「ヨハネの福音書三章」 (2020年8月7日クラス)

<真理の御霊を妨げる肉の思い>

旧約聖書には、何世紀にもわたって預言者によって語られたメシア(救い主)についの預言が記されています。それに通じていることになっているパリサイ人でありイスラエルの教師であるニコデモは、おそらくイエス様がされているしるし(奇跡のわざ)を見て、この方はもしや律法で予言されているメシアなのだろうか、と思ったのでしょう。なぜなら、イエス様がされていた奇跡は、目の見えない人や耳の聞こえない人、そして重い皮膚病の人や生まれつき歩けない人を癒すなど、律法で予言されていたメシアがされることであり、メシアであることのしるしであったかからです。だからヨハネはそれを奇跡と呼ばずに「しるし」と書いています。

そしてニコデモは、そのような「しるし」によって、イエス様はメシアなのか、と思ったわけです。しかし、「しるし」はイエス様をメシアとして信じるに至らせませんでした。ニコデモはイエス様の言葉を理解できず、それを受け入れられなかったからです。その言葉を受け入れないというのは、それを語られているイエス様をメシアとして受け入れられない、信じていないということでもあると思います。それはおそらく、生まれた時から親やラビに教えられた律法や、それに加えて先祖代々受け継がれた伝統や言い伝えなどを厳格に守ることに重きが置かれ、その固定観念、先入観が妨げとなっていたからです。肉の思いで霊のものを理解することはできないのです。

「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。 (コリント第一の手紙 2章14節)

(コリント第一の手紙 2章14節)

一方、心の貧しい者たちはイエス様の言葉を素直に受け入れました。この聖書でいう「心の貧しい」というのは、知識や教養もなく、自分の思いでいっぱいではなく、神に満たしてもらわねば自分には何もありません、という心の謙(へりくだ)った人のことです。彼らには、パリサイ人のような教養はありませんでした。否、無かったからこそ、かえってシンプルにイエス様のしるしを見て救い主として受け入れ、イエス様の言葉を救い主の言葉として信じられたのです。そして、真理を確信した彼らは、自分の財産や仕事を捨てて、イエス様の弟子として従う人生を選んだのです。

ルカの21章には、そういった弟子達のことが記されています。

イエス様は弟子から72人を選んで二人づつ、町や村に証のために使わされました。その時、弟子たちはイエス様が言われた通りのことをして、神の栄光を見て、喜んで帰って来てそれをイエス様に報告しました。

「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と。その時、イエス様は、喜びにあふれて次のように言われました。

「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。 」 

(ルカの福音書 10章21節)

イエス様がここで幼子と言っているのは72人の弟子たちのことです。幼子のように素直にイエス様の言葉に聞き従って神の栄光を目にし、祝福に与かった弟子達を見て、イエス様が感動され父なる神を賛美しているのです。

またパウロもこう言っています。

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

(コリント人への手紙第一 1章18-21節)

…神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

(コリント第一の手紙 1章27-29節)

自分を見ると、この世の地位も名誉も財産もなく、教養もあまりない、身分も低く、周りの人から誤解され、軽んじられている、大した能力もなく、体も弱く、誰の役にも立てない、まして神のためにできることなど何もないと思えて、こんな自分がどうして神に使ってもらえるだろうかと思ってしまいがちです。しかし、かえってこのように自分は無だと思っているような人こそが、神に用いられるとパウロは言うのです。主は、あえて無きに等しい者を選ばれ、神の器として用いられると。大切なことは、知識や能力ではなく、シンプルに神を信じ、どうぞ私を使ってください、あなたの役立つ器となるために私をどうぞ変えて下さい、と神に自分を捧げることです。神の御霊に自由に自分を突き動かしていただくことです。

人の心を変えるのは神の御霊です。聖書の知識や儀式や善い行いでは人は新しく霊の内で生まれ変わることはできません。そしてこの御霊なしには、あの72人の弟子達や神に従って来た人々が体験したような神の栄光を見ることはできません。

現代の教会や個人においても、肉の思いが神の御霊を妨げていることは大いにあり得るので、吟味することや警戒していることが必要であると思います。

 これに、似たメッセージを60年以上前に、A・W・トウザー氏が「Pursuit of God (神への渇き)」という本で語っている箇所があります。現代にも適用できることだと思うので、息子の翻訳してくれたものを抜粋してここに引用させていただきます。

(※ https://darktolight.jp/aiden-w-tozer/に、この本の翻訳された箇所が一部アップロードされています。興味ある方は、そちらの方をご覧ください。)

<「Pursuit of God(神への渇き) 」の序文から抜粋>

…私たちの素晴らしい聖書協会や効果的なキリスト教機関が神の言葉を広めていることによって、現在何百万もの人々が「正しい見解」を持っており、その数は教会史において最多に及びます。しかし同時に、真の霊的礼拝がここまで落ち込んでしまった時代は今までにあったでしょうか? 教会の大部分では本来の礼拝の在り方が失われてしまい、「プログラム」と呼ばれる奇妙で異質なものと入れ替えられています。この言葉は劇場用語から借りてきたもので、世間の儀式に適用され、悲しいことに今では、私たちの礼拝に使われています。

正しい聖書解説は生ける神の教会になくてはならぬものです。それなくしては、どの教会もその名の厳密な意味からして、新約教会と名乗ることはできません。しかし聖書解説が聴者に真の霊的栄養をまったくもたらさない形でなされているかもしれません。なぜなら、魂を養うのはただの言葉ではなく、神御自身であって、聴者が神を個人的に経験するのでなければ、真理を聞いても養われてはいないのです。聖書は目的ではなく、信じる者達を満たす深い神の知識に導く手段であります。それによって信じる者が神の内に入り、神の御前に喜び、自分たちの心の中心において神御自身の内なる美しさを味わい知るようになるためであります。

―以上抜粋終わり