイトをしてお金を返しに行きました。

私は、神からも人からも赦されたとわかった時、本当に自由になれたのです。

 私たちは、自分をごまかしながら、正直に見つめることをしないで、罪の中に、またごまかしの中に、真実や、真の問題には目をつむって今までどおりわだちの中を歩こうとする習性があると思います。

 しかし、罪を隠す者は栄えることはありません。主が赦して下さったその恵に与るには、他の人の罪を正直に言うことではなくて、自分のうちに住む罪を正直に認めることから始まるのだと思います。

 しかし、本当に自分の内に巣くう恐ろしい罪は、いくらか働いて償い得るものではありません。私達は、自分の罪が永遠の神の御前で、いつか裁かれるようになることを心の深いところで知っていると思います。御霊は、それを語りかけられます。しかし、恐ろしい真実に私達は、目も耳もふさいでいたいのです。これは、ただ私達自信を創造して下さった神にしか助けることのできないことです。

まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。 とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価が高くて、それを満足に払うことができないからである。 (詩篇 49篇7-9節)

イエス・キリストは、自分で自分を救えない者のために、来てくださったのだと御自分のことを私達に語っておられます。

イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 (ルカ 5章31-32節)

 自分で自分の問題は何とかなると思っている人には、助けも救い出されることも必要ありません。自分の袖下に何か、賢い手段を隠し持っている人には、救い主は必要ないのです。ただ自分の利得のために利用できると思って御利益宗教のように救い主の名を唱えることをする人がいますが、イエス様はそのような人を救い出すと言ってはおられません。

本当に、自分の罪を悔い、罪深い自分の存在そのものを赦して恵みをもって支えて下さる救い主が必要だと思う人のために現れて下さいます。

 その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。 (箴言 28:13)

  もし、私達を救って下さるこの救い主にまだ、出会っておられず、そして自分こそ罪を赦してもらい、救い出してもらわなければならないと思っているなら、今、あなたを救って下さる主イエス・キリストを呼び求めて下さい。主はあなたが自分勝手な道を歩いてきたその罪の赦しを与え、新しいスタートを助けて下さいます。

 主イエス様は、今この時、あなたの心のすぐそばにおられます。もしまだ主イエス様にお祈りされたことがないなら、このお祈りをしてみて下さい。主は、あなたの心を神の愛で満たして、新しい人生を歩むのを助けて下さいます。

 祈り: 主イエス様、罪の赦しのために、十字架で犠牲を払って下さったことを感謝します。どうかわたしの罪をおゆるし下さい。そして私が、あなたの心にかなう歩みを始めることができるように、どうかわたしを助けて下さい。私の心の中に入り、あなたの愛で満たして下さい。 アーメン

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 今日、ある動画を見ていました。みんなが目をつむっていたい事実に、光を当てるようなことでした。すでにその罪の種が多くの人にまき散らされ、多くの人の心と体を汚してしまったという事実は、誰も聞きたいとは思いません。しかし、それを直視しないと、問題の対処にはならないのです。

 アダムとエバがどうして、苦労が絶えなかったのか、そしてその子孫である私達が、この世では悩みが満ちているのか、それは彼らが罪を犯したことが原因です。そして罪を犯させるように、仕向けたサタン、そして今も絶えず、誘惑し、罪のうちに留まるようにさせているサタンの手下ども、悪霊どもがいるのです。しかし、神には答えがあります。

 主はイエス・キリストを送られて、私たちの罪の身代わりとされました。この恵み深い答えにあずかるには、まず自分のうちに宿っている罪に気づく必要があります。その事実に目を閉じていては、根本の解決策には至らないのです。

  下に張り付けられているリンクの動画<同サイトの「もう止めてください」の動画のことです>は、私達が、勇気をもって、自分達が今、どんな事態にあるのかを直視する必要のあるものです。この問題を無視するのではなく、これに向き合って正直になって世界中が変わる必要があるものです。神にはそれができます。私達が必死になるなら、神はいつでも助けて下さいます。しかし、目を閉じ、真実を見ようとしないなら、惑わしの中にとどまることになります。残念ながらそれに全力を出して抵抗し反対する者もいますが、最終的に勝利するのは主と主について行く者達です。私達が主と主の真理を愛して、最後まで主について行く者となるように、主が助けて下さいますように!!

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 (第一ヨハネ1章9-10節)

 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 (エペソ 5章11-14節)