ロゴス
パート1
初めに言(ロゴス)があった。
言(ロゴス)は神と共にあった。
言(ロゴス)は神であった。
この言(ロゴス)は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
(ヨハネによる福音書1章1~3節)
新約聖書の原本は、ギリシャ語で書かれていました。そしてこの「言」(口語訳聖書)「ことば」(新改訳聖書)と訳された原語は「ロゴス(λόγος,logos)」です。
イエス様が地上に生まれて、福音が宣べ伝えられる時代には、ギリシャ語が世界の公用語として用いられていました。ユダヤ人にもギリシャ語だけではなく、ギリシャの哲学も伝わっていました。
ウィキピデアよると、この「ロゴス」という言葉は、「ミュトス」(寓話、お話)と対比して用いられていたもので、理性、論証を意味するものとして用いられていたと書かれています。
ある神学者は、「ロゴス」を「ことば」として訳さずに、そのまま「ロゴス」として用いられるべきだったと主張しています(アダム・クラーク)。それはちょうど、イエス(イェシュア)を、その原語の意味である「神は救い」と訳さず、固有名詞として用いているのと同じように、そのままロゴスと用いるべきだと言っているのです。
それにしても、「ロゴス」という言葉が、福音書の冒頭に用いられたことには、それなりの意味があると思いますが、わかりやすい説明と思える文章を見つけました。
…ロゴスというギリシャ語は、もともとギリシャ人哲学者によって用いられていました。彼らは、すべての物は、形が存在する前に考えにおいて存在していた、と考えます。その考えをロゴスと呼びました。
例えば、ここにテーブルがありますが、テーブルができる前に、テーブルについての考えがあったのです。その考えがなければ、このような秩序ある、きちんとした形に成り得ません。
ですから、ギリシヤ哲学者は、この宇宙にあるすべての物は、それが存在する間に、考えにおいて存在していたと言いました。
けれども、ヨハネは、さらに一歩突っ込んで語っています。全ての物の背後には、考えだけでなく、考える方がいたはずたと言っているのです。
再びこのテーブルの例を挙げるなら、テーブルを考える人がいなければこのテーブルはできません。単なる考えだけではなくて、考える存在がいなければいけません。
したがって、「初めに、ロゴスがあった。」というのは、すべての物の前に考える方がおられる、と言うことです。
(http://www.logos-ministries.org/j_frame.html)
造られたものが存在する前に、創造者がいたということが、このヨハネの福音書の最初に記されています。これは創世記1章1節の「はじめに神は天と地を造られた」という天地創造のイベントより前のことを記していることで、とても興味深いです。
そして、「ロゴス」という言葉に含められた神様の御性質を考えると、被造物すべての中に、創造者である神様のご計画、思い、深い愛が込められていたことを思うことができます。
つまり、神の思い(ロゴス)が創造という業になり、その神の思いの現れが被造物として存在することになったわけです。そしてこのロゴスによって、現在の天と地も維持されているのです。
次のペテロの第二の手紙に記されている創造と被造物の維持保存についても「ロゴス」が使われています。
すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言(ロゴス)によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、 その時の世界は、御言(ロゴス)により水でおおわれて滅んでしまった。
しかし、今の天と地とは、同じ御言(ロゴス)によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
(第二ペテロ 3章5~7節)
さらに、ロゴスによって今世界が滅びないで保たれているのは、全世界のすべての者が救われるためであるとも記されています。
ある人々がおそいと思っているように、主は(再臨の)約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
(第二ペテロ 3章9節)
存在するすべてのものは、偶然にできたのでも、自然に出来上がったのでもなく、ロゴスによってできたわけです。私達一人ひとり、すべての者が、神の深いご計画と御意志によって造られ、生存しています。
祈り:) この地上で生かされている者すべて、今日という新しい日を生きる者に、神様の素晴らしいご計画、み思いがなされますように。
パート2
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
(ヨハネ 1章3節)
創造者を除く全ての造られたもの、つまり全てのものはこの方(ロゴス)による。つまり、存在するすべてのものには意味があり、神の思いがある。むなしい存在というものはないのです。それは、大宇宙から、存在する小さな虫の内にも神の知恵が働いているということです。
ちょうどイエス様が、空の鳥や野の草のような小さな生き物に注がれる神の世話から学び、人に対する神の思いに気づくようにと言われているように。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
(マタイ6章26~30節)
またすずめ一羽の存在もロゴスの愛の思いの内に生かされています。
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
(ルカ 12章6~7節)
<「アサリオン」は当時の一日の労働賃金デナリの16分の一の貨幣。今の一日の給料をどれくらいと計算するかによって異なりますが、今で言えば、スズメ一羽100円~200円程度>
ちっぽけなスズメ一羽さえも、神の計り知れない思いのうちに生かされている。だからましてわたしたちひとりひとりに対する神の思いはどれほどでしょう。
事実、すべての人は、神のために生きるように、創造され、生かされているのです。だから誰ひとり、生きる意味も目的もないという人はいないのです。
すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
(ローマ 14章7~8節)
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
(エペソ 2章10節)
神の貴い思いの内に造られた者としての貴い役割を見出し、神への賛美をもって日々、その役割を果たすことができますように。
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