隠れた破壊パワー
「モア・パワー」 マーリン・キャロザース著からの抜粋 ひとしずく一二七五に掲載
批判的な精神は、いつも人をあて推量しようとします。「彼は『こう』言ったけど、本心は『ああ』だったんだ。彼はこのことを私に言ったけど、恐らく、 他の人には別のことを言っているんだろう。
裁きは何と厳しい重荷でしょうか! 裁きには、ある程度高慢という要素が入っています。私たちは、あまりに確信をもって「知っている」と言います。そして、その知識によって私たちは得意になるのです。
ジョンは、痛々しい方法を通して、「高慢は破滅に先立つ」ことを学びました。彼が高慢になったために、かけがえのない友人に対する信頼を損なってしまいました。そして、ある意味では、彼自身の高潔さも損なわれてしまったのです。
ジョンは友人と、ほとんどゼロから事業を始めました。何年か苦労して、二人とも誇れるような会社に成長しました。収入は着実に増えていきました。
彼らは、地域社会にも必要な多くの貢献をしていました。間違いなく、彼らは一緒に働くことを喜びとし、言いうる限り最高の親友になったのです。
しかし、ある日、ジョンは友人が奇妙な行動をとっていることに気づくようになりました。彼は、友人が帳簿を綿密に調べているのに気づきました。
そして、なぜか以前に比べて幾分開け広げでなくなっているように見えました。ジョ ンが部屋に入ると、友人が電話の声をひそめているのに気づいた時もあります。見れば見るほど、それははっきりしてきました。友人は事業を乗っ取ろうとたくらんでいたのです!
ジョンは苦悩に耐えました。彼の健康は損なわれました。職場と家庭での彼の態度も変わりました。友人に対する彼の批判が彼の心の中に広がって生きました。
とうとうある日、友人は事務所に入って来て、こう言いました。「ジョン、話さなければならないことがあるんだ。僕たちは長い間友達で、君にこんなことを言うのは本当に嫌なんだけど。」
ジョンは、「いよいよきたな。やっと、こいつは、自分の汚い陰謀を打ち明けようとしているだな」と思いました。
「恐らく、僕は数ヶ月しか生きられないって医者が言うんだ。僕は、君のために、最後の仕事の整理をしようとして一生懸命働いてきたんだ。少しははかどったけど、もう力尽きてしまった。」
…私たちは、何が起っているかに気づくまで、批判に対して全く備えができていないのです。しかし、批判は、予測可能なパターンを辿ります。
まず、ヒットラーやスターリン、殺人、犯罪、世界戦争のような明らかな悪とわかるようなことについて、何度も繰り返し考えてみてください。恐らく、これらのことについてあなたができることはないでしょう。しかし、少なくとも、 世界で行われてきたこと、また現在行われている恐るべき邪悪な状況について深く考えることはできます。すると、批判が根づき始めます。
次に、周りにいる人の欠点や過ちを見抜く名人になってください。私たちは、 他人が嘘をついていたり、利己的であったり、この世の欲を求めたり、 霊的でなくなったり、不信仰になっているとき、それに気づいた自分に誇りをもつことができます。なぜなら、結局、私たちには霊を見分ける賜物があるのですから。そうではありませんか?
遅かれ早かれ、私たちは、知らず知らずのうちに、自分の内に堅く据えられてしまった批判的な心の欲望を満たすために、他人についての悪い話をでっちあげるという罠に陥ってしまうのです。
…私たちと同じ人間の心の中に悪があると想像することから、神を批判するまでに、大きなステップはいりません。サタンは私たちの理解力のなさに乗じて、私たちを最終的な罠に陥れるのです。サタンは私たちにとって、神のなさることの中に、完全には理解できないことがあるのを知っているので、私たちの思いをこのような考えで攻撃してきます。「神様、このことに関しては、あなたは間違っていると思います。こうすべきです」と。
私たちの思いは、慣らされてしまって、あたかも宇宙を創造された方に、私たちの忠告が必要であるかのように、神に忠告しても構わないと、実際考えているのです! 私たちに必要なのはこのような神の忠告です。「心を尽くして主により頼め。 自分の悟りにたよるな」(箴言三章五節)。「すべての事について、感謝しなさ い。」これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(第一テサロニケ五章十八節) 初めに神の助言を求めないなら、私たちは自分の悟りに頼るようになります。 そうすると、いらいらや不安、疑いの中に陥ってしまうのです。
もはや、私たちは、すべてのことについて神を賛美することによって喜んで忍耐しようとはしません。なぜなら、私たちは、神がその問題を昨日解決すべきだったと思っているからです。そうです。私たちは、注意深く、密かに、周りのすべての人、すべてのものの悪い所を見ることことに慣らされてきたので、神に言い逆らうようになってしまいます。それだけではなく、私たちには、「より良い考え」があるのですから。
…イエスは悪を見て、そのありのままの姿を知ることがおできになりました。 主はその根源をご存知でした。主は決して悪に背を向けたり、無視されたりはなさいませんでした。しかし、悪について何かすべき時がきたら、すべきことをなされました。本当の敵は悪であって、それに使われている人間ではないのです。そして、私たちが外側の表面だけに注目するのに対し、イエスは常に問題の核心に触れられました。
イエスの裁きは完全な知恵に基づいており、憶測や偽りの訴えに翻弄されることはないので、主は人々にこう言うことがおできになったのです。「あなたがたは神の戒めを破りました。しかし、わたしはあなたがたを愛しているので、あなたがを赦したいのです。」
主の内に批判的な思いを見出す余地はありませんが、あなたや私の内には容易 に見出せます。批判のために、最も聖なる人間関係である結婚も破壊されることがあります。実際には、妻は気分が悪いのに、夫は妻が怒っているのだと思ってしまいます。
実際は、夫は来月の家賃をどこから工面しようかと思い悩んでいるのに、妻は夫をけちだと思ってしまいます。夫は、自分が恐れていることを認めたくなくて、怒ったような態度にでます。妻は夫を失いたくないのに、夫はもう必要ないと思わせるような態度をとります。
私たちは、いつも悪と自分自身の曖昧な考えとを混同させて、善の中に悪を読み取ってしまうのです。私たちは、自分の性質の中に批判の種を深く根付かせてしまうので、本当に悪に気づいているのか、あるいは、間違って、人を非難しているだけなのかを区別できないのです。
私たちが、人を見てもあら捜しをしないという麗しい技術を学ぶとき、キリストの御力はより自由に私たちの内に満ち溢れることでしょう。そのためには、 他の人たちではなく、まず私たちが変わらなければならないのです。
<抜粋終わり>
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
(マタイの福音書七章一~五節)
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