人としての本分 二〇一二年秋 ひとしずく九二六
神様に祈る人は少なくない。あれをして下さい、これを与えて下さいと。
祈ることは決して悪いことではない。
しかし、ただ自分側の願望を主に叶えてもらうためだけに祈り、
それが叶わないなら、主を疑ったり信じるのをやめてしまったり、
主がなさろうとしていることを受け入れたくなかったりといったふうでは
ただ神様をいいように利用しているだけではないかと思う。
私も、信じるのをやめることこそないけれど、
しょっちゅうそうした態度に陥ってしまう。
私たちは思い出さねばならない
自分の願いが叶おうが、そうでなかろうが
とにかく信じ従うこと、それこそが、人の本分だということを。
私たちは、陶器師である主に造られた者なのだということを。
全ては主のものなのに、全てをお返しするのが痛い私たち。どうか、この弱い信仰を強め、支えてください。
神様に自分の命を捧げ、この命はあなたのため、私は自分に死にます。そういう立場をとった時、神様は神様の栄誉にかけて、私たちの心の願いを叶えてくださるのだと思う。
神様は、私たちに対する愛を示されるために命をかけてくださった。私たちは、神様への愛を示すために、それ以下でいいのだろうか?
私たちは、もう自分を救うために四苦八苦する必要はない。そのためにイエス様は十字架にかかって死んで下さったのだから。その愛の事実をしっかりと見つめながら、自分をイエス様に与えないでいられようか?
さらに、蘇ったイエス様が自分をしっかりと見つめてくださっているのに、
何を恐れ、ためらうことがあるだろうか? 主は陶器師、私たちは陶器師によって造られた陶器です。
・・・私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 (イザヤ書六十四章八節)
ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を作るのか』とか、『あなたの作った物には、手がついていない』などと言うであろうか。 (イザヤ書四十五章九節)
ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ』と言えようか。
(イザヤ書二十九章十六節)
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