弱者のために  二〇一四秋 ひとしずく一六四六

  私の友人の息子さんが、うまく歩けない野良猫を見つけて、家に連れていったそうです。よく見ると、前足が曲がっていてしっかりと立つことができないでいたそうです。毛もあちこち抜けてしまっている状態で、動物病院の医師に診てもらったところ、何とその猫はエイズだとわかったそうです。彼らは驚いたと思いますが、エイズならなおさらて放り出すことはできない、と話をしているそうです。彼らの思いやりには、感動させられます。

 全く自分では自分をどうすることもできず、周りの人たちの愛と憐れみ、そして助けの手に、自分の生存がかかっている、というのは、動物だけではなく、人間にも言えることだと思います。いわゆる弱者という存在です。

過疎地域で一人暮らしの動けなくなりつつあるご老人たち

  DVのある家庭の中にいる幼い子供たち

  非行のレッテルを貼られた少年少女たち

  住む家を持たない人たち

  体を壊して職を失った人たち

  被災してこれからどうしたらいいか分からない人たち

  また海外では、自国が戦場と化し難民生活を強いられている人たち

  少数派民族で弾圧されている人たち

  臓器摘出の個体として、狙われるストリートチルドレン      などなど・・・

  神様は、ノアの時代の人たちがあまりにも邪悪であったので、人を造ったことさえ悔いましたが、もしかしたら、今もノアの時代とあまり変わらないものになって来ているのではないかと思います。

 弱者が虐げられ、省みられないのは、正しい人がそれだけ少なくなっているということなのでしょう。暴虐を行う人たちは、神の存在など信じておらず、たとえ神がいたとしても何もしない、ただ良心の呵責が大きくならない程度に、ここそこで、何か善行を少しでも行っていれば、免れられるとでも思っているかもしれません。

 しかし、神はいつまでも、そうした暴虐や不正を許しておかれるわけはありませんし、神は、小さな者たち、弱き者の叫びに耳を傾けられる方です。

 神様はその公正さと憐れみゆえに、悪を行う者に対してさえも忍耐を持たれているのであって、悔い改めるのを待っておられるのです。それを良いことに貧しい者や弱者を省みないことは、ただ自分達の上に裁きを積み重ねているようなものです。

 やがて主が最終決済をされる時は必ずやって来るのです。

  私たちに強さが与えられているなら、それは弱い人たちを憐れむためであり、仕えるためです。どうか私たちが自分に与えられている力、才能、また何であれ、それをもって、イエス様がされたように、自分では自分を助けることのできない弱い人たちを助けるために用いることができますように。

また、私たち自身、無力さを感じて弱者になることもありますが、そういう時は、力は自分からではなく、ただ主からくることを思い出すことができますように。そして、無に等しい者を、主は今まで何度も使って来てくださったことも思い起こし、信仰が強められますように。

  彼は、乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と助けなき者とを救う。

(詩篇七二篇二二節)

あらぶる者の及ぼす害が嵐のように石垣を打つ時、あなたは貧しい者のとりでとなり、乏しい者の悩みと時のとりでとなり、嵐を避ける避け所となり、熱さを避ける陰となられる。                (イザヤ書二五章四節)

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。                      (マタイによる福音書二五章四〇節)

わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。

(ローマ人への手紙十五章一、二節)