真の洗礼とは?

これはリトリート参加者に配られた資料の一つです。教派により、「洗礼」についての解釈は様々ですが、これは聖書からとても詳しく説明されていると思います。

 「現代のクリスチャンに 水による洗礼は必要なのか?」(投稿日:2003年9月27日)から、英語を翻訳したものです。

http://ichthys.com

質問:

洗礼について疑問があります。教義にこだわる友人が、「新約聖書は、信者にバプテスマを受けるようにと一度も命じてない」というのです。私自身調べてみたところ、水による洗礼を受けるよう教えている新約聖書の箇所を見つけました。

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

(使徒行伝2:38

そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい』。

(使徒行伝22:16

他にもバプテスマを受けるよう命じている箇所があります(使徒行伝10:48、マタイ28:16-20、1コリント1:17、エペソ4:5)。この命令は今でも当てはまるのでしょうか?

回答:

まず、この問題に関する聖書の箇所を見てみましょう。パウロが「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、」(1コリント1:17と述べたのはとても重要です。水による洗礼が間違っているとは教えていませんが、もしそれが義務であるなら、パウロの発言はとても奇妙に思えます。そしてエペソ4:5「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」も水によるバプテスマを否定していません。しかし、(イエス・キリストが一つしかないように)バプテスマは「一つ」であるとしています。これは、霊的な意味を持つバプテスマは一つしかないということを意味するはずであり、もしそうであるなら、熱心なクリスチャンなら誰も、水による洗礼を聖霊による洗礼より高く位置付けることはしないでしょう。

水による洗礼は明らかに、恵みによる救い(エペソ2:8-9)を得るための手段や条件ではありませんし、そうであるはずがありません。さらに、ヨハネもイエスも聖霊によるバプテスマを待ち望み、尊重するよう語っているのに、なぜ水による洗礼を受けるのが義務であるはずがありましょうか? 

初代教会では、確かに水による洗礼が義務づけられていました。しかし、エペソ教会の時代は、霊的成長の停滞期で、結果的に12年で途絶えてしまいました。そのため、この初代の過渡期の習慣に教義を基づかせるのは、大きな間違いです。

また、歴史的報告だけに教義を基づかせるのも危険です。初代教会の使徒たちの、水による洗礼を受けるべきという認識は、十字架と復活、そして聖霊によるバプテスマに対する不完全な理解から生じているのです。

ペテロでさえ異邦人への救いについて指導を必要としていたので、たとえ使徒たちが水による洗礼を授けていたとしても、それが実際に命じられていたからであるとは限りません。

使徒行伝22:16も、アナニヤの(不完全な理解による)考えを示しているだけです。

ではマタイ28:19-20を見てみましょう。

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

(マタイ28:19-20)

この聖句が実際に命じているのは弟子を作ること、つまり、イエス・キリストについて証しをすることです。「バプテスマを施すこと」と「教えること」はそれをするにあたって役立つ事柄に過ぎません。私たちを神とキリストに結びつけるのは御霊によるバプテスマであって、私たちのうちに聖霊が宿ることがその保証です。水によるバプテスマはどちらとも関係ありません。ですので、マタイ28:19のバプテスマへの言及は、1コリント12:13の「一つのからだとなるようにバプテスマを受け」ることを意味するのです。

父の御元に帰る前、キリストは弟子たちにこう述べました。

「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

(ルカ24:46-49)

そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

(使徒行伝1:4-5)


彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

(使徒行伝1:7-8)

水による洗礼は、悔い改めとキリストと一つになるためのバプテスマを意味します。しかし主は真の悔い改めと真の聖霊がくだることについて話しています。使徒行伝10:39-46には、ペテロの話を聞いた異邦人たちが、すぐさま悔い改め、福音を信じ、聖霊が彼らにくだったとあります。これに対してペテロは「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、誰がこばみ得ようか」(使徒行伝10:47と言いました。すでに悔い改め、信じ、救われ、聖霊によるバプテスマを受け、イエス・キリストに作り変えられた異邦人たちが水によるバプテスマを受ける意義はなんだったのでしょう? 少なくともこの場合は、ただの補足的な儀式にすぎないように感じられます。

後になって、ペテロはこの問題についてより良く理解するようになり、このように語りました。「そしてあなたを救うのはこの真のバプテスマである。肉の汚れを洗い流すことではなく、イエス・キリストの復活による正しい良心を神に願い求めることである。」(1ペテロ3:21

動物の生贄を捧げることが、イエスの死を無意味なものにするように、水による洗礼は、御霊によるバプテスマを否定することになります。初代教会の弟子たちは、まだ理解が浅かったために儀式を続けていたことが許されるかもしれませんが、私たちが恐れから行っているなら、良いはずがあるでしょうか?

水による洗礼が不要だと私が思う最大の理由は、それが救いに対して安心感を与える手段だからです。この安心感を与える水による洗礼が、いつも組織に利用されていることを考慮すると、とても危険だということがわかります。実際に、水による洗礼に関する議論や誤った教えは、多くの者を信仰から離れさせました。ある組織に入るために水によるバプテスマを受けるのは簡単ですが、主が導くところに従うのは難しく、信仰が必要です。

バプテスマのヨハネはこう語りました。「わたしは水で…おまえたちにバプテスマを授けている。…このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)実際、イエスは何度も聖霊によるバプテスマを強調しています(ルカ4:1811:1312:12、24:48、ヨハネ7:3914:15-26、15:26、16:5-15、20:22、使徒行伝1:4-8など)。使徒書簡も、水によるバプテスマではなく、聖霊によるバプテスマに重点を置いています。

ということでキリストの弟子は、主が強調する聖霊によるバプテスマを重視すべきだと思います。

 ボブ・ルギンビル

 *訳注:1ペテロ3:21を除く聖書の箇所はすべて口語訳。