神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

(ヨハネ 1章18節)

神は目には見えませんが、神の存在を感じさせ知らせてくれるものはいくつもあります。その一つは神が造られた被造物です。作品を見れば作者がどのような人であるか想像できるように、神のお造りになった被造物は、神の存在とその御性質を反映しています。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである…

(ローマ 1章20節)

 被造物の中でも、人間は特別に神のすがたに似せて造られました。

神が人を創造された時、神にかたどって造り…

(創世記5章1節)

また、律法によっても、神がどういうお方で、何を望まれているかがあらわされています。モーセを通してイスラエルの民に与えられた聖なる律法は、イスラエルの民が守らねばならない規定について、例えば礼拝や祭り、食べ物や飲み物などの生活の隅々に至るまで事細かに書かれていました。人々はその規定により、どうすることが良いことなのか、また何が罪であるのかということを学ぶと同時に、自分が神の基準には到底達し得ないものであるということを身をもって学んだことと思います。

また律法には、罪に対しての供え物、牛や羊などを生け贄として神に捧げることについても厳重に定められていました。その生け贄は、やがて来られる救い主、私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストをあらわしていました。

この生け贄を含め、律法に書かれた多くのことの本質は、救い主イエス様を指し示すものであるのです。

これらの律法は、きたるものの影であって、その本体はキリストにある。

(コロサイ2章17節)

またイエス様は、モーセが書いた律法(旧約聖書)はイエス様について書かれたもので、イエス様を指し示すものであると語っています。

(イエス:)…モーセはわたしについて書いたのである。しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか。

(ヨハネ5章46,47節)

(イエス:)あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

(ヨハネ5章39節)

そして、様々な時代の預言者もメシア(=キリスト=救い主)の到来を預言し、神の思いや警告を発し、神の力をあらわしました。

神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。

(使徒 3章18節)

預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています。

(使徒 10章43節)

このように、神は目には見えないですが、人間を含むすべての被造物、モーセを通して与えられた律法、預言者、など多くのものを通して、ご自分の存在をあらわされてきたのです。

そして今から約2千年ほど前に、神がどのような方であるのか、神が人とどんな関係を持とうとされている方であるかをよりリアルにあらわす、被造物、律法、預言者以上の方がやって来られたのです。それは人間でもなく、天使でもない、比類無二な方、人となったひとり子なる神、イエス・キリストです。イエス様は神の存在を示すだけでなく、私たちに罪の赦しと神の子となる素晴らしい特権を与えてくださったのです。

・・・時の満ちるに及んで、神は御子(イエス)を女(マリヤ)から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。

(ガラテヤ書 4章4~5節)

これを信じることができるのは、神の恵みによります。そしてその恵みは心を開きさえするなら誰にでも与えられるのです。

<祈り:> どうか、あらゆる被造物の中に、そして神の言葉である聖書から、神の存在を認め、神が差し出してくださっている恵みを受け取ることができますように。