ペテロの手紙#4
苦しみのカテゴリー
(Ichthys.comでオンラインでも入手可能)
ロバート・D・ルギンビル博士著
苦しみ: ペテロは紀元1世紀、小アジアに住む信者に宛てて二通の手紙を書きました。当時、初期のクリスチャンたちは厳しい苦難の中にあり、彼らが経験していた苦しみは彼らの霊的成長を妨げ始めていました。 最初の手紙の中で、ペテロは主にこの苦しみについて取り上げています。実際、ペテロはこの短い一つの手紙の中で、使徒パウロがそのすべての書簡の中で使っているよりも多く、ギリシャ語のパスチョpascho(「苦しむ」という意味の動詞)を使っています。 苦難、挫折、失望、病気、その他さまざまな苦しみは、当然のことながら、信仰のつまずきの石となります。
私たち信者は、神の怒りから解放され、イエス・キリストの血によってすべての罪が赦され、神の子どもとなったと言います。それなのに、なぜ人生は時にこんなにも困難なのでしょうか? なぜこんなに苦しいことがあるのでしょう? そのような疑問に対する聖書的な解答がなければ、極度の苦しみは必然的に信仰に大きな圧力をかけ、神を疑うように誘惑してきます。 しかし神は、この疑念と戦うための真理、すなわち御言葉の真理を私たちに与えてくださっています。聖書に書かれている真理によって、神は私たちの信仰を守り、やって来ようとしている苦しみを理解し、神が栄光を受け、私たちが霊的に成長するためにそれに耐える手段を与えてくださったのです。 ペテロが第一ペテロの手紙を書いた目的は、苦難に直面した初期の信徒たちに、苦難の試練を乗り越えるために必要な重要な情報と励ましを与えることでしたが、その情報はおよそ二千年前の彼らにとってそうであったように、現在の私たちにとってもしっかりと習得しておくべき極めて重要なものです。
苦しみのカテゴリー: 聖書の観点から苦しみの原因を分類することは、私たちの目的に役立つでしょう。最も普遍的な苦しみの形態は、人間一般の苦しみと呼ぶことができるでしょう。 神の設計された物理的な宇宙は一般に自然法則と呼ばれる一定の予測可能なパターンで動いています。 同様に、人間の領域においても、神は人間の正常な行動の体系を定め、それをすべての人の良心に植えつけられました(ローマ2章14-15節)。 これらの原則を成文化しようとする人類の試みを、私たちは人間法則と呼ぶことができるでしょう。
もし私たちが、自然法則と人間法則のどちらの結果も無視すると決めたなら、苦しみが生じるでしょう。 例えば、重力の法則を無視して二階の窓から飛び降りることを選んだり、あるいは代金を払わずにテレビを持ち帰ることを決めたとしましょう。どちらの例も否定的な結果を避けることはできるかもしれませんが、自然法則や人間法則に背くことを繰り返せば、必然的に苦しみが生じることは明らかです。 もちろん、自然法則や人間法則に関係を持たないでいることが不可能な場合はよくあります。例えば、自然的な面では、私たちの誰もが人生の中で何らかの病気に遭遇するでしょうし、人間的な面では、法律を遵守することさえもしばしば苦痛を伴うことがあります(例えば、所得税の支払い)。 極端な状況では、そのような苦しみは強烈なものになりえます(自然災害の犠牲者や、法と秩序の名の下に行われる政治的迫害を考えてみましょう)。 重要なのは、物理的な宇宙の正常な運行と人間の歴史は、物事の自然な流れの中で苦しみを生み出しているということです。私たちは皆、このことを理解しており、個々の苦難のケースについて、自然的あるいは政治的な原因を特定できることがよくあります。
一般的な人間の苦しみの起源: 神を信じ、神の完全性と善性を信じる私たちは、なぜ痛みや苦しみがあるのか、なぜ政治的迫害や自然災害があるのか、と問うかもしれません。 この質問に対する簡潔な答えは、苦しみは悪から生じたものであり、悪は神からではなく、神の被造物から生じたものであるということです。 関連する教えについてはまた別のところで研究するとして(『サタンの反乱』シリーズを参照ください)、ここでは苦しみの起源について少し述べておきましょう。
神が最初に創造した宇宙には、天使と呼ばれる特別な生き物が含まれていました。人間よりも優れた能力を持ち、自由意志も与えられていました。神が大いなる権威のある地位に置かれた、ある特別な才能を持った天使は、神に反抗することを心に決め、神に代わって宇宙の支配者になろうとしました(イザヤ14章12-21節; エゼキエル28章12-19節)。聖書は、この反乱が最初にたどった正確な道筋についてほとんど詳しく述べていませんが、サタンとサタンに従うことを選んだ天使たちに対する神の将来の勝利があることを私たちは確かに知っています(ルカ10章18節; ローマ16章20節; 黙示録20章10節)。
明らかに、全能の存在である無限の神は、御自分の造られた有限の被造物の一人を服従させることに何の苦労もしなかったことでしょう。 しかし、神は即座にそうする代わりに、サタンとその従者たちには本当に自由な選択が与えられていたこと、したがって、神がサタンを創造したという事実によって、サタンが悪を選んだ責任が神にあるわけではないことを、サタンとすべての天使たちに示すことにしたようです。このことを証明するために、神は人間を創造されたのです。天使たちよりも能力ははるかに劣るけれども、同じ自由意志を持つ被造物です。自分の運命を決める究極の争いに直面したサタンは、断罪を免れる唯一の望みは、被造物が自らの自由意志によって神に従うのを阻止することだと悟りました。そうでなければ、人間が神を選ぶことで、サタンもまた自らの行動に責任があったことが疑いなく証明されてしまうからです。そこでサタンは、私たちの原初の両親を堕落させることによって、人間を神から遠ざけようとしました(創世記3章):
しかし、神は人間に解決策を提供されます。人間は自由意志を使って神に背き、その結果罪に堕ちましたが、神は人間にもう一つの機会を与えました。 神は人間に、来たるべき救い主(創世記3章21節の「皮の衣」によって予表されている、動物の犠牲によってキリストの十字架上での死を象徴しています)を信じる信仰によって神に服従することで、神に従って自由意志を用いる機会を与えたのです。
このことが、人間の苦しみとどのような関係があるのでしょうか? 神が人間を創造されたとき、神は彼らを男と女に創造され(創世記1章27節)、完全な者として創造され、完全な場所、すなわちエデンの園(創世記2章8節、ヘブル語のgan-‘aden喜びの園/楽園の意から)に置かれました。 この完全な場所、完全な状態において、人間は苦しみを知りませんでした。来たるべき新しい楽園において、人間は苦しみを知らず、再び苦しみはなくなります(黙示録21章4節)。 しかし、創世記3章における人間の堕落の結果、全人類は現世において苦しみを受けることは普通のことになりました。全人類は現世では人間一般の苦しみに服することになりました。神はアダムとエバに、善悪を知る木の実から食べると死がもたらされると警告しました(即座の霊的死、また神からの疎外、そして最終的な肉体的衰弱、死、永遠の裁き: 創世記2章17節)。 罪に堕ちたアダムとエバは、完璧な楽園であったエデンから放り出され(創世記3章22-24節)、彼らの人生に苦しみという新しい要素がもたらされたのです。エバには「苦しみ」(創世記3章16節)、アダムには「労苦」が預言されていますが、どちらの言葉も同じヘブル語の語源である「atsab」に由来します。意味は傷つく、痛み、そして悲しみを感じるというものです。 このように、アダムとエバは、その子孫である私たち全員に、一般的な人間の苦しみという遺産を残しました。 しかし、私たちの最初の両親とのつながりが私たちに苦しみと死をもたらした一方で、神が御子イエス・キリストへの信仰を通して私たちに与えてくださるご自身との新しい関係は、私たちに喜びと永遠の命をもたらしてくれます。(第一コリント15章22節)
アダムとエバに裁きを宣告している最中に、神はアダムとエバに希望の約束も与え、女の子孫(=キリスト)がいつか蛇の頭(=サタン)を打ち砕くと告げられました(創世記3章15節)。 この勝利は十字架でもたらされ(ヘブル2章14-15節)、キリストに信仰を置く私たちは皆、この痛みの体が完全な体として復活する未来の日を確信を持って待ち望むようになりました(第二コリント5章1-10節)。 その時、私たちは新しい楽園、新しいエルサレムで、父なる神と御子イエス・キリストと共に永遠に生きるようになるのです(黙示録21-22章)。
信者の苦しみ: 信者である私たちは、神のご計画の第二段階(時間; ペテロの手紙#3を参照してください)に生きています。 第一段階(救い)はイエス・キリストを救い主として受け入れた時に終わり、第三段階(永遠)はこの地球にいる私たちにとっては、まだ始まっていません。私たちの心はキリストへの従順の内に変わりましたが、私たちの肉体は救われる前とまったく同じであり、私たちはまだ信じる前と同じ不完全な世界に住んでいます。その結果、アダムとエバの堕落以来、人が通過してきた人間の一般の苦しみに、私たちはまださらされています。しかし、この最初の人類全般の苦しみと信者の苦しみには、とても重要な違いがあります。
まず第一に、私たち信者の苦しみには終わりが来ます。私たちは信仰によって、やがて現世の苦しみと涙から解放されるという確かな知識を持っており、被造物と同じように、この解放を切に待ち望み、今のこの苦しみはやがて私たちに現わされようとしている天の栄光に比べると言うに足りないということを知っているのです(ローマ8章18-23節)。
第二に、私たちがどのような苦しみに耐えるよう求められても、それはすべて私たちの人生に対する神のご計画の一部であり、たとえ痛みを伴う苦しみであっても、天の父の知恵と憐れみによって、最終的な結果は私たちの益となることを知っています(ローマ8章28節)。
しかし、信仰の難破を避けるためには、信仰者に特有の二種類の苦しみを区別することが重要です。ペテロが手紙を書いた相手の信者は、信者の苦しみを二種類に区別するのに苦労していました:
(1)報復ではない苦しみと
(2) 神の懲らしめ。
報復ではない苦しみ: この言葉は単に、神が信者を試し、鍛え、訓練するために(そして神を賛美するため:また同様にヨブの場合も参照してください)、信者に与えられる苦難を意味します。 このような苦しみに見舞われると、信仰者はしばしば、神は自分に関心がないか、あるいは神が罰しているのだという誤った結論を導き出したくなります。しかし、クリスチャン生活における苦難は、必ずしも神が不快に思っておられることを意味するものではありません。後のレッスンで述べますが、霊的な成長は、人生において何か立ちはだかるものがなければ、実際には不可能なのです。そのような状態にあって、神は私たちが困難な状況にあっても忠実であられることを示され、私たちも不利な状況にもかかわらず神への信頼を示す機会を持てるのです。
クリスチャンとして、困難が降りかかってきたときには(自分自身に集中しすぎないように)客観的になること、そして、天の父は私たちのためにひとり子を与えて死なせたほどに私たちを愛してくださっているのだから、他の困難があっても必ず助けてくださるということを覚えておくことが絶対に必要です(ローマ5章8-9節)。 もし私たちが何も悪いことをしていないのであれば、過去の罪が今の苦しみの原因になっているかもしれないという思いに対して、心の「戸」を開けないことが肝要です。神は私たちを赦しと恵みのうちに扱ってくださいます。昔犯した罪、昔告白した罪、昔赦された罪、昔神に扱われた罪は、私たちの現在の問題の原因ではありません(ヨブとその友人たちの誤った判断を参照してください)。 私たちは、見当違いで余計な罪悪感を抱かないようにしなければなりません。そうでなければ、これらの感情は私たちの霊的生活に大混乱をもたらす可能性があります。ペテロが第一ペテロの手紙を書いた目的の一つは、小アジアの信者の霊的成長を脅かしていたこの点に関する混乱を取り除くことでした。
神の懲らしめ: 確かに、私たちは完全な存在ではありません。 だからこそ、私たちの代わりに死んでくださる完全な救い主、イエス・キリストが必要だったのです。イエスの血によって、私たちは贖われ(第一ペテロ章1章18節)、罪の力から解放されました。 しかし、私たちはまだ不完全な体に宿り(ローマ7章)、不完全な世界に生きているので(ヨハネ17章15節)、私たちはきよくなるのを追い求めることを求められていますが(ヘブル12章14節)、残念なことに、信者になった後も、完全に罪のない者になることは不可能です(第一ヨハネ1章10節)。
神はその正しい御性質ゆえに、信者が犯した罪に対処しなければならなりませんが、愛に満ちた父として私たちに対処してくださいます。私たちの子供が悪いことをしたとき、本当に愛しているなら、私たちは子供をしつけます。私たちが罪を犯したとき、神が私たちに対処される方法もよく似ています。ヘブル人への手紙12章では、神は「愛する者」を懲らしめ(6節)、真に神の子である者は皆、神によって懲らしめられる(8節)と教えられています。神が私たちを懲らしめる目的は、私たちを押しつぶすためでも、滅ぼすためでも、怒りを注ぐためでもなく、私たちを矯正し、訓練し、神の望まれるクリスチャンにするためなのです(10-11節)。
では、個人的な罪と、それがもたらす神の懲らしめの問題に、私たちはどのように向き合えばいいのでしょうか? まず、私たちが霊的に成長し、神の御言葉の真理を学び続けるにつれて、何が罪であり、何が罪でないかを明確に認識できるようになります。 もし私たちが罪を犯したなら、第一ヨハネの手紙の1章は、私たちがその状況を正し、神との交わりに戻るための重要な仕組みを教えてくれています。 ヨハネは8節で、私たちはみな「罪を持っている」(すなわち、私たちは罪深い性質を持っており、そのために罪を犯す素質があるということです: 伝道者の書7章20節を参照してください)。しかし9節では「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」とあります。さて、「告白する」というギリシャ語はホモロゲオといい、単に「認める」という意味です。 したがって、もし私たちが罪を犯したとき、(単純な祈りの中で)神に罪を認めるなら、神はその罪を赦し、さらにその罪だけでなく、私たちが陥ったかもしれない「すべての不義」からも清めてくださると、聖書はここで教えているのです。
では、私たちは自分の罪について罪悪感を感じなければならないのでしょうか? 確かに罪を犯したことを後悔するのは理解できますし、神の懲罰が私たちにもたらした苦痛をせつなく思うのは確かですが、ここで大切なのはキリストであり、キリストが十字架上で私たちの真の罪を負ってくださったのだということを決して忘れてはならないということです(第一ペテロ2章24節)。神は、私たちの悔い改める心(すなわち、告白した罪を罪深いものと認める正直で正当な告白; 詩篇51篇17節; イザヤ57章15-16節; 66章2節参照)を期待しておられます。 しかし、神にとって重要なことは私たちの感情ではなく、キリストの十字架上の御業であることを理解することが不可欠です。
実際、もし私たちが自分の罪のために感情的に自分を苦しめたり、ある種の懺悔として他の方法で自分を苦しめたりするのであれば、私たちはすべての問題を免れることはないでしょう(エサウとユダを参照)。私たちの罪のために苦しんでくださるほど善良な方はイエス・キリストだけであり、父なる神が受け入れられるのはイエス・キリストの御業だけなのです。 それゆえ、私たちが悔やんだり、罪悪感を抱いたりしても、神の前で私たちの訴えを晴らすことはできないばかりか、神を侮辱する危険性もあります。というのも、私たちが過剰な罪悪感や感情的な自責の念を捏造するとき、それはあたかも「キリストがなさったことは十分ではなかった。だから私は自分の償いをもって神を助けなければならい」というようなものです。
罪に対する正しい態度: 詩篇51篇のダビデの態度は、罪を犯した信仰者にとってとるべき正しいものです。ダビデは神の懲らしめの苦しみの中でひどく傷ついているので、自分の罪を(他の人にではなく)神に認め(認め、告白し)、神に回復を求めています。 ダビデは罪を犯したことをきちんと悔いていますが、重要なことは神のご性質(4節)と神の憐れみ(9節)であり、自分の感情ではないことを認識しています。この[正しい]方法で自分の罪を認める信仰者に対する神の態度は、放蕩息子のたとえ(ルカ15章)に見られます。 まず、息子は父に対する罪を告白します(21節)。 そして、息子は使用人として使われることを望んだにもかかわらず(18-19節)、父親は彼を赦し、喜びと感謝をもって迎え入れ、息子としてのすべての恩恵と特権を与えられます(22-24節)。それと同じように、神は、キリストが私たちの罪のために死んでくださったことに基づいて、私たちが神のもとに戻り、ただ神に罪を認めさえすれば、私たちが何をしても、どんなにひどい思いをしても、寛大に私たちを赦し、回復してくださるのです。
復習:
- 人間一般の苦しみ: これは、アダムとエバの神への不従順によって、全人類が共有する財産です。しかし、イエス・キリストの犠牲によって、御子を救い主として受け入れることによって、全人類が御父の愛の抱擁の中に再び入る道が用意されました。キリストを信じた後、クリスチャンはこの世から追い出されるのではなく、霊的に成長し、神を賛美するために残されているのです。
– 報復ではない苦しみと神の懲らしめ: 私たちは、この悪魔の世界において、成長と祝福のため(そして神をあがめるため)の報復ではない苦しみだけでなく、罪と罪に伴う神の懲らしめから生じる苦しみも必然的に体験します。信仰者は、この二つの苦しみを分けて考える必要があります。罪の告白(第一ヨハネ1章9節に従って、不従順については個人的に神に単純な告白をする祈りをすること)は、即座に赦しときよめと回復をもたらします。一方、報復ではない苦しみは、信仰への挑戦であり、状況がどんなに暗く見えても、神が苦難から救い出してくださると信じる機会です。
– 後のレッスンで考察するように、報復ではない苦しみに対する解決策は、神の力と恵みのうちに休むことです。
– 神の懲罰がもたらす苦しみの解決策は、ただちに罪を告白することです。 罪を告白するとすぐに、その罪は赦され、信者は完全に清められます。 神に罪を告白することによって、私たちは自分の不従順を認めることになります。そして、二度と同じ過ちを犯さないようにと願うのは当然のことですが、罪悪感や「申し訳ない」という感情は神に影響を与えません。神の方針は恵みです。つまり、キリストが十字架上で私たちのためにしてくださったことに基づいて、ご自身の善意から、ご自身の栄光のために、自由に赦してくださるのであって、私たちが懺悔として行おうとする行いに基づいて赦されるのではありません。罪の告白は、クリスチャンの生き方において必要不可欠なものです。すべての信者は、罪を犯します。犯すと同時に、自分の罪を告白しなければなりません: これこそが、赦され、清められ、霊の成長という神の計画の第二段階の主要な使命に再び邁進できる唯一の方法だからです。
それゆえ、告白していない罪や、過去の罪に対する過度の罪悪感が、私たちの行く手を阻むことのないようにしましょう。