その人からそれを取り去ってはならない
(二〇一四年 ひとしずく一六三八)
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで(別訳:もてなしのため)忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。
いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
(ルカ十章三八~四二節)
マルタはもてなしで忙しかったのですが、マリヤは、イエス様の足下に坐って彼の話を聞いていた、とあります。
十二人もの弟子達もそこにいたので、もてなしは容易ではなかったことでしょう。当時、イスラエルの国では、旅人の足を洗うことが習慣でしたから、彼らの足を洗っていたことでしょうし、食事も給仕したことでしょう。
マルタは、マリヤが自分のように忙しく働かないことで、憤慨していました。
姉を働かせて、妹は、何もしないでお客の話しに夢中になっている…姉のマルタが憤慨しても仕方がないような事態です。怠け癖とだらしなさと姉にばかり仕事を押し付ける傲慢な態度は見逃しておくわけには行きません。
しかし、師であるイエス様は、おそらく御自分の話に夢中になって、側でせっせと皆の世話をしている自分の犠牲にも、妹の何も助けようとしない酷い態度にも気づかない…イエス様にはっきりと言ってやらねば…
マルタは「主よ、妹がわたしだけに接待を(もてなしを)させているのをなんともお思いになりませんか」と心を取り乱して主に話します。
イエス様は、そうしたマルタにあの言葉をかけられます。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」とイエス様が語られた時、マルタは、どう思ったことでしょう?
何が第一番の優先だと言うの?? 皆が来るからというので、掃除と片付けで忙しかったし、その後、皆の足を洗って、今どうしても料理が追いつかない…一つだけしてもらいたいことって…イエス様達は疲れていて横になりたかっただけだって言うの? それなら、初めから、「ただ休みたいんだ」って言ってくれたら良かったのに…。私は何をしたらいいって言うの? こうマルタは思ったかもしれません。
イエス様は、さらにマルタがカチンと来る言葉を続けます。「マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
マリヤが良い方を選んだ!!? な、何言ってんですか? マリヤが何をしているっていうの? 料理を全部、私に押し付けて、何も手を貸していないマリヤのほうが、良い選択したって言うの!? あなたがたの世話は誰がするんですか? 怠け者、もてなしもしない人がいいって言うんですか?
私達が、しなければならないと思う幾つものもので、心にプレッシャーを受けると、私達の思いは簡単に、神の思いから遠く離れてしまいます。イエス様の言っていることが不条理で、馬鹿げたことであるとさえ思えてくるのです。
そもそも何故、イエス様を家に迎え入れるのでしょう? イエス様は何を望んでいるのでしょう? 神様が自分の家に来られたら、私は何をしたらいいのでしょう?
神の使わされた方を自分の家にお迎えしても、掃除–挨拶–タオルの用意–お食事–少しの談話と挨拶–片付けというおもてなしコースをとどこおおりなく出来ること、それが神の望まれていることでしょうか?
神様が望んでいる第一番のことを、私達が逃しているなら、それら全てが的外れのこととなってしまいます。それは神から使わされたイエス様の言葉に耳を傾けることです。
神を神として敬うことです。イエス様を家に迎え入れても、耳を傾けず、家の隅に押しやり、今は耳を傾ける事はできません。あなたをもてなすために忙しいのですからと言っていたら、これほど、イエス様を悲しませることはないでしょう。
自分のやりたいこと、自分の思いで、やらなければならないと思える幾つものことをやり終えて自己満足すること以上に、主が何を望んでいるのかに、耳を傾けることは、もっと大切なことです。
自分の心にイエス様をすでに迎え入れた私達も、心の隅にイエス様を押しやっている可能性があります。イエス様の口にテープを貼り、「今は黙っていて下さい。あなたの話は後で、時間ができれば聞きますから」という態度を取っていないか、確かめてみる必要があるかもしれません。
多くのことがなされ、また大勢の人と話しても、そこにイエス様が神として迎え入れられていないなら、大きな祝福を逃していることになります。
神を認めず、信じない人達に囲まれている時には、幾分仕方のない状況が発生しますが、私達は、自分の心の中で、神であられるイエス様を神として、認め、彼の語られる言葉に耳を傾け続けているのか、確かめる必要があります。
イエス様はそれぞれに語りかけておられます。そしてその声を私達は、世の常識や人からどう思われるかという考えによって押し殺してしまうことが少なくありません。
イエス様は、優しく、本当はこうであったらという願いさえ聞き入れて下さいます。また疲れている時には、ただ全てを忘れて、イエス様の御声に耳を傾けるように招かれます。
しかしそのような恵み深い呼びかけの御声に対して、状況が許すはずがないと決めつけて、イエス様のもとに行って主の御声に耳を傾け、主の恵み深さを味わうこともなく、イエス様とつながることをしないまま歩き去ってしまうということがあるのです。
私達を本当に実りあるものにし、心を満たしてくれるものは、神の御心を知らせて頂き、その中に浴することによって、神からの平安で満たして頂くことから来ます。
樹液で満たされてない木は枯れて死に絶えるでしょう。
人の目から見た成功や達成、また偉大な業績があっても、神の霊が満ちあふれていないなら、虚しいことでしょう。
神の御心を行うことが命の泉です。私達は、皆、御心を知るために、立ち止まり、耳を傾ける必要があります。イエス様とのつながりこそ、そして聖霊との交わりの内に歩む事の中に、神の与える豊かさがあり、その時、本当の幸せに与ります。
この世は、マリヤの持っている神とのつながりを取り去ることを勧めます。それが時間の浪費であり、無駄なことであり、贅沢なことと思わせ、それをマリヤから取り去らせようとするのです。しかし、イエス様はそうさせてはいけないと言われました。むしろイエス様がマルタをたしなめたのです。
変わらなければならなかったのはマルタなのです。
イエス様はマルタをも愛しておられたでしょうか?そうです。だからマルタが、心取り乱して耐えられなくなり、ついにイエス様のもとに来るのを待っていたのです。イエス様はマルタが尋ねたので、答えて下さいました。
私達の内にあるマルタのような性格は、変わることができるでしょうか? 皆がマリヤのようになったら、どうするんだと言う人がいるかもしれません。
しかし、神には何でもできないことはありません。
早まって、隣りにいる人が大切にしている神様とのつながりを奪い取るようなことをしないようにしましょう。そして忙しさと奉仕を神にとって代えて、それがその人を助けているのだと思い込む幻想からも解放されましょう。
また自分は、マリヤのようには決してなれない、自分はマルタに生まれついていると決めつけてしまうことのないようにしましょう。神様とそんな贅沢な関係は、他の人のためであるかもしれなけれども、自分のためではないなどといった、悪魔の囁きを信じてあきらめてしまうことのないようにしましょう。神はマルタのような私達をも愛して下さり、イエス様とのつながりの内に神の霊と命に溢れたわくわくさせられる人生を歩む事を望まれているのですから。
神の私達に望まれている使命は、神ご自身が私達を通してなして下さいます。イエス様とつながり続けることによって、その人のために神が世の初めから、持っておられた実りあるご計画を果たして下さることでしょう。
以下の呼びかけは全ての人のためです。
(イエス:) 「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」
(ヨハネ十五章四、五節)
彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。 (ヨハネ六章二八、二九節)
( イエス ) 「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう…もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。
(ヨハネ十四章二一、二三節)
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