父のひとり子としての栄光 

…わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

(ヨハネ 1章14節b)

ウィキぺディアには、「栄光」の意味として、「一般には人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のこと」とあります。他の辞書には「輝かしいほまれ」とあります。

ヨハネの福音書には、人(肉)となった神(ロゴス)の内に、栄光を見た、父のひとり子としての栄光を見た、とあります。ギリシャ語の原語で「栄光」は、doxa(ドクサ)。その元来の意味は、「人の意見、評価」です。

輝かしい者(こと)にほまれ与えるも、評価するも、それを素晴らしいと認め評価する人達がいて、初めてなされることです。神の栄光も、認めることができる者がいて、はじめて讃えられます。

福音書の著者ヨハネは、イエスを見、イエスに聞き、また彼に触れて、イエスは、(神に与えられるべき)ほまれにふさわしく輝いていた、と認め、証言しているのです(ヨハネ第一の手紙1章1節も参照)。そんなにも近くで神の輝きを目にすることができたのは、素晴らしい特権であったと思います。

奇跡と栄光について語られているところをヨハネの福音書からみてみます。

婚姻の席に招かれたイエスは、ぶどう酒が無くなってしまった時、水をぶどう酒に変えました:

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

(ヨハネ 2章11節)

死んで三日経った、マリヤとマルタの兄弟であるラザロを生き返らせました:

イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。

(ヨハネ11章4節)

福音書には、イエスが地上におられた時、万能の神としてなされた全ての業が記されているわけではありません。ヨハネはこう書いています。

イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。

(ヨハネ 21章25節)

奇跡的で、超自然的な力の現れによる、神の栄光の他に、別の類の神の栄光についてもヨハネは記しています。それは全人類の罪の赦しのために苦しみ、十字架における死を遂げるという苦しみを通して与えられる栄光です。

十二弟子のひとりであるユダがイエスを裏切る行動を起こすために、部屋から出ていった後、イエスは、ご自分の苦難と十字架の死を通して受ける栄光のことを語られました:

さて、彼(ユダ)が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。 彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。

(ヨハネ 13章31~32節)

十字架刑を前にして父なる神に次のように祈りました:

父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。

(ヨハネ 17章5節)

御子がご自分の命を、天の父の御心のために差し出すことは、天の父へ栄光をお与えになる最高の表現であったと思います。御子の天の父への完全なる服従、苦しみを通過してもなお父の御心を是認し、進んでご自分の命を差し出す、これ以上の愛はありません。それこそが、神に最高の栄光をお与えになることではないでしょうか?

イエスは、ゲッセマネの園で、

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」

(ルカ 22章42節)

と祈られました。

イエス様が、このようにして神の栄光を現したことは、当時の宗教指導者たちにとっては理解しがたいものした。そればかりでなく、かえって彼らは、イエスが神を冒涜したとして、十字架で処刑してしまいました。

このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。

(ヨハネ 12章37~41節)

イエスが、水をぶどう酒に変え、死んだラザロを生き返らせても、彼らは、イエスの出身地、学歴の無さ、罪びとたちと共にいること、伝統的な慣習を無視しているとして世俗的価値観によって、イエスのしている神の栄光ある業に対して盲目になっていたのです。

その栄光は、「恵みとまこととに満ちていた」とあります。

イエスは、神であられたのに、イザヤ書の預言にあるように、「侮られて人に捨てられ…また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られ」ました。それでも、彼は、天の父のみこころに対して真実で、十字架で息を引き取る最後まで忠実であられました。彼は「まこと」に満ちておられたのです。

また神の栄光というと、聖と正義と全知という、圧倒される面ばかりを想像しやすいですが、このお方は私たちの罪の赦しのためにご自身を犠牲として捧げる愛、「恵み」にも満ちておられました。この恵みとまこと、愛であり義なる神が人となって、罪によってどうしようもない私たちを招くために来てくださったのです。

(イエス:)「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

(ルカ5章32節)

<祈り>

イエス様、私たちの罪のために、神であられたあなたが、人となり、私たちが受けるべき罪の罰を身代わりとなって、その身に受け死んでくださったことを感謝します。

また、そのあなたを救い主なる神として信じることで、新しく生まれ変わらせてくださり、神の子として下さったことを感謝します。どうか、あなたに信頼して従い、ついていくことができますよう助けてください。すべてのことを通して、あなたに栄光が帰されますように。