ひとしずく4115-闇から光へ

世の闇が本当に深くなる時、どんな人の理論も哲学も、また処世術もその闇の底知れぬ深みにスパイラルで落ち込んでいく魂を救い出すことができない。

 魂を縛って下に引き下げる鎖を断ち切ることはできるのだろうか..?

 戦いに圧倒される時には、闇の力があまりにも大きく思えて、それに対してできることは何もないように思える時を益々多くの人が体験しているように思えます。

 神の光、イエス・キリストのまことの光は、その闇の力の鎖の束縛を断ち切ります。

 神の光をうちに入れることによって、闇は逃げ去ります。神はそう約束して下さっています。

 もっと主の光を浴びて、もっと主の知恵により頼み、肉の力によってではなく、祈りによって神の御霊と御言葉の真理によって、闇の鎖の力は断ち切られます。

 希望は失望に終わることはありません。必ず、束縛からの解放があります。

 

暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。 (マタイの福音書 4章16節)

これは来るべきメシアについてのイザヤの預言です。イエスはまことの光です。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 (ヨハネの福音書 1章9節)

 そして光は闇に負けることはありません。主イエスの御臨在、そばにいて下さること自体が勝利です。

この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 (ヨハネの福音書1章4-5節)

 イエスを信じることによって、人は、光の子とせられます。

光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい…(ヨハネの福音書 12章36節)

  光であられるイエス様を信じる者は、「光の子」となり、昔の闇のわざを捨てて、光の子として歩むように召されています。

 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――

光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである―― 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。

実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。

彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。

しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。

明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。

だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。

酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、

詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。

そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、

キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。 (エペソ人への手紙 5章8-21節)

 人からの反対や敵の攻撃によって、光を隠すことがないようにと主は言われます。

だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。 (ルカの福音書 8章16節)

 光を憎む人もいます。

悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 (ヨハネの福音書 3章20-21節)

光にそむく者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の道にとどまらない。 (ヨブ記 24章13節)

しかし私たちは光のうちを歩む者です。

ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。 (イザヤ書 2章5節)

 光のうちにとどまるということは、神のいましめを守ることであり、いましめは、互いに愛し合うことです。

「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。

兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。 (ヨハネの手紙第一2章9-10節)

 光の子として光のうちに歩む者には、神よりの祝福が与えられます。闇のうちを歩まず、自身のうちに命の光を持ちます。

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

(ヨハネの福音書 8章12節)

 光の子となった者は、光であるイエスのことをあかしします。

すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」。 (使徒行伝 26章23節)

 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 (ペテロの手紙第一2章9節)

 光の子として歩むために、目を覚ましていましょう。主が今年も、皆さん一人ひとりと共におられて、主の光が輝きますように。主イエスの恵みと平安が共にありますように。

あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。

だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。

しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。

だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。 (テサロニケ第一の手紙 5章5-11節)