地を継ぐ者たち  二〇一二年九月二十七日 ひとしずく九四八

 あるお金持ちが亡くなりましたが、その人には後継ぎがいませんでした。そこで、遺された財産がオークション(競売)に出されたのでした。その中に、幼くして亡くなったお金持ちの息子の肖像画がありました。その肖像画は、彼がとても大切にしていたものでしたが、オークションに集まった人々は、その絵には何の関心も示しませんでした。しかし、たった一人、そのお金持ちの息子の肖像画に値をつけた人がいました。それは、みすぼらしい服を着た老婦人でした。彼女は、昔、その男の子の乳母で、その子をとても愛していた人だったのです。彼女はそれを買い、大切に持って帰りました。そして、その絵を眺めていて、ふと額の後ろの台紙の所にふくらみがあるのに気づきました。そこで切り込みを入れてみると、中から封筒が出てきました。それは亡くなったお金持ちの書いた遺書でした。そしてそこには、愛する息子のことを、今なお心に覚え、懐かしむ者に自分の財産を譲りたい、ということがはっきりと書かれていたのでした。

 領土を巡る争い、また遺産を巡る争いなどが、この地上では絶えません。神様は、そうした状態をご覧になって、どう思っておられるかと思った時、この話を思い出しました。そしてもう一つ、次の聖書の箇所が思い浮かびました。

さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それは わたしが産んだ子ではありませんでした」。ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。

王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ。(列王記上三章十六~二十七節)

人は、自分の権利を主張します。そして、時には権力と暴力を振るってまでも、自分の欲しいものを手に入れようとするのです。しかし、神様はそれを誰に与えたいと思っておられるのでしょう?それは、自分の利益のために権利を主張して譲らない人にではなく、柔和で真に愛をもっている人に、神様はその多くを任せたいと思っておられるのではないかと思います。

考えてみると、私たちには、それら全ての造り主であり、持ち主である神様の御前で、当然、自分のものだと主張できるものが、何か一つでもあるでしょうか?土地や物に限らず、自分の妻や夫、子供さえも、自分のものではなく、主のものです。そしてさらには、この自分さえもが主のものなのです。それがわかっていないから、自分の権利の主張をし、果ては相争い、本当に大切なものを皆が失ってしまうという結末にまで発展してしまうのではないでしょうか?

あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。それとも、『神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。(ヤコブの手紙四章二~六節)

イエス様は、私たちがどうあるべきであるか、また地を受け継ぐ者とはどのような者であるかを教えられました。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。」(マタイによる福音書二十章二十五~二十八節)

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。(マタイによる福音書五章五節)

しかし、これが完全に実現するのは、すぐに来るべき次の世界においてです。モーセはあらゆる人にまさって、柔和な人でしたが、彼は、約束の地に入ることはできませんでした。つまりこの世の地を受け継ぐことはできなかったのです。しかし、彼の報酬は天国に蓄えられていました。モーセはこの地を受け継ぐことより、さらに素晴らしい天のふるさとを受け継ぐことを望んでいたのです。

私たちの受け継ぐ地も、この地上にはありません。この地上でのひと時の利益のために、目に見えるものに執着し、奪い合い、戦争をするのはどんなものでしょうか。

モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。       (民数記十二章三節)

モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼にギレアデの全地をダンまで示し、ナフタリの全部、エフライムとマナセの地およびユダの全地を西の海まで示し、ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。そして主は彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。     わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。     こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。        (申命記三十四章一~五節)

彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。              (ヘブル人への手紙十一章十六節)