主の兵士としての訓練  二〇一三年秋 ひとしずく一二七二

 息子たちが、自作の弓で的を射る遊びに興じていました。大きくなっても、やはり男の子だと思いました。

 私も弓矢を借りて、的を狙いましたが、なかなか当たりません。丸く描かれた標的が置かれていますが、その外側の段ボールの紙さえ外してしまうのです。

 それで、息子に弓を返して、彼らが射るのを見ていると、なかなか命中率が高いので驚きました。真ん中の赤い丸に三本の内二本は、命中させることができるのです。

 彼らは弓矢が好きだということもありますが、やはり練習に尽きるようです。

 彼らは、今度はその標的を地面を転がせて、動く標的としました。標的を射る確率がグンと下がりました。

 やはり、黙って動かない標的を狙うのは簡単ですが、標的が動いていたり、また自分が動きながらだと、的を射るのはずっと 難しいようです。

 私は、那須与一が弓を射る場面を思い出しました。あの平氏と源氏の屋島の戦いの中で、波間に浮かぶ平氏の舟の竿の先に扇が掲げられ、源氏方の那須与一が、馬を海中に乗り入れてその扇を射落とすという有名な場面です。

 騎馬兵の射手というのは、戦の場合、標的である敵兵は、多くの場合動いており、こちらも動きながらというのが普通です。 ですから相当の訓練を要したことでしょう。

 静止している的を近くで射るにも訓練が必要なのですから、先ず馬にまたがることができるようになり、それから両手を馬から離して弓矢を引くことができるようになること、そして標的も動く状態で射ることなど、素人がただ想像するだけでも、途方も無い訓練です。

 私は、霊の戦いの訓練も、こうした弓矢で、正確にどんな時でも的を射ることができるようになる訓練と、同じようなものだと思いました。 

 次のような聖句があります。

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に 対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に 取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ人への手紙六章十~十八節)

 つまり、私たちは、この御言葉からすると、霊の戦いに従事しているということです。ということは、目には見えない敵がおり、敵は私たちを負かすために攻撃しているということです。

 使徒パウロは、こう言っています。

…サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。(第二コリントの手紙二章十一節)

  分裂、赦さない心、兄弟を批判する霊、誘惑、高慢、貪欲…あらゆるこうしたことの背後にサタンの策略があります。

 毎日のように続く悪魔の策略に対抗して堅く立ちうるために、気を緩めることなく、日夜、訓練に励もうではありませんか。祈り、主から聞き、御言葉をとり、瞑想し、賛美することによって。

主にあって、その偉大な力によって強い兵士となれますように。

九月一日  主の兵士としての訓練  二〇一三年秋 ひとしずく一二七二

 息子たちが、自作の弓で的を射る遊びに興じていました。大きくなっても、やはり男の子だなーと思いました。

 私も弓矢を借りて、的を狙いましたが、なかなか当たりません。丸く描かれた標的が置かれていますが、その外側の段ボールの紙さえ外してしまうのです。

 それで、息子に弓を返して、彼らが射るのを見ていると、なかなか命中率が高いので驚きました。真ん中の赤い丸に三本の内二本は、命中させることができるのです。

 彼らは弓矢が好きだということもありますが、やはり練習に尽きるようです。

 彼らは、今度はその標的を地面を転がせて、動く標的としました。標的を射る確率がグンと下がりました。

 やはり、黙って動かない標的を狙うのは簡単ですが、標的が動いていたり、また自分が動きながらだと、的を射るのはずっと 難しいようです。

 私は、那須与一が弓を射る場面を思い出しました。あの平氏と源氏の屋島の戦いの中で、波間に浮かぶ平氏の舟の竿の先に扇が掲げられ、源氏方の那須与一が、馬を海中に乗り入れてその扇を射落とすという有名な場面です。

 騎馬兵の射手というのは、戦の場合、標的である敵兵は、多くの場合動いており、こちらも動きながらというのが普通です。 ですから相当の訓練を要したことでしょう。

 静止している的を近くで射るにも訓練が必要なのですから、先ず馬にまたがることができるようになり、それから両手を馬から離して弓矢を引くことができるようになること、そして標的も動く状態で射ることなど、素人がただ想像するだけでも、途方も無い訓練です。

 私は、霊の戦いの訓練も、こうした弓矢で、正確にどんな時でも的を射ることができるようになる訓練と、同じようなものだと思いました。 

 次のような聖句があります。

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に 対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に 取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ人への手紙六章十~十八節)

 つまり、私たちは、この御言葉からすると、霊の戦いに従事しているということです。ということは、目には見えない敵がおり、敵は私たちを負かすために攻撃しているということです。

 使徒パウロは、こう言っています。

…サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。(第二コリントの手紙二章十一節)

  分裂、赦さない心、兄弟を批判する霊、誘惑、高慢、貪欲…あらゆるこうしたことの背後にサタンの策略があります。

 毎日のように続く悪魔の策略に対抗して堅く立ちうるために、気を緩めることなく、日夜、訓練に励もうではありませんか。祈り、主から聞き、御言葉をとり、瞑想し、賛美することによって。

主にあって、その偉大な力によって強い兵士となれますように。

九月一日  主の兵士としての訓練  二〇一三年秋 ひとしずく一二七二

 息子たちが、自作の弓で的を射る遊びに興じていました。大きくなっても、やはり男の子だなーと思いました。

 私も弓矢を借りて、的を狙いましたが、なかなか当たりません。丸く描かれた標的が置かれていますが、その外側の段ボールの紙さえ外してしまうのです。

 それで、息子に弓を返して、彼らが射るのを見ていると、なかなか命中率が高いので驚きました。真ん中の赤い丸に三本の内二本は、命中させることができるのです。

 彼らは弓矢が好きだということもありますが、やはり練習に尽きるようです。

 彼らは、今度はその標的を地面を転がせて、動く標的としました。標的を射る確率がグンと下がりました。

 やはり、黙って動かない標的を狙うのは簡単ですが、標的が動いていたり、また自分が動きながらだと、的を射るのはずっと 難しいようです。

 私は、那須与一が弓を射る場面を思い出しました。あの平氏と源氏の屋島の戦いの中で、波間に浮かぶ平氏の舟の竿の先に扇が掲げられ、源氏方の那須与一が、馬を海中に乗り入れてその扇を射落とすという有名な場面です。

 騎馬兵の射手というのは、戦の場合、標的である敵兵は、多くの場合動いており、こちらも動きながらというのが普通です。 ですから相当の訓練を要したことでしょう。

 静止している的を近くで射るにも訓練が必要なのですから、先ず馬にまたがることができるようになり、それから両手を馬から離して弓矢を引くことができるようになること、そして標的も動く状態で射ることなど、素人がただ想像するだけでも、途方も無い訓練です。

 私は、霊の戦いの訓練も、こうした弓矢で、正確にどんな時でも的を射ることができるようになる訓練と、同じようなものだと思いました。 

 次のような聖句があります。

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に 対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に 取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ人への手紙六章十~十八節)

 つまり、私たちは、この御言葉からすると、霊の戦いに従事しているということです。ということは、目には見えない敵がおり、敵は私たちを負かすために攻撃しているということです。

 使徒パウロは、こう言っています。

…サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。(第二コリントの手紙二章十一節)

  分裂、赦さない心、兄弟を批判する霊、誘惑、高慢、貪欲…あらゆるこうしたことの背後にサタンの策略があります。

 毎日のように続く悪魔の策略に対抗して堅く立ちうるために、気を緩めることなく、日夜、訓練に励もうではありませんか。祈り、主から聞き、御言葉をとり、瞑想し、賛美することによって。

主にあって、その偉大な力によって強い兵士となれますように。