主の愛と御言葉の内に留まる 二〇一三年 ひとしずく一二六一
イエス様を死に定め、またその弟子やクリスチャンたちを迫害した人たちは、自分たちが正しいことをしている、また神に従っていると思っていた場合が多くありました。
人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、 それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」
(ヨハネによる福音書十六章二、三節)
しかし、このような迫害はしないまでも、人は簡単に自分の腹を神としていながら、神に従っていると思い込むものです。私自身、手前勝手な思い込みを何度も行ってきました。預言者エレミヤは、人の心について次のように語っています。
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 (エレミヤ書十七章九節)
私たちは聖書を読んでも自分の気に入るところだけ取り込むところがあるのではないでしょうか。それは人間の習性だと思います。そして自分に都合良くないことは、見過ごし、耳をふさぐのです。これでは自分が神となっているのと変わりないことです。あるいは自分の都合の良い神を自分の心で造りあげているのです。
どうしたら、この弱い私たちは、そのような自分勝手さから救い出され、神様と神 様の御言葉をそのあるべきものとしてそのまま受け止めることができるでしょうか?
私は、主が言われた「とどまっているなら」という言葉に、その鍵があると思っています。聖句を見てみましょう。
イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、
「もしわたしの言葉のうちにとど まっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 (ヨハネによる福音書八章三一、三二節)
あなたがたがわたしにつながっており、 わたしの言葉があなたがたにとどまってい るならば、なんでも望むものを求めるがよい。 そうすれば、与えられるであろう。 (ヨハネによる福音書十五章七節)
初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。 (第一ヨハネの手紙二章二四節)
すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていな いのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。(第二ヨハネの手紙一章九節)
これらの聖句を通して、私たちが、主イエスのうちに留まること、神の愛のうちに留まること、また主の御言葉の内に留まることが何度も語られています。
そしてそれは、律法の行いを守ることによって自分を正しい者とみなしてもらおうと努力することでないことは、明らかです。主の御言葉はすべて同じことを語っています。ただ、主の (私たちのではなく)愛と御言葉の内に留まることだと。
ではどのようにして、自分が主の愛や御言葉に留まっていて、主に喜ばれていることをしているかどうかわかるのでしょう?
そのための良いバロメーターがあります。それは、愛の章として知られる第一コリント人への手紙十三章です。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
(第一 コリント人への手紙十三章一~七節)
もし自分が主の愛のいましめに生きているかどうか確かめたいのなら、この聖句に照らし合わせてみるのです。ちょうど、これは車のドライバーが自分のスピードメーターを見て、制限時速を守っているかどうかチェックするようなものです。もしそれをチェックもせずに、制限速度をはるかに越えた自分のスピードで運転しているなら、もしかしたら、次のカーブは曲がりきれないかもしれません。
同じように、 「私は善意で、人助けは喜んでするが、忍耐は簡単に切れてしまう」というなら、もしかしたらそれは、ただ生まれながらの性格や衝動に従っているに過ぎないだけなのかもしれません。
ですから、私たちの内にいつも父と聖霊とイエス様に留まっていて欲しいと望むのなら、この愛の章のバロメーターを常に気にして、その御言葉の内に留まっているべきなのです。そうするなら、主は私たちの内にあって、私たちを通して働きやすくなるでしょう。
私たちは肉を誇ることはできません。素晴らしいのは主の霊であり、私たちは、単なる土の器に過ぎないのです。そしてこの土の器を通して主の愛の霊に輝いてもらわなければならないのです。
どうか、私たちがいつも主の愛と御言葉の内に留まっていられますように。そして私たちを通して主が業をなされ、主に栄光が帰されますように。
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