悪環境における積極的生き方 二〇一三年秋 ひとしずく一二七六
私たちが生きているこの世の中には、悪がはびこっています。
主は、「邪悪で罪深いこの世にあって・・・」(マルコ八章三十八節)と語られましたし、また「わたしがあなたがたを(世に)つかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」(マタイ十章十六節) とも語られました。そして 「目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(第一ペテロの手紙五章八節)とも言われています。 そのような世の中にあって私たちはどのような態度を取れば良いのでしょう? 箴言には、「賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、罰をうける」(箴言二十二章三節) とあります。 私たちは、非常に注意深く目をさまして、識別力を主に求めつつ、悪から遠ざかって歩むことが必要のようです。
また、「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、 かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ十二章二節) とあるように、私たちは、自分達の周りに起っていることや自分を取り巻いている環境などにおいて、この世的な考え方で妥協するのではなく、何が善であり悪であるのか、何が神に喜ばれ、また喜ばれないのか、よく吟味すべきなのだと思います。
ある時、私はあきらかにその子供が悪霊に悩まされているということが分かったため、その人に、イエスの名前で叱責すべきだということを語りました。しかし、その人は、「いえ、たとえそれが悪魔であろうと、歓迎して仲良くすべきだと思います」と答えたのでした。その人は何かの宗教に入っていて、それは、その宗教の教えのようでした。悪魔がどれほど狡猾で邪悪であるかを知っているなら、悪魔を歓迎し仲良くするなど、とんでもないことだと思います。何でも全て受け入れ、それを愛すれば良い、というのはいかにも、寛容で素晴らしい教えのように思えますが、悪魔や悪行に対して言えば、それは実に恐ろしい考え方であり、悪魔の教えと言えるでしょう。
悪は現実に存在していますし、その悪によって、人々が汚され、苦しみ、死に追いやられようとさえされているというのに、その現実を、さも大したことがないようにふるまい、問題を直視しないようにしても、決してその問題が消えて無くなるということはありません。
そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。(ヤコブの手紙四章七節)
私たち自身も、もしあらゆる問題を解決することのできる神を知っていなかったら、問題を直視する勇気は湧いて来なかったことでしょうし、悪魔を受け入れるしかなかったでしょう。 しかし、天地の創造者である神が、私たちを裁くためではなく、救うために共にいて下さり、私たちの祈りに応えて下さるとわかっているので、私たちは問題を直視し、悪魔に対抗することも恐れないのです。
わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。(詩篇三十四篇四節)
神の子が現れたのは、悪魔の業を滅ぼしてしまうためである。 (第一ヨハネの手紙三章八節)
イエス様を通して示された神様の愛をよく考えるなら、神様は私たちの罪を赦し、私たちが新しいスタートを切り、新しく歩むのを助けて下さるのだ、という確信を持つようになります。
主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。[セラ
わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。(詩篇三編三~六節)
そうです。嵐を静められるイエス様が共にいて下さるために、私たちは、問題を直視することを恐れないのです。そして、直視することで、そのことについて主にどうかして下さるように嘆願し、取りなしの祈りが出てくるのです。
私たちの肯定的生き方は、問題に目を閉じることによってではなく、問題を全て解決することのできる神様に助けて頂けるという信仰から来ますし、また実際に主が私たちの祈りに答えてくださることから来るのです。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
(詩篇二十三篇四節)
…あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、 あなたはわたしのものだ。
あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。
(イザヤ書四十三章一、二節)
わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。天をのべ、地の基をすえられたあなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。
(イザヤ書五十一章十二、十三節)
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者に は、愛が全うされていないからである。
(第一ヨハネ四章十八節)
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