聖霊の働き
ペテロの手紙 第7章
ロバート・D・ルギンビル博士著
余談: 苦難の教理の紹介の最後に、神が今日のクリスチャンが耐え忍び、その忍耐を助けてくださる主な方法の一つは、聖霊を通して与えてくださる超自然的な支えによるものであることを述べました。聖霊はイエス・キリストを信じるすべての人の内に住んでおられ(ヨハネ14章16-17節)、聖霊の働きによって、私たちクリスチャンは、霊的成長であれ、個人的な働きであれ、苦しみに耐えることであれ、神が私たちに望んでおられることをすべて行う力を受けるのです。現代のクリスチャンの間では、御霊の働きについて混乱が多いので、私たちのために御霊が働いてくださる正確な性質について考えることは、この時点で役に立つかもしれません。パウロは異端の多いコリントの信徒への手紙第二の3章で、この問題を検証しています。
神の栄光を反映する:
わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 (第二コリント3章1-3節)
パウロはまず、コリント教会がローマ帝国で一般的であった「推薦状」を書くという、世俗的な習慣を利用していることを批判しています。古代ローマで官職に就きたいなら(そして帝国の帝政は、現代の私たちの国よりも、本当に「儲かる」仕事のはるかに大きな割合を占めていました)、良い「手紙」は不可欠でした。
コリントの信徒たちは、他のキリスト教共同体や指導者たちからのそのような手紙(本物であれ偽物であれ)を運ぶ旅回りの詐欺師のオンパレードに騙されていたようです。コリントの信徒たちは、真の使徒たちよりも、比較的無名の「晩餐巡回講演者たち」に、単にその「資格の良さ」という理由だけで感銘を受けるまでに事態は堕落していました。彼らも立派な演説者で、洗練されたセリフや、コリントの人々を楽しませるような美辞麗句を並べ立てていたに違いありません。これは、ペテロとパウロの時代には珍しいことではありませんでした。ルシアヌスのような巡回講演者は、修辞学や哲学の講義をすることで安楽な生計を立てており、最高の娯楽とみなされていました。しかし、パウロはコリントの信徒たちの態度に憤慨しています。彼らは(推薦状から見て取れるように)神の承認よりも人間の承認を重視していたからです!
私たちクリスチャンが救われた後、地上に残され、この世の生活を続けているのは、神に栄光を帰すためです。さて、私たちはこの崇高な仕事をどのように成し遂げればよいのでしょうか?コリントの信徒たちは、「重要な人々」があなたは神に栄光を与えていると言うなら、本当にそうしているのだという印象を持っていました。彼らの誤った考えによれば、神を賛美するためには、どんな「人間的」手段も辞すべきではないということです。それゆえ、私たちは人の承認を求め、自分自身に人の関心を向けさせ、世間が認める活動に精力的に取り組むべきだということです。しかし、パウロは、彼らが間違っていることを率直に告げています。パウロは、自分には「人間的な」成功の印(推薦状)は必要ないと告げています。パウロには、コリントの信徒たち自身によって与えられる神の証明があります。彼らが彼の手紙であり、彼の働きの証明なのです。パウロの「手紙」は、ペンとインクのような物質的なもので書かれたものでも、腐りやすい紙に書かれたものでもなく、聖霊によって読者の心に書かれたものです。パウロの言いたいことがわかるでしょうか。良いクリスチャン生活を送るための真の力は、人間の努力ではなく、神(の聖霊を通して)から来るものであり、クリスチャンの成功の真の印は、人から称えられることではなく、真の霊的な結果にあるのです。
パウロは、コリントの人々をおだてて、すばらしい推薦状を与えることもできでしょう。またパウロは自分のミニストリーを大々的に宣伝し、自分自身に注目させ、広報スタッフを雇うことなどもできたでしょう。しかしパウロは、神の方法はただコリントの信徒たち自身の生活を通して「宣伝」することだと知っていました。彼らの生活こそが、使徒の働きの実を示す、唯一の正当な推薦状だったのです。人々は、主イエス・キリストに従うこの一団を見、彼らの霊的成長と奉仕を見て、「本当に、これは神の御業に違いない」という結論に至るのです。私たちはどのようにして神を賛美するのでしょうか?私たちを通して、主がご自身に栄光を受けられるのです。もし私たちが神に従い続け、霊的に成長し続け、神が私たちに送られる試練に耐え続け、個人的なミニストリーという挑戦に立ち向かうなら、神の力、神の愛、神の栄光は私たちの人生に確かに反映されます。ここでのパウロの言葉は、自分たちがクリスチャンであることを声高に主張することによって、神を讃えようとすることを意味しているのではありません。パウロはコリントの信徒たちに、「この牛車は天国行きです」と書かれたバンパーステッカーを印刷するように言っているのではありません。私はクリスチャンです」と言うだけで、神の栄光が反映されるわけではありません。そうではなく、私たちはクリスチャンらしく生きることによってのみ、神の栄光を完全に映し出すことができるのです。
聖霊の助け:
こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。 (第二コリント3章4-6節)
4節から6節にかけて、パウロはさらに、彼が感じているこの確信は自分の力からではなく、神からきているのだということを指摘しています。パウロは自分の力に頼っているのではなく、神が自分の宣教を力づけるために、すべてを備えておられると語っているのです。同じことが、私たちのクリスチャン生活のすべての面に当てはまります。神がパウロに仕える力を与えてくださったように、神が私たちに求めるすべてのことを行う力を与えてくださいます。その力の直接的な源は聖霊です。聖霊の内住の働きにおいて、私たちクリスチャンは、旧約時代の信者にはなかった特異なものを持っています。パウロは6節で、私たちは「文字によってではなく、御霊によって特徴づけられる」新しい契約の奉仕者であり、「文字(すなわち律法)は殺すが、御霊は命を与える」と言い、このことを強調しています。パウロが言いたいのは、イスラエルのモーセの律法(旧約聖書の最初の五書に記されている)のもとでは、神の言葉は、まだ私たちのために死んでいないキリストを予見し、私たちの罪深さと救い主の必要性を強調していたのに対し、新しい契約(私たちの主イエス・キリストの歴史的な御姿と御業)のもとでは、神の言葉は、聖霊によってもたらされたキリストにおける私たちの救いと、聖霊によって力を与えられたキリストにおける私たちの新しい人生を強調しているということです(ヨハネ7章39節)。聖霊の内住の働きにおいて、私たちクリスチャンは非常に大きな利点を持っています。パウロはここで、聖霊がなかったら、自分が実際に行っている働きをするために「必要なもの」を持ってはおらず、聖霊によって、それを成し遂げることが「できるようになった」と語っています。
凌駕する聖霊の働きの栄光
もし石に彫りつけた文字による死の[律法の]務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する[律法の]務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきもの(たとえば、信者への御霊の奉仕)は、もっと栄光のあるべきものである。 (第二コリント 3章7-11節)
すべての信者に対する聖霊の新しい働きの栄光に比べれば、旧約の下で現れた栄光はごく小さなものであると言っています(10節)。これは何を意味するのでしょうか。「栄光」とはギリシャ語のドクサdoxaの訳語で、「明るさ、輝き」を意味しますが、「評判、名声」という意味もあります。神を称えるとは、神の御姿と御業の驚くべき輝きを、何らかの形で知らしめる、あるいは見えるようにすることです。パウロが引用した旧約聖書の例では、神はモーセの顔を輝かせることによって、その栄光を世にほんの少し垣間見せました。モーセは40日間、主とともにいて律法を受け、主の栄光がモーセに少し、いわば「こすりついた」のです。この栄光は消えかかっていたので、モーセはイスラエルの民にその終わりが見えないように顔を覆いました。しかし、聖霊によって与えられる神の栄光は永続します。それは、すべてのクリスチャンの内側に燃え、外側に神の栄光を現す輝かしい光です。パウロによれば、この新しい栄光は、その大きさにおいて旧約聖書の奇跡を凌ぎます。聖霊を通して私たちから流れ出る信仰と希望と愛は、どんなあからさまな奇跡よりも明るい星なのです。
神の鏡:
(12)このような、[聖霊の働きによる支えに基づく]望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。(13) モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(14) しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ[ような]覆い[真の栄光を隠すもの]が掛けられたままで、[真理を覆い隠すこの「ベール」が]取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。(15) 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆い[のようなもの]が掛かっています。(16) しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。(17) 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由(すなわち、神のみこころを行う機会と力)があります。(18) 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます(すなわち、もっとキリストのようになっていきます)。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(新改訳Ⅳ 第二コリント3章12-18節)
上記の箇所では、聖霊の働きによって、パウロは「確信」(ギリシャ語で「積極的な希望」を意味するエルピスelpis)を持ち、自分の宣教に邁進するよう励まされています(12節)。旧約では、モーセは顔にベールをかぶらなければなりませんでしたが(13節)、今日の私たちには、はるかに異なる命令が与えられています(18節:13節のアポドシス(結論))。私たちは神の栄光を映し出すように命じられているのです(「主の栄光を映し出す」、注:多くの訳はギリシャ語の分詞カトプトリゾメノイkatoptrizomenoiを「見る」と誤訳していますが、ここで訳されているように、本当は中動態で「映し出す」という意味です)。さて、モーセの顔から放たれた輝かしい光は文字通りの光(上で扱ったドクサの第一の意味)であり、一方、私たちが映し出すよう言われている栄光は神の御姿そのもの(上で扱ったドクサの第二の意味、すなわち神ご自身の名声と評判)です。神の素晴らしい御姿、はかり知れない愛、無垢な真理、私たちはどのようにしてそれを反映できるのでしょうか?パウロは、私たちは「主の御霊によって、栄光から栄光へと、同じ姿に変えられる」ことによって、この仕事を成し遂げなければならないと教えています。「同じ姿」とは、主イエス・キリストの御姿です。本来、私たちはキリストのような存在ではありませんが、「クリスチャン」(文字通りには 「小さなキリストたち」)という名前が意味するように、私たちは日々、主人のようになるよう努力しなければなりません。もし私たちがこの努力をするなら、その結果、「栄光がますます反映され」(「栄光から栄光へ」と訳されたアポ・ドクセス・エイス・ドクサンという慣用句の意味)、私たちが恵みのうちに成長するのを見る人は、(18節の終わりと同じように)この奇跡的な変化の原因は「主の霊によるもの」に違いないと結論せざるを得なくなります。神の栄光を純粋に反映するためには、神の方法で行わなければなりません。変容の真の動力源は、私たち自身の人間的エネルギーではなく、聖霊でなければならなりません。私たち自身が割り込んで関われば関わるほど、他の人たちは私たちの人生という「鏡」を覗き込んだときに、私たちの主であり師であるイエス・キリストを見るのではなく、私たち自身の顔しか見えなくなってしまいます。
結論:
(1)私たちはどのようにして神の道を歩むのでしょうか?まず第一に、私たちは人間のやり方をしないことです。人はインチキな「ハッピートーク」を簡単に見抜くことができます。すべての文章に機械的にクリスチャンらしいフレーズを付け加えたり、内面的なダイナミズムを全く伴わずに「クリスチャンである」ことを外見的に誇示したりするだけでは、せいぜい時間の無駄でしかありません。大まかに言えば、クリスチャンの生き方はいたってシンプルです。キリストを信じれば救われます。ただ、次に来るのは生涯にわたっての、聖なるものへの追求です。霊的成長には、神の真理を一貫して学び、信じ、実践することが必要なのです。霊的成長には、神の真理を学び、信じ、実践し続けることが必要です。そして、神は私たちが霊的に成長するにつれて、試練に直面し、(それぞれの賜物に従って)他の人々に奉仕する機会を与えてくださいます。もし私たちがこの道を歩むなら、必然的に神の恵みと愛をますます反映するようになり、コリントの信徒への手紙第二の3章の命令を果たすことになります。
(2) 聖霊の働きはどのように働くのでしょうか?まず第一に、ゼカリヤ4章6節にあるゼルバベルに対する主の言葉を忘れてはいけません: 「力によらず、権勢によらず、わたしの霊によって」です。私たちは道具でしかありません。神は私たちに非常に正確な行軍命令を与えておられます。そして聖霊が力と成長と結果を与えてくださるのです。エリヤがパニックに陥ってホレブ山に逃げ込んだとき、主はこの同じ教訓を彼に教えようと、エリヤが隠れていた洞窟を通り過ぎるときに、ものすごい強風を起こし、次に地震を起こし、最後に火を起こしました。しかし、その目に見える力にもかかわらず、主はこれらの現象のどの中にもおられませんでした。その後、主は「小さくささやく声」をもたらしましたが、この声に神の御力と御臨在があったのです。私たちを励まし、導き、慰める聖霊のささやきは、目に見える奇跡よりもはるかに力強いものです。もし私たちが実際に神と共に歩み、罪を告白し、霊的に前進するならば、神の御霊は私たちを助けてくださいます。御霊の働きは私たちには見えないかもしれませんが、その効果は明らかです。要するに、私たちが前進しているなら、聖霊が助けてくださいます。聖霊の働きを数値化したり、目で見たり、暑さや寒さを感じるのと同じように感じたりすることはできませんが、だからといって、聖霊の働きが現実的でなくなったり、生命力が弱くなったりすることはありません。これは重要なことです。今日、多くのクリスチャンが、目に見えるものを「感じ、経験したい」という願望のために、疑わしい、さらには異端的な実践に関与しているのですから。私たちはただやってみるだけでよいのであり、御霊が導いてくださるところについていくよう助けてくださいます。
(3)このことは、苦しみに対する私たちの接し方とどのように関係しているのでしょうか?もし私たちが信頼して主に手を伸ばすなら、主の聖霊(慰め手、助け手として私たちに与えられておられる方)は、私たちがどんな試練にも耐えられるよう、本当に助けてくださいます。神が私たちの羊飼いであり、私たちを見守ってくださり、私たちのことを大いに心配してくださっていると本当に信じているのなら、なぜ私たちは不平を言い、信仰が萎えてしまうのでしょうか?私たちが不平を言うのは、傷つくからであり、人間だからです。ダビデの詩篇は、ダビデの主への悲痛な叫びで満ちていますが、ダビデは信仰を失いませんでした。苦しみの中で、彼は神を信じました。主が大きな恵みと憐れみによって救い出してくださることを確信して、主に向かって涙を流したのです。クリスチャンとしての私たちの利点は、私たちを助けてくださる愛に満ちた父に対して、このような信仰、このような確信を持つことです。もし私たちが困難な時にこの信仰の一歩を踏み出すなら、主の聖霊は私たちをも助け、慰めてくださるのです。
[ペテロの手紙#8:神による私たちの選びの結果]に続く