弱い時にこそわたしは強い 二〇一二年秋 ひとしずく九二四
ついにレイアウトされたひとしずくの原稿を印刷する段になりました。しかし途中でプリンターのインクが切れたので、新しいインクを入れたのですが、その後どうしたら開けたふたが閉まるのか、わかりませんでした。 私は、いつもプリントをしていてプリンターのことを良く知っている妻を呼んで聞いてみました。しかし、新しいプリンターだったので、彼女もどうして蓋が閉まらないのかわかりませんでした。そして妻は「パパ、説明書読んだらいいのよ」と言って、自分の用事をしに立ち去ってしまいました。
私は説明書を探してみたのですが見つかりません。インターネットで調べてみてもわかりませんでした。翌日にはここ那須から秋田に帰らねばならないので、その日のうちに、印刷を終えなければなりませんでした。どうして妻は助けてくれないのか!??彼女の方が機械に強いのに・・・。心の中で不平をつぶやいていました。
その時、ちょうどトイレに行きたくなりました。時々神様はこうした生理的現象をうまく使ってくれます。トイレに入って静まり、真っ正面を見ると、いつもは別のところにかけられていた詩篇二十三篇の掛け軸が目の前にあります。見慣れた掛け軸ですが、今日は何か御言葉がスッーと入って来る感じがしました。
妻がこの掛け軸の場所を変えてくれていたのです。そして、ふと、 気づきました。妻に、このようにあれやこれやトイレの飾りを変えたり、掃除や料理をしてもらっているのに、自分が欲しい助けをもらえないとすぐボヤく自分・・・感謝が足りないな・・・と。私は反省して、気を取り直し、もう一度、落ち着いてプリンターの前に座りました。すると、すぐにピンと来たのです。もしかして!上の蓋についているもう一枚のカバーの蓋を大きく開いてから閉めて、 それから上蓋を閉めてみました。そうしたら、どうでしょう? あれほど閉まらなかったふたがやっと閉まったのです。
これは御霊が示してくれたことでした。落ち着いて主と波長を合わせさえしていたなら、こんなにも簡単なことだったのです。とても簡単なことなのですが、気づくのが難しいのです。もし、どうして自分を助けてくれないんだ、という憤慨した気持ちを持ってしまったら、とんだ醜い罠にハマってしまうところでした。こんな時には、まず静まって、不平不満という自分の間違った霊を改め、感謝の内に主に耳を傾けるべきなのです。そうするなら、主のささやきがもっと容易に聞こえてくるのです。
私は機械に弱いです。弱いというよりも、苦手意識が強すぎて、少し恐怖さえ持っています。しかし、どんな恐れにも言えることですが、静まって主と交信し始めるなら、小さな主のささやきがでっかい障害物と恐れを取り除いてくれるのです。 人の助けを受けることができず、これは困ったという非常事態は、主がその力を見せてくれるチャンスの時です。そうです。 そんな時にこそ、私たちは「弱い時にこそ強い」ということを思い知るのです。
すぐに不平を持ち、身勝手なことを口走る自分に気づかせて下さり、そして助けて下さった主に感謝! 主に助けてもらうチャンスを与えてくれた妻にも感謝! 機械音痴である自分に感謝! しかし、こんな私を愛し、いつも助けてくれる主に感謝します!
主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに 完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫 害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリント人への手紙十二章九、十節)
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。(詩篇四十六篇十節)
イスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。(詩篇二十二篇三節)
主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼 しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。(イザヤ書三十章十五節)
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