被災地に咲く 花のいのち
-被災地にて 2019・11(ひとしずく3497-3499)
泥に咲く花たち
先日、三日間ほど、台風19号の被害に遭った福島県郡山市に行ってきました。
社会福祉協議会のボランティアセンターで受付をして、要望があるお宅に行くように指示されました。
私たちのチームは、ボランティアをする間、泊まらせてくださっている県内に住む友人のYさんと、山梨から午前中だけでも手伝いたいとやって来た初対面の男性と、私の娘のAと私の4人でした。
これから、そのうちの一軒のお宅を手伝った時の話をしたいと思います。
そのお宅は、ゴミの收集時間に間に合うように家の中の家具を運び出すのを助けて欲しいという要望でボランティアセンターの方に連絡してこられました。そして私たちはそちらにお手伝いに行くことになりました。
私たちがそのお宅に到着すると、マスクに割烹着姿の女性が、荷物運びに一人で奮闘していました。詳しく話を聞くと、他県から派遣されていた大型家具などの廃棄物の収集車が、その日を最後に帰ってしまうというのを聞いたのはその日の朝のことだったそうです。その家のご主人は出張でおらず、奥さん一人では対応しきれなかったので、福祉協議会のボランティアセンターに電話して助けを求めたとのことでした。
さっそく私たち四人で、廃棄する大型の家具やその他の色々な物を収集場所まで運びましたが、その作業はすぐに終えました。するとその女性は、庭の植木なども全部片付けてもらえないかと言いました。見ると水害に遭ったにもかかわらず、色とりどりの花たちが見事に咲いていました。立派な藤棚もあり、泥水に浸かった部分はきれいに洗い流されていました。とても大切にされ、よく手入れされているのがわかります。
「えっ、これを処分してしまうのですか?」私は思わず尋ねました。するとそこへ娘さんが週末の休みで、片付けの手伝いにやって来ました。娘さんも庭の花たちを抜き取ってしまうことに驚いていて、その娘さんに母親が事情を説明し、仕方のないことなのだと話しているのが聞こえました。どうやら、泥水に浸かってしまい病気になってしまうので、処分せざるを得ないようでした。確かに木の根元などからは少し悪臭が漂ってきていました。
そして私も納得し、花を根っこごと引き抜いて束ねる作業をしていると、そこの女性がまたやって来て、「本当にありがとうございます」と何度もお礼を言ってくれました。
台風の時の様子を尋ねると、彼女は堰を切ったように、心の中にたまっていた色々な思いを話し出しました。
処分しなければならない藤棚はお祖父さんの代に植えられたもので、ずっと大事に手入れしてきたこと、また近所の人たちと一緒に庭造りを楽しんでいたことなども話してくれました。見ると、フェンス越しの隣のお家にも似たような木が植えられていました。花や枝は切り落とされてすでに処分されていました。
彼女は台風以来留守になっている隣二軒の家を指差して、「光が灯らないと寂しいものです。ここに帰って来れるかどうか・・・」とつぶやきました。
そして、「私はどこへも行けないんです。この土地を買ったでしょう。父も母もこの家から離れたくないと言うし・・・。
うちは両親が高齢者なので、早く避難したんです。まさかこんなになるなんて思わなかったので、ほとんど何も持たずに。そして一階は全て泥水に浸かってしまい全部ダメになってしまいました。この辺は3・11の放射能の被害にも遭っていますが、今回はあの時よりもひどいです。もうどうしていいかわからないです。放射能の時、ここは1.5~1.7マイクロシーベルトあったんですよ、土を取り除いたり、庭にカーペットを敷いて、何度か取り替えて、ようやく0.1になったんです。でも今回のこの泥は・・・。
あそこに見えているのは堤防ではなく土手です。周りの新しい地区は、その土手をどんどん高くしていくので、川があふれたら、皆こっちに流れて溜まってしまうんです。そして溜まった水はどこにも流れてくれない・・・」
彼女はその苛立ちをどこにぶつけていいのかわからないようでした。彼女にとって、3.11の災害の時にも、唯一心の慰めだったのがこれらの美しい花たちだったのだと思います。そして今回の災害からひと月経っても、庭をそのままにしておいたのも、この花たちを手放したくない思いがあったのでしょう。しかし他県から支援に来てくれている廃棄物収集車が今日で終わりというこの日に、駆り立てられるように、花たちを処分する決意がついたようでした。
それまでに彼女は、泥水に浸かった花や木々を何とか救う方法はないものかと、あちこちいろんな人に聞き回ったようでしたが、やはりこうなってしまったからには、根元辺りに臭いも残っているし、乾いた砂が飛んだり、植物が病気になったり、周辺の人たちにも迷惑がかかるということで処分することにしたとのことでした。
いよいよ、大切に世話してきた花たちとの別れの時が来て、その女性は泣いていたのか目が赤く腫れていて声も震えていました。彼女は「もう何をしても楽しくないのです」とつぶやきました。
私たちはこの被災された方の負担が少しでも軽くなるように、とにかく、限られた時間で今自分たちにできることをしようと、庭を更地にするために奮闘して働きました。午前中は四人、午後は三人で一日がかりの作業となりました。ちょうど今、花盛りの時期を迎えていた菊の花の紫、白、ピンクの色が鮮やかでした。その背丈は私の胸の辺りまであり、ここの家族の皆さんの心を慰め励ましてきたのでしょう。
私は今日、ここに来たのは神の導きだったとわかりました。心を込めて世話してきたこれらの花を、彼女が自分の手で引き抜くにはあまりにも辛過ぎたと思います。
病院から帰ってきたその家のおばあさんが、作業する私たちの所に来て、ひとこと「ありがとう」と言いましたが、やはり、引き抜かれた花たちを見るのは忍びなかったのでしょう。それ以降、庭に出てくることはありませんでした。娘さんは何度か車で家の物を運び出していましたが、あとで挨拶に来てマスクをはずすと、やはり目が涙で濡れていたようでした。
御家族で家の中の片づけをしていて、何度か笑い声が聞こえてきたりもしましたが、やはり、涙をこらえて明るく振る舞っていたのだと思いました。
作業が終わり、最後にあの女性が挨拶に来て、「もう、全部無くなりました・・・」と寂しそうに言いました。娘さんは何も言わずそこに立っていました。
私は昨年、2016年の台風10号で被災した岩手県岩泉に行った時のことを思い出しました。彼らは家も家族も失った人たちで、二年経っても、その時に失った家族のことを思い出して、目を赤くして泣いていました。やはり愛する人を失うことほど悲しいことはないのだと思いました。今回訪れたこのお宅は、幸いなことに御家族の方は皆無事でした。私は彼女と娘さんに言いました。「御家族がご無事で良かったです」と。
それは彼らにとって何の励ましにもならない言葉だったかもしれませんが・・・。
彼らに見送られ、そこを立ち去ろうとした時、道端のガードレールのところに、先ほど刈り取った色とりどりの菊の花束が山積みになって置かれているのが目に入りました。
花たちは、最後の収集車に積まれるのを待っていました。学校帰りの中学生がそこを通りかかりましたが、花には目もくれることなく、足早にそこを通り過ぎて行きました。
明日には炉の中に投げ入れられ焼かれてしまう菊の花の美しさが心に沁みました。
もしも、花に心があったなら何を言いたいのだろう?
最後の最後まで花を処分する決断を下せずにいた人たち。花たちを惜しんで泣いていたその人たちに花はこう言っているかもしれません。
「大丈夫、泣かないでください。今まで大切に世話して頂き、幸せいっぱいでした。
どうか希望を捨てないでください。私たちが今まで精一杯咲いてきたのも、皆さんに希望を持って進んで行ってほしかったからです。天国で待っています。」
そこを立ち去り、泊めていただいているYさんの家に帰ると、作業の時に刺さった何かの花のトゲの傷が痛みました。私の話を聞いたYさんのお母さんが、「きっとお花の心の痛みが伝わってきているのでしょう」とぽつり言いました。
明日は炉に投げ入れられようとも
聖書にはイエス・キリストが語られた次のような言葉があります。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
(マタイによる福音書 6章30節)
神がどのような思いで草花を生えさせておられるか、そしてその一本の草花を通して何を私たちに教えようとしておられるのか、考えさせられます。
イエス様は人々の心の中に、神への信頼よりも、生活の心配、不安、思いわずらいのあることを見られました。そしてこの言葉を語られたのです。この言葉の前には次のように語られています。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
(マタイによる福音書 6章25~29節)
これは、たくさんある食べ物や洋服の中から、明日は何を食べようか、明日は何を着て行こうか、と迷っているようなことではなく、食べるものにも着るものにも事欠くような状態の中で、明日はどうしようか、生活して行けるだろうか、と心配する人々に対して語られた言葉です。
イエス様はそういった人々に、空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と言われました。鳥や花はどうやって育ち生きて行けるのか。自分で働きもせず、紡ぎもしない。しかし、神はそれらの小さな鳥や野の花、またあらゆる動植物を養ってくださっている。
それはただ、神の恵みによるんだよ。こうした花や鳥にさえ、愛を注いでおられる神が、あなた方のことを世話してくださらないことがあるだろうか、と神が人間のことをどんなに愛しておられるかということと、それゆえ心配しないでただ神に信頼することを教えておられるのです。
人はどうしても、お金や物を持つことで安心を得ようとするのではないでしょうか。目に見えない神に信頼するよりも、目に見える金品に安心を求めてしまうのです。
昔、イスラエルにはダビデの息子であるソロモンという王様がいました。ソロモン王は巨大な富に恵まれていました。人の目から見たら、うらやましく思えたことでしょう。しかし、イエス様は「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」と言われたのです。
これは、人間が造るどんな立派な建物も、宝石をちりばめた豪華な衣装も、神がお造りになった命あるものの輝きに比べたら、取るに足らない、神によって生かされている命は、それらのものとは比較にならないほど高価で価値あるものなんだよと、イエス様は言われたのだと思います。
野の草の装いというのは、やはり神がデザインされた美しい花にあらわされていると思います。私たちの目は、葉や茎ではなく美しい花に惹きつけられます。それは神がその草や茎に合った花を、輝きをもって装ってくださっているからです。神の愛や思いはこんな小さな命にまで行き届いています。
そうであるなら、私たち人間に対し、神は単に生き延びられるよう世話されるということ以上に、一人ひとり異なる性質を持った私たちを、どんなにか心をこめて、それぞれにあった装いで輝かせてくださることであろうかと思います。
明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。それはこんな小さな野の花にも、神が造られた目的と役割があるからではないでしょうか。
私たちがこの庭で引き抜いた色とりどりの美しい菊、その他にも季節ごとに咲く色々な草花がこの庭に植えられていましたが、それらの花々は放射能を浴び、泥水で覆われた庭に、自らも泥水に浸かりながらも美しく咲き続け、この家の人たちの心を和ませ、楽しませ、希望や励ましを与えてくれました。
この花の美しさを造られたのは神です。そしてその花の美しさに感動する心を人間に備えられたのも神です。たとえ草花たちの最後が炉で焼かれてしまうことであったとしても、それほどまでに深い配慮と計画をもっておられる神が、ただいたずらに人の心に感動を与えた後に無残に取り去って落胆させる、そんな心をもて遊ぶようなことをなさるはずはありません。
この草花たちはそれを良く知っているかのようです。束ねられて、炉に入れられるのを待つ花たち、彼らは神に造られた自分たちの使命、その目的を果たしたことを静かに喜び、神を賛美しているように見えました。
いつまでも変わらないもの
草は枯れ、花はしぼむ。
(イザヤ書 40章8節)
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。
草花だけでなく、形あるものはいつか必ず朽ち果てます。
建物も絵画も、ペットも愛する人たちも、そして自分も。
しかし神様は、はかないこの世にあって、私たちに永遠を思う気持ちを与えられ、私たちが単に目に見えるものの美しさや、それに対する愛着に留まるのではなく、それらを造られた創造主である神へと、思いが向けられるようにされているのではないかと思います。私たちが心ときめかせ、感動して見るもの、また体験するものの背後に、それを与えてくださった神がおられること、そして私たちはその神の愛の内に生かされているということに気づくようにと。
イエス様は、人々に次のように教えられました。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
(マタイによる福音書 6章19~21節)
神は、地上のやがて朽ち果てるものにではなく、永遠に朽ちることのない美しいものを見出すよう私たちを導いておられるのです。
もし、この地上のものに心惹かれ、幸せの基盤がそれらのものにあるなら、それを失ってしまったり、朽ち果て変わって行くのを見る時、私たちの心も動揺し、悲嘆に暮れてしまうことでしょう。しかし、それらのものを与えてくださっている神に心が留められているなら、この世でどんなことが起きても、また何を失っても揺さぶられることはありません。たとえ一瞬は揺さぶられるかもしれませんが、揺さぶられ続けて倒れることはありません。
それこそが、状況に左右されることなく、真に人の心を平安で満たしてくれるものではないかと思います。そして、それは誰もが必要としている価値あるものです。
イエス様は言われました。
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
(マタイによる福音書 13章44節)
この世のどんなに価値あるものとも全く比べ物にならないほどの宝、それが愛の神の発見であり、自分はこの神の計画のうちに愛をもって造られたのだということの発見、それが神が私たちに見つけてほしい宝なのです。そして、私たちが神に愛されているように、他の人を愛するために生きること、それが天に蓄えることのできる宝なのです。それは人生に、真の豊かさ、愛、自由、喜びと希望をもたらしてくれるものです。
聖書は、人の命だけでなく、やがてこの世にも終わりが来ることを告げています。その終わりの時に起るべき前兆も聖書に記されていますが、今、それが現れ始めています。戦争、地震、疫病、天体の異変、人々が自然の情愛をなくすこと・・・その他にもまだまだありますが、今は終わりの時なのです。
しかし、それは同時に神の国、天国が近づいていることでもあり、それは例えるなら、産みの苦しみ(陣痛)と言えます。
聖書にはこうあります。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
(ローマ人への手紙 8章22節))
今、周りを見れば、人間だけでなく、生物、自然、造られたもの全てが、もだえ苦しんでいるのがわかると思います。しかし、聖書はその苦しみは産み(陣痛)の苦しみだというのです。産みの苦しみ–それは、新しい命、新しい世界が生まれるための意味ある苦しみです。
聖書にはこれらの産みの苦しみ、世界の艱難時代の後に、不法が正され悪が一掃され、地には平和が神によってもたらされる時が来るという新しい世界についての預言がいくつも記されています。
そして神は、この新しい世界到来のために、人々がこの世と共に滅びることのないように、御子であるイエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。イエス・キリストは神であられたのに、私たちを救うために人間としてこの世に来てくださったのです。
聖書にはこうあります。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命をためである。
(ヨハネによる福音書 3章1616節)
神は私たち人間をどれほど愛しているかを示されるために、御子イエス・キリストをこの世におつかわしになりました。イエス・キリストは社会からしいたげられている人々や病人たちのところに行かれ、人々をいやし慰め、神の愛を示されました。そればかりでなく、全人類の罪のあがないのために、十字架に架かって命を捨ててくださったのです。それはイエス様の犠牲によって、私たちが本来受けるべき罰を受けずにすむためです。
イエス様は、私たち人間が、生まれながらの罪の性質をもったままでは神の国に入ることができないので、その罪を取り去るために、いけにえの小羊となって死んでくださったのです。それは無理強いされてでもなく、仕方なくでもなく、愛する私たちの身代わりとして、自ら十字架への道を進んで行かれたのです。
神であられる方が私たちのために死んでくださいました。これほど尊い愛があるでしょうか。
しかし、感謝することに、イエス様は死んだままではおられず、聖書の預言通りに三日目によみがえり、四十日間にわたり、弟子たちを始め大勢の人たちの前に姿を現され、御自分が復活されたことを示されたのでした。
これはイエス様と三年半、共にいて訓練を受けた弟子達や使徒パウロも伝えている事実です。
パウロの記述にはこうあります。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
(コリント人への手紙第一 15章3~8節)
パウロがこの書簡を書いたのは、ここに記されているように復活されたイエス様を目撃した多くの人達がまだ生きていた時代です。もしそれが真実でないのなら、パウロや弟子達の言うことに耳を貸す人は誰もいなかったことでしょう。
イエス・キリストは確かに死からよみがえられました。そして、この事実を受け入れて信じる人々の心の中に住まわれることを望んでおられるのです。
イエス様は神であり、あなたの救い主であり、あなたをこよなく愛する存在です。イエス様は、聖書で語られているように、あなたの心の戸の外に立ってあなたの心の戸を叩いています。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
(ヨハネの黙示録 3章20節)
「食を共にする」というのは親しい交わりを意味しています。つまり、イエス様はあなたが神の愛を信じてイエス様を心の中に迎え入れ、共に人生を歩むことを望んでおられるのです。
どうか、今、この短い祈りをして、イエス・キリストを心に受け入れてください。
「イエス様、私の罪をゆるすために十字架で死んでくださったことを感謝します。どうぞ今、私の心の中に入ってください。そして、心の闇をあなたの光で消し去ってください。自分が今まで犯してきた愛のない行為をゆるしてください。また、誰かをゆるせない思い、高慢、嫉妬、自己中心の思い、不平不満、絶望など、自分ではどうすることもできないこれらの思いから解放してください。そしてあなたの愛と平安、喜びで満たしてください。
どうか、あなたと共にこれからの新しい人生を歩むことができますように。そして、永遠の命を与えてください。イエス・キリストの御名(みな)で祈ります。アーメン。」
この祈りを心から祈ったのなら、イエス様は今あなたの心の中に入られました。そして、あなたは霊のうちで新しく生まれ変わり、永遠の命が与えられました。イエス・キリストを信じる人は、この人生の卒業を迎えると、滅びることなく神の御国である天国に迎え入れられるのです。ですから死への恐れからも解放されることになります。
また天国に行くのを待たずとも、今からの人生において、心に天国を持って生きて行くことができます。
イエス様は
「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」
(ルカによる福音書 17章21節)
と言われました。
私たちが思いの中で、天地を始め、この世界のあらゆるものを造られた神を仰ぎ見て祈り、聖書に書かれている神の言葉に生きるなら、神の国、天国はいつも私たちの心のただ中にあるのです。
どうか、この永遠に朽ちることのないものに目と思いを留めて、新しい人生を、あなたを造られた神と共に今日から生き始められるよう、心からお祈りしています。
イエス様はあなたを本当に愛しています。
終わりに
私は、あの被災地で見た、泥をかぶってもなお美しく咲いていた花たちに、命の輝きを見ました。明日は刈り取られ、炉に投げ入れられて焼かれることになろうとも、ただ自分たちを庭に植えて楽しんでくれた人たちのために一生懸命咲いてくれていた花たち。それは、私たちが愛と自由のうちを歩めるようにと、私たちのために傷つき命を捨ててくださったイエス・キリストの愛の姿に重なりました。
私たちの人生は、この花たちのように、気づかれずに寄り添い続けてくれている様々なものに取り囲まれていると思います。しかし、普段はそれが当たり前だと思ってしまっていたり、気づかないでいます。それを失って初めて、それが、あるいはその人が自分にとってどれだけかけがえのない大切なものであったかということに気づくのです。そして、もっと感謝しているべきだったと後悔するのではないでしょうか。
しかし、私たちがこの人生において気づかなければならない最も大事なこととは、それらの自分が生きるのに必要な全てを与えてくださっている神がおられるということだと思います。あの花のいのちを通して、神はそれを教えようとされているように感じました。
あの庭に彼らを喜ばせていた花たちの姿はもうありません。しかし神の愛は、いつまでも彼らと共にあり、様々な形で、彼らの必要を満たし、励まし続けて行かれるのだと思います。彼らが神の存在に気づくのを待ち望みながら。
2019年12月
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