御霊の声に従う訓練  二〇一二年 ひとしずく九四一

 実家を出て、車を那須に向けて走らせていた時、主が突然、母を最近治療してくれたお医者さんのところに訪問するようにチェックを下さいました。私は初め、そのアイデアは自分の考えであって、主のものではないだろうと思いました。その医師のところに行くには、別コースをとる必要があり二時間を余計に要することを意味します。それでなくてもすでに遅い出発になってしまったので、もしその道をとるなら、確実に那須に着くのは真夜中になってしまいます。 私は運転しながら、初めはそのことについて真剣になろうとはしませんでした。しかし、那須に向かう道と医師を訪ねる道との分岐点が近づいてきた時に、そのことが気になり、運転しながら主に尋ねたのです。「主よ、どうしたらいいですか?時間ももう遅くなって います。でも、あなたは私を、その医師の所に訪問させたいのですか?」と。医師を訪問するなら右の道を、那須にまっすぐ向かうなら、左の道を行くことになります。 祈ると主は、聖書にある、十人の皮膚病を患っていた患者が、イエス様に癒された時のことを思い起こさせてくれました。

イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病 人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、『イエスさま、わたしたちをあわれんでください』と言った。イエスは 彼らをごらんに なって、『祭司たちのところに行って、からだを見せなさい』と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちのひとりは、自 分がいやされたこ とを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。イエスは彼にむかって言われた、『き よめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはい ないのか』。それから、その人に言われた、『立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったの だ』。(ルカによる福音書十七章十一~十九節)

 特に「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」の箇所が思い出されました。

母は、治療費用のことや私の遠距離の運転にかかる時間(片道三時間)のことを気にして、もう治療院には行かなくて大丈夫と言っていました。実際、痛みの方も大分とれ て、先日は杖をついて山に行ってくることもできました。こんなに奇跡的に癒されたのは、皆さんの祈りのお蔭であったと思って感謝しています。主は 特別な医師に導いてくださり(薬などを一切使わず、体全体のマッサージによっての自然治療をする医師)、この医師を通して癒して下さいま した。

 私としては、まだ母を月に一度でも治療院に連れて行こうと思っていましたが、母はもう行かなくていいからと言い張り、そんなわけで、医師には次の予約をしないまま時間が経ってしまっていました。

私は主が思い出させてくれた御言葉を考えて、行くのに時間がかかったとしても、やはり主は、私に感謝を伝えることをさせたいのかもしれないと思いました。そう言えば、 母が私に持たせてくれた山菜が車に積んであります。すぐに食べることができるようにと皮を剥いて短く切ってあります。これなら、忙しい医師でも料理に使いやすいだろうと思いました。また「嵐の中の安らぎ」のCDや、昨年制作した「虹の約束」のトラクトも車にありました。それで決意したのです。

「そうだ!これらを感謝をこめて贈ろう」と。

那須に着くのが遅くなってしまうぞ、という考えがしばしば頭をよぎりましたが、この人に、主が今使わそうしておられるなら、この任務以上に大切なものはないはずだと、 自分に言い聞かせながら運転し続けました。友人にも私たちの感謝の思いが先生に伝わるようにお祈りしてくれるようにお願いしていました。

治療院に着いた時にはちょうど夕方の五時でした。着いてから不安が一瞬、また頭をよぎりました。「あれ?もしかしたら今日は休診かも知れないな・・・一言、 連絡とっておけば良かった・・・相変わらずだな・・・」と。しかし、とりあえず治療院に入ってみようと、車のエンジンを切ってドアを開ける と、ちょうどそこに、自転車に乗って出かけようとしていた先生にばったりと出会ったのです。グッドタイミングでした。私は先生に、母の膝の調子が最近良くなってきて山菜採りにも行ったことを知らせ、感謝を伝えました。そしてCDやトラクトのことについて少し話してから、それを先生に渡すこともできました。

 私が那須に向う途中に立ち寄ったことを知ると、彼女は、わざわざ道を外れて立ち寄ったことに、恐縮し、感謝して下さいました。そして私にとっても、また彼女にとっても、ばったりと駐車場で会えたことが、奇跡的に思えたのでした。 あと一分でも遅かったら、私は先生にお会いすることも無かったでしょうし、早すぎても彼女は仕事をしていたことでしょ う。私はすっかり時間のことを忘れて、ただ先生にお礼を伝えに行くのだと決意して来たのですが、主が全てをアレンジして下さっていまし た。

 なぜその日に、先生に感謝を伝えるべきだったのか、私にはわかりませんが、これも何でも善きこと、主の愛と御言葉を分かち合うこと、感謝を伝えること…これらは、しないで済ますのではなく、できる時に行うことを主は望まれ、それを祝福することは確かであると思います。

特に、その先生のところに向うと決めてから、主は、その先生が、大勢の人に触れて治しているけれども、あまり人々から感謝を受けていないかもしれないという思いがわたしの心に湧いてきました。わたしの想像が真実であったかどうかはわかりませんが、私はとにかく主に信頼し、主のチェックに従う必要があり ました。

そしてそうできたことで、とても満足でした。何より、山菜と一緒にCDやトラクトも渡すことができるようにタイミングを主が取りはからって下さり、主の愛を間近に感じることができたのですから。主をほめたたえます!

あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。(イザヤ書三〇章二一節)