偽りの隠れ蓑を捨てて   二〇一三年秋 ひとしずく一二七三

三百トンもの汚染水が毎日外に流されている・・・これで、原発事故が収束したと言えるだろうか?このように自分たちの国で、原発をうまく処理できないのに、他の国に原発を建設し続けるとは、まともじゃないんじゃないか?との疑問が私の心に湧いてきます。

 しかし、もし、本当に危険だったら政府や市が何か言ってくれるだろう、指示を与えてくれるだろうという、甘い考えも同時に心の中に存在します。

 政府は政策に都合の悪いことはしゃべらず、嘘さえつくと、はっきりと語る人もいます。そしてそうした話を聞いて、おそらくそうだろうと同意しても、やはり自分の中には、嘘でもいいからその嘘を信じさせておいてほしいという気持ちがどこかに存在しているのです。

 原発事故が収束もせず、危険だと思っていたのに、どうして何もしなかったのかと聞かれたら、だって、政府が大丈夫だと言っていたから・・・東電が・・・市が・・・と誰かのせいにしておきたいのです。

 もう彼らがどんな立場かよく分かっているのに、何度も真実でないことを聞かされて公然の事実だとわっても、それに対して何もせず、何か起きた時には、責任をすべて他の人のせいにするというのは、自分のうちにある無責任さであり、また不真実さです。

 そして、はっきり言ってもらったら、こちらが大変だというところもあると思います。。

  「すみません。原発は収束できていません。実は非常に危険なんです。保証しろと言われても、どれだけのお金を出せるかわかりません。あなたのお子さんが放射能の故に白血病になってもあなたのお子さんの健康を取り戻せと言われても、それは無理ということです。あなたがたは、快適な生活のために電気が欲しかったでしょう?そしてあなたが給料をもらっている会社は電力が無ければ成り立っていなかったでしょう?私たちは、それをとにかく供給していたのです」とあからさまに言われたらどうするでしょうか。

 そんな状態に自分達が立たされているとわかっていても、それを真っ向から見ることをせず、また、自分の安全も将来も、他人任せにしていられないという厳しい現実がそこにあるのに、それには目をつむっていたいのです。波風を立てて、現状維持の妨げになってほしくないのです。

   皆、お互い、現実に目をつぶろうとしていて、「私は、何も言わないから、あなたも言わないでね。わたしを偽りの安心感から目覚めさせないで。もうそんなことでくよくよしたって、どうしようもないとわかっているんだから。そして自分は、そのことについて現状に甘んじる事以外何もするつもりもないのだから。もう今の状態を生き延びるのがやっとなのに、汚染水が流れ続けているとか、地域の線量がかえって高くなってきたとか言っても、何もできないんだから」

  そんな大人たちに囲まれて生きていかなければならない次の世代の子供たちは大変だと思うのです。 

大人である私たちは、次の世代がどんな自然環境、どんな食物、どんな負債に直面しなければならないかについて深く考えようともしていない。

 そして心の中では嘘だとわかっているような話を聞いて胸をなで下ろす。自分が何もそれに対してしなくてもいい言い訳を提供してくれる話を心の中では探しているのです。とくに世から認められている権威ある人が語っているなら、なおさら都合がいい。自分が何もしなかった言い訳がそこに見出せるから。 

 私たちはもう、この偽りの隠れ蓑を捨てなければならないのではないでしょうか? 

人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。(テモテへの手紙第二四章三、四節)

そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。      (ヨハネ三章十九節)

世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。(第一ヨハネ 2章17節)