ヨハネ3章 2020年10月16日
バプテスマについて
私達を信仰にとどめてくれるもの、信仰によって歩んでいく力はみ言葉を深く学ぶと言う事から来ます。み言葉から離れては、成長はありません。離れてしまうと、儀式的になったり、習慣になってしまったりします。でも、信仰は神の言葉を聞くことから来るもので、生きた神の言葉につながる必要があります。
間違った土台の上に立っていると、聖霊がある一つのことを示していても、私たちは間違った基礎にとらわれてしまっていて、今語っておられる、生きた御声もキャッチできなくなるので、私たちはこうしてみ言葉の中に入ってみ言葉を吸収する時は、とても大切です。
ヨハネ3章22節から最後のところまでを読みましょう。
「この後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在してバプテスマを授けておられた。」
ヨハネの福音書4章2節を見ますと、「しかし、イエス自らがバプテスマをお授けになったのではなくその弟子たちだった。」とあります。
ですから、イエス様自身がバプテスマをしていたというわけではなく、弟子たちがあげていたわけです。
ヨハネ3章23節には「ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が沢山あったからである。」
洗礼者ヨハネがイエス様に会った時、イエス様のことを証してこう言いました。
「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。」
(ヨハネ1:26)
「あなたがたの知らない方」というのはイエス様の事ですね。ヨハネ1章33節を見てみましょう。
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
(ヨハネ 1:33)
つまり、バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けていましたが、このイエス様こそが、聖霊によってバプテスマを授ける方だと言っています。
ヨハネの3章24節~36節までを読みましょう。
そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。
ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。
そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。
ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
彼は必ず栄え、わたしは衰える。
上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。
彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
(ヨハネ 3:24-36)
このバプテスマのことなのですが、方法に関しては、頭に水を垂らしてやる。全身が浸かるべきだとか多様な主張が各教派によってなされています。
バプテスマのヨハネは水の洗礼をしていました。そして使徒たちもある時は、水でバプテスマを、水の洗礼をしていたわけです。そして今、多くの教会で洗礼式と言って、水につかる、あるいは「滴礼」とか、またあるところでは幼児洗礼というのをしているところもあります。それぞれ、各自見解、確信を持っていると思います。
それで、今回は、私の洗礼についての個人的理解を分け合いたいと思います。そして益になるところがあったら、参考にして下されば嬉しいです。
この洗礼に関して私は、内村鑑三氏の見解が納得いっています。海外でも似たようなことを主張している方々もいます。
このことについてもっと詳しく学ばれたい方はもうすでに、内村鑑三氏の洗礼についての主張についてひとしずくで配信したものがあります。また、翻訳した物も出版しましたが、ボブ・ルキンディルという人も、内村鑑三氏と非常に似ている主張をわかりやすく書いて下さっています。
今日分け合う事も後でひとしずくで配信すると思いますが、今日はそのポイントを分け合いたいと思います。
マタイの福音書の一番最後の節を見てみたいと思います。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
(口語訳マタイ 28:19-20)
これを新共同訳で読みますと、
「それゆえ、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け…」とあります。
「父と子と聖霊の名に入れる洗礼」、これはおそらく、文語訳もそうだったと思いますが、内村鑑三氏はこのことについて、日本語訳の聖書には名に入れると書いてあります。新改訳や口語訳はそういう風には訳してはいないのですが、「名に入れる」というのは意訳であると言っています。
ギリシャ語の聖書の「ここの箇所では、『名にまで』とあるばかりである」とあります(ギリシャ語のエイスeis=にまで)。「まで」というのは、名前「に入れて」というよりも意味が強くなる。つまり、直訳するとこういう意味だと言っています。「万民の民を父と子と聖霊の名にまで、バプテスマし、これを弟子としなさい。」
このエイスという言葉の使い方ですが、「エイス・アテネ」の意味は「アテネまで」、「エイス・トゥキョウ」となると、「東京まで」、という意味になるそうです。 また、内村鑑三氏によると、この「エイス」には三つの意味が含まれていると言うことです。
つまり、第一は方向を表す「にまで」。
第二は、「そこに向かっていく」動作の継続性。
最後に、目的地に示す「目的」を意味します。つまり、方向と、継続した動作と、目的を示すと言う事です。ちょうど私達が東京まで行きます、というのと同じ使い方なわけです。
そうすると、「父と子と聖霊の名にまで、浸透させるバプテスマ」というのは、継続していることで、一回の儀式の事を言っているのではない、ということになります。「父と子と聖霊の名にまで」とは、「私たちは聖霊と父と子と一つになるまで浸透し続ける」という意味になり、それによって弟子となるわけです。
最近のコメント