決死の覚悟で 二〇一四年 秋 ひとしずく一六四五
今日、久しぶりにJさんに会うことができました。Jさんは、何十年かぶりで特老の看護士の仕事を始めたのだそうです。私と同じくらいの年齢なので、「スタミナ大丈夫ですか?」と尋ねたら、不思議と大丈夫です、と答えました。
彼女は「無我夢中でやっています。他のことなど煩っている暇はなくて、ただ新しい仕事を学ぶ事、そして一日一日をやり遂げることができたらと必死です。そして、新しい職場で新しい人間関係の中で、自分がうまく受け入れられ、その場に適合することを願って毎日過ごしています」と言っていました。
たとえ以前からそうした資格を持っていたとしても、何十年もやっていなかったことをやるというのは、大変なことだろうと思いました。
私はJさんの話を聞いて、先日、ファミリーレストランで食事していた時のことを思い出しました。車中泊が続き、食事もコンビニのおにぎりなどで済ませていたので、妻が電話で、何かしっかりとしたものを食べるようにと勧めてくれました。そこで、あるファミリーレストランが、朝食バイキングをしていて、値段も安く、お昼近くまで居られるので、そこに行く事にしました。
そのレストランには、一人のウエートレスしか居ませんでしたが、彼女はとても落ち着いていて、新聞を持ってきてくれたりして、良く気を利かせてくれました。
このレストランのブッフェスタイルは人気のようで、次々とお客がやってきました。
私はこのウエートレスがいつまで、一人でこれほどの人々の応対ができるか興味をもちました。私はそのレストランの一番隅のところに座っていて、店内全体を良く見渡すことのできる場所に座っていました。
そのウエートレスは、毅然とした態度をくずしていません。何かこれから大変なことになるということを承知していて、心と全てをそれに対して備えているようでした。
そして彼女の気構え通りに、そのレストランはお客で一杯になりました。
私は、冷房のきいたその場所で、コンピュータの仕事をできるだけしたかったので、朝食バイキングの時間内ぎりぎりまで粘ろうと思っていました。しかし、あまりにも人が続々と入ってきて、他の人の席がなくなるようなら、その店を出ようと思いましたが、ちょうどタイミングよく席が空くので、ずっとそこにいることができました。
この間、このウエートレスさんは、受け付けをし、会計をし、食物を補充したり、お客さんの質問に答えたり、と、とても機敏に働いていました。店内はほとんど満席に近かったと思います。しかし、彼女はその朝食バイキングが終わるまで、見事に一人で全部をやりこなしたのです。
私は帰る時、「一人で、これだけのことをよくやることができますね。びっくりしました」と彼女に声をかけました。すると彼女は、「私もどうなることかと心配しました。」と言いました。
そして私が「これ、毎日ですか?」と尋ねると、彼女は「ええ、そうです」と答えました。
これは先述のJさんと同じように、夢中になってやり遂げようとするなら、成し得るのだということの確証のようなものでした。
そのレストラン内での人々のピーク時にも、彼女の霊は乱れず、良いもてなしをしていました。その人は明らかに決死の覚悟で何十人ものお客さんに対応するために、気を引き締め、その場に臨んでいたのでした。
Jさんといい、このウエートレスといい、私は、人が必死になるとどれだけのことができるかということを改めて学ばされた気がします。そして私たちクリスチャンは、主イエス様にしがみついて、必死に助けを呼び求めるのなら、主は奇跡的にどんなことでも為し遂げてくださるのを知っています。これは、救われて神の子となった者の特権です。
どうか、困難に直面している人、また自分の手にあまる状態を前にしている人に、命ある全ての者と共におられる神の愛を思い出させて下さい。
そして主よ、あなたが小さな者たちの叫びを決して軽しめられないことを示して下さい。
主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ、わたしはだれをおじおそれよう。 (詩編二七篇一節)
主は弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
(イザヤ書四〇章二九節)
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