ペテロの手紙シリーズ#16
聖霊のリーダーシップ
ロバート・D・ルギンビル博士著
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霊的成長の復習:
私たちは今、霊的成長という主題について重要な回り道をしている最中です。この学びは、ペテロがすべての信者に神からの恵みと平安が増し加わってほしいと願ったことに端を発しています(第一ペテロ1章2節)。はじめに述べたように、霊的成長こそが、私たちの日常生活においてこの願いを実現するための唯一の手段であり、唯一の道です。神の恵みと愛の力を経験し、真に神に集中しているときに心が満たされる喜びを味わうには、私たちの内なる人が着実に成長することが必要です(エペソ3章16節)。霊的成長は、ペテロが言及している神の祝福が増し加わるための前提条件であり、またその手段でもあります。
しかし、このような祝福を物質的な面だけで考えてはなりません。神が信者に物質的な祝福を決して注がれないというわけではありません(アブラハムやヨセフのことを考えればわかることです)。しかしながら、新約聖書が特に、霊的な進歩に伴う苦難や苦しみを警告しているのも事実です(第一ペテロ4章12-19節)。ですから、霊的な成長に伴う祝福についても、同様に霊的な観点から考えることをお勧めします。これらは、この世での物質的な利益を超越した、霊的成長に伴う祝福です(マタイ6章19-21節):
– キリストを生活の中心に置くことの真の幸福を知る(ピリピ3章8-11節)。
– 私たちが召し出された働きが実り豊かになる(マタイ13章23節; ルカ8章15節)。
– 神が私たちの人生を「よくやった」と認めてくださると期待できる(マタイ25章21節)。
霊的成長の原則: 霊的成長について話し始めた当初、私たちは種まきのたとえ話に多くの時間を費やしました(マタイ13章;マルコ4章;ルカ8章)。神の御言葉の種から芽吹く植物は、私たちと、私たちの信仰と霊的生活を表しています。「根を張る」(実際にイエス・キリストによる救いの信仰を持つ)人は、「実を結ぶ」、つまり神のご計画の中で実りをもたらす前に、成長段階における二つの問題と戦わなければなりません:
- 太陽の熱に耐えられるだけの十分な水分を集めるために、根を深く下ろさなければならないこと(つまり、イエス・キリストを信じるすべての人の人生に訪れる試練の時に耐えられるように、信仰を築くのに十分な真理や「霊的な栄養」を取り込み、信仰によって保持しなければならないこと)。
- 地上における成長を妨げ、実を結ばせないようにする「雑草」を超越しなければなりません(つまり、試練の時に信仰を持ち続けるだけでなく、学んだことを人生に適用することを習得し、地上の心配事や欲望を天の希望に従わせ、人生の重圧にもかかわらず、神が信者一人一人に与えてくださったユニークなわざを忍耐して励むこと)。
人生の試練に打ち勝つには、多くの聖書の「弾薬」が必要です。しかし、人生という絶え間ない嵐を切り抜けるためには、アクセス可能な原則を緊急用に用意するだけでは不十分で、人生に対するまったく新しいアプローチ、まったく新しい考え方が必要なのです。私たちはこのアプローチを「美徳思考」と呼ぶことにします。
美徳思考入門: 私たちがクリスチャンになると、状況は劇的に変わります(第二コリント5章17節)。地上の生涯を通して、私たちはまだ悪魔の世界に住んでいますが、それでも私たちは暗闇の王国から神の国へと救い出されたのです(コロサイ1章13節)。私たちの立場は完全に変わりましたが、次は私たちの考え方も変わらなければなりません。私たちの霊的成長は、私たちが積極的に「霊的な思考によって自らを新たにする」(エペソ4章23節; 詩篇16篇8節、また詩篇全般も参照)ことによって「新しい人」を自分のものにしなくてはなりません。
霊的、あるいは「美徳」的な思考を発達させることは、「やがて聖化」される過程に必要なことなのです(聖化の教理の徹底した解説については、ペテロ#13を参照してください)。これまで見てきたように、「キリストにおける聖化」と 「永遠における聖化」は、神が私たちのために成し遂げてくださる即時的な発展であり、私たちが持続的に努力する必要はありません。しかし、神が聖なる方であるように聖なる者となりなさい(第一ペテロ1章16節)という使命を果たそうとすると、否定的な行動を避けるだけでは済みません。霊的成熟という目標を積極的に追い求めることによって、神のご計画の中で積極的に前進することも必要なのです。使徒パウロは、「私は子供のころは、子供のように考え、理屈をこねていましたが、大人となってからは、子供じみたことをやめました(第一コリント13章11節)」と言っています。私たちが世俗的な生活において、やがて大人として成熟した考え方をしなければならないのと同じように、信者になった後も、霊的に成熟するために、私たちの思考パターンを変えなければならないのです。
人間の性質: すべての人は二つに分かれた性質を持っています。つまり、私たちは皆、肉体と霊から構成されているのです(ヘブル12章9節)<神学用語では、二分説>:
主なる神は土のちりで人(すなわち、アダムの体)を造り、命の息(すなわち、アダムの霊)をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 (創世記 2章7節)
最初の人アダムは、主が土から造られた物質的な部分である体と、主がその体に入れられた非物質的な部分(ここでは「命の息」と呼ばれています)を持っていました。その結果、人は生き物となりました。NIVで「存在」と訳されているのは、ヘブル語のネフェシュ(しばしば「魂」と訳され、ギリシャ語ではサイケpsyche<和訳では「息/魂/霊/命」など>と訳されています)です。神の創造的行為の結果、最初の人は完全な、完璧な、生きた人になったのです。アダムが完全な存在となったのは、物質的な部分を補完する非物質的な生命を与える部分を受け取ってからです。アダムのように、私たちは今、そして復活によって、肉体と霊を持つようになります。しかし、堕落した今の体では、私たちの思考は、霊的な面よりも、周囲の邪悪な世界に自然と引き寄せられるのです(ローマ7章18節)。
心: 人間の思考は、聖書がしばしば「心」と呼ぶもの(すなわち、すべての思考や感情などを含む、人間の内面全体)の産物です。聖書の心理学の体系によると、心は肉体と霊が相互作用する場所であり、私たちの本性の霊的な部分とは厳密に区別される場所です(第一コリント2章12節, 14章14節)。すべては心から始まるのです。箴言23章7節は、「人は心に思うように、そのとおりになる」と述べています。聖書的に言えば、心の状態が「私たちが何者であるか」ということです。私たちが最も重要な霊の戦いを戦うのは、聖書的には感情からまったく切り離された場所ではない、ここ、私たちの「心」なのです。心は神を敬う場所であると同時に、「悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、中傷が起こる」場所でもあります(マタイ15章18-19節)。
ですから、救われる前の私たちの心を支配していた「自然な」思考は、罪の性質が生み出す情欲、欲望、恐れ、その他の感情に大きく影響されていたのです(第一コリント2章14節)。信者である今、私たちはもはや 「自然な<生まれながらの>」(すなわち、私たちの本性の肉的な部分を指向する)存在ではなく、「霊的な」(すなわち、私たちの本性の霊的な部分を指向する:第一コリント2章15節)存在なのです。とはいえ、信者であっても、救われる前に私たちを迷わせた世的な考えへの強力な影響から奇跡的に免れることはできません。救われる前の古い考え方の奴隷状態から解放され、神のために積極的に成長し奉仕する人生へと変革するには、私たちの考え方も変革させる必要があります:
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ(神の目に)全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 (ローマ12章2節)
ここで言われている人生の変革とは、霊的なものであり、古いものから離れて新しいものへと成長することです。それは、私たちの存在の霊的な側面を強調し、私たちを取り囲んでいるこの世的で肉的な思考パターンとはまったく対照的な、新しい、あるいは高潔な思考パターンによってのみ達成されるのです。ですから、私たちは今までとは違った考え方をする必要があるのです。しかし、これは何を意味するのでしょうか?
思考を変える: 信仰者である私たちは、思考を変えるという神から与えられた課題を達成する手段を持っています。この重要な仕事のために神が備えてくださった道具のいくつかを考えてみましょう:
– 私たちには、私たちの成長の糧となる霊的真理を理解するのを助けてくださる聖霊がおられ(第一コリント2章10-16節)、実際、私たちのクリスチャンとしてのすべての行いを力づける方がおられます(第一コリント12章3節)。
– 私たちは祈りによって神に近づき、助けと知恵を求め、神と交わる権利があります(エペソ2章18節)。
– 私たちには、真理の原則を理解し、覚えるための教師や牧師がいます(エペソ4章11-16節; 第二ペテロ1章13節)。
– そして、日々の黙想と教えの源となる神の言葉である聖書があります(詩篇1篇1-3節)。
フル・タイムの美徳思考: しかし、信者として効果的であり、霊的成長という共通の目的を達成するためには、神と過ごす時間だけでなく、常に霊的である必要があります。理想的には、起きている間中、霊的に考え、適切な霊的適用を行う必要があります。私たちは、イエス・キリストへの信仰によって永遠の身分において聖なる者であるように、日々の経験においても聖なる者となるよう求められているのです。このことを達成するのは容易なことではありませんし、個人的な罪と告白による回復について回り路をして広範にわたって示してきたように(ペテロの手紙シリーズ#15参照)、この課題は個人的な罪を避けるだけでは達成できません。そのような目標は完全に達成できるものではありませんが、たとえ達成できたとしても、神はそれ以上のことを私たちに求めておられるのです。
旧約聖書のユダヤ人たちに対して、主は私たちがモーセの律法として知っている「聖さのための」極めて詳細な一連の指示を与えられました。その多くは霊性とは無関係でしたが、異教徒の隣人に対してイスラエルが「分離している」ことを示すためのものでした(レビ20章24-26節)。しかし、私たちはパウロの決定的な教えから、律法を完全に守ることは不可能であり、律法の深い意味は福音のための道具であることを知っています。なぜなら、人間の努力によって完全になることは不可能であり、かえって「律法によって罪の自覚が生じる」(ローマ3章19-20節)ことが、自分に正直なすべての人に明らかになるからです。
クリスチャンとして、また聖霊の偉大な賜物にあずかる者として、私たちに期待されていることは、「律法を守る」という不可能な基準よりもはるかに重大なことなのです。確かに、律法の禁止事項の多くは今でもクリスチャンにとって有効ですが、私たちは一般的に、もはやこのような禁止命令事項のリストに拘束されることはありません。私たちはもはや律法の権威の下にあるのではなく、恵みの権威の下にあり(ローマ6章14-15節)、より偉大なキリストの律法、愛の律法の下にあるのです(マタイ22章37-40節; 第一コリント9章21節; ガラテヤ5章22-23節, 6章2節; ヤコブ2章8節)。私たちの自由は、罪深い放縦のためではなく、義を目的とする従順のために用いられるべきなのです(ローマ6章16-18節)。私たちは、神が与えてくださったこの自由に堅く立ち、私たちの罪深さを示すためだけの律法に再び服従してはなりません(ガラテヤ5章1節)。
つまり、クリスチャンである私たちが霊的に成長し、神から与えられた賜物を用いて神に仕えるという運命を全うするためには、聖書の教えの否定的な点だけに目を向けるのではなく、肯定的な点を最優先しなければならないということです。私たちは毎日起きている間中、神の真理を正しく適用し、クリスチャンとしてあるべき行動をとり、主が私たちに望んでおられることを実行するよう求められています。その命令を実行しようとする過程で、私たちは当然、無数の状況に直面します。だからこそ、否定的な命令の羅列は、重要ではあっても十分ではないのです。だからこそ、霊的に成熟するには、考え方を改める必要があるのです。聖書には、否定的な原則と同じように粘り強く守らなければならない、確固とした肯定的な原則が教えられています。例えば:
– 生活のために働かなければなりません(第二テサロニケ3章10節)
– 家族を養わなければなりません(第一テモテ5章8節)
– 責任ある市民でなければなりません(ローマ13章1-8節)
とはいえ、クリスチャンの真理を日常生活に適用する際の原則は、ほとんどの場合、柔軟性です。柔軟性とは、真理の原則を妥協することではなく、キリスト教的な方法で日常生活に対処するために、神が非常に重要な真理のカテゴリー、すなわちキリスト教の美徳を与えてくださったことを認識することです。
もし私たちが、神が私たちに教える美徳に従って自分の思考パターンを再構築するなら、私たちは本当に「思考の活性化によって変えられ」(ローマ12章2節)、「霊的思考によって自分を新しくする」(エペソ4章23節)道を歩んでいることに気づくでしょう。パウロがガラテヤの信徒への手紙5章で教えているように、これは私たちの古い生活と結びついた思考パターンを拒絶し、新しいもの、つまりクリスチャン的な思考パターン、聖霊に応答し、聖霊によって力を与えられる思考パターンを採用するプロセスなのです:
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 (ガラテヤ書 5章13節)
クリスチャンとして私たちは、神による自由人ですが、その自由は、善悪を問わず好きなことをする完全に独立した代理人として行動することを許可するものではありません。私たちの自由には責任が伴います。罪を犯さないようにするだけでなく、私たちが成長するにつれて仲間のクリスチャンを助ける責任も伴います。パウロは、クリスチャンは否定的なパターンよりも肯定的なパターン(「美徳思考」)を重視しなければならないという点について、キリスト教の第一の徳である愛を例に挙げて説明しています。神が私たちを愛し、私たちのために死ぬためにイエスを遣わされたように、そして私たちの主であるイエスが今も私たちを愛しておられるように、私たちはこの愛を模倣し、この愛を反映させ、この地上での人生の機会を、自分自身を喜ばせるためではなく、他のクリスチャンを助けるために用いるべきなのです:
律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。 (ガラテヤ5章14節)
パウロは、これから述べるように、キリスト教の基本的な徳目である愛から始めています。愛という一つの積極的な徳が完全に正しく果たされれば、律法の目的全体が達成されるのです。もし私たちが、万華鏡のように複雑に絡み合った愛を本当に理解し、常にその愛に思いを馳せることができたなら、聖句で教えられている他のすべての徳は、難なくその場所に収まるでしょう。もし私たちが、自分自身の状況よりも他人の救いと霊的成長を本当に気遣い、それに従って行動するならば、私たちは本当に愛をもって律法を実行することになるでしょう。
徳の考え方では、この原則を聖書にある他のすべての徳に当てはめます。ある視点から見れば、他の徳は、より具体的な状況に合わせて調整された愛の側面だからです。適切に理解され、適用されることによって、徳は私たちの思考の焦点となり、私たちの思考において徳がより強調されるにつれて、人生のさまざまな状況に肯定的な言葉でアプローチする助けとなります。一般的に言えば、私たちが常に正しいことをしていれば、間違ったことをする心配はありません。
正しいことをするためには、まず正しい態度、正しい視点、正しい考え方を持つ必要があります。徳を完全に理解し、完全に受け入れ、絶えず徳に心を置く必要があります。「徳の考え方」とは、「隣人を自分のように愛する」という戒めを果たすための手段です。今、「愛」は非常に多くの領域をカバーしています。しかし、世界の複雑さにキリスト教を適用するためには、物事をもう少し分解し、聖典で扱われているより具体的な美徳の数々や、それらを適切に実行するためのやり方を探求する必要があります。
気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 (ガラテヤ5章15-16節)
ガラテヤの人々は、同胞であるクリスチャンたちに対して、非常に内紛的で、競争的で、敵対的な態度をとっていたようです。彼らは互いに助け合うのではなく、積極的に「ナンバーワンになること」に気を配っていたのです。パウロは、そのような行動の行き着く先は自己破壊であると指摘します。そして、クリスチャンとしての正しい生き方について説明しています。私たちの考え方を聖霊の考え方に合わせ、御言葉を通して聖霊の内なる促しと指示に従うなら、私たちの罪深い性質とその世俗的志向の欲望を実行することはないでしょう。
聖霊は、私たちが喜んで「参加」さえすれば、正しいことを考え、行うのを助けてくださいます。善に従えば、必然的に悪を避けることができます。クリスチャンとして正しい行いをするための「道しるべ」となるのが、信仰、希望、愛といった徳です。私たちは、これらの徳やその他の徳についてもっと理解し、自分の考えをこれらの善い道に向けることを学ぶ必要があります。そうすることで、聖霊がそのプロセスを助けてくださり、また、善い思いから生まれる善い行いを実行できるように助けてくださいます:
なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 (ガラテヤ5章17節)
私たちの現在の肉体の自然な衝動は、その方向性において罪深いものです。しかし、クリスチャンとして、私たちは聖霊の誓約を受けています。私たちの助け手として、聖霊は私たちの内にある罪の衝動に反対してくださいます(ヨハネ14章16節, 16章7節)。しかし、どちらに進むべきかの決断は、まだ私たち自身にあります。私たちは自分が完全にコントロールしていると感じるかもしれませんが、パウロがここで語っているように、私たちは二人の潜在的な指導者のうちの一人に従っているに過ぎません。何があろうとも、私たちはどのような状況においても、御霊を選ぶか、肉を選ぶかのどちらかを選ぶのです。クリスチャンとして私たちが直面する現実的な問題は、この二つの闘争が内面的なものであり、霊と肉が出会う心の戦場で行われ、言葉には表れず、目にも見えないということです。
この二人の主人公を区別するには、善意以上のものが必要です。聖霊は、私たちが心の中に持っている真実を用いて働きます。私たちが聖書を理解し、信じれば信じるほど、聖霊の働きはより効果的になる可能性があります。特に、クリスチャンの美徳を正確に理解し、それに集中すればするほど、聖霊の導きに敏感に反応するようになり、私たちの生活や行動を支配しようとする肉の力に対抗する上で、より効果的な助けを受けることができます:
もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 (ガラテヤ書 5章18節)
御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはありません。私たちが知識と信仰を身につけ、御霊に委ねられた良い思考と行動のパターンに従う習慣を身につければ、律法の制約はもはや適用されません。律法は聖なるものであり、神から出たものですから、無私で、愛に満ち、純粋な行動は、律法に反するものではありえないからです。徳の思考を通して聖霊の思考に自分を合わせることによって、私たちはもはや肉に従うことはありません:
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 (ガラテヤ書 5章19-21節)
興味深いことに、パウロがここで挙げている罪の多くは態度的なものです(これらは美徳の「聖なる」態度と対照的です)。さらに、このリストは意図的に完全ではないことに注意することが重要です。パウロは、私たちの特別な弱さには触れていないかもしれませんが、すべての罪、神への不従順は、「肉に従う」こと、聖霊の助けを利用しないことから生じることを、できるだけはっきりと私たちに知らせるために、「このようなこと」と付け加えています。
上の引用の最後の文もコメントが必要です。罪を犯すことを「習慣とする者」は、神の国に身を置くことはできません。私たちはすでに罪の問題を深く研究し、私たちの誰もが罪のない完全な者ではなく、そのような目標は達成不可能であることを見てきました。この聖句が言っているのは、「罪の報酬は死である」(ローマ6章23節)という聖書の真理です。罪に身を委ねる者は、やがて神から離れ、イエス・キリストへの忠誠を裏切ります(ローマ11章22節)。しかし、聖霊が私たちの心に真理を働かせてくださるときに一貫して従うことによって、私たちはこの罠を避けることができるのです:
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 (ガラテヤ書 5章22-23節)
これらの聖句は、聖書に数多く記されている徳のリストの一つです。このリストは完全なものではなく、先に述べた悪徳や不適切な行為と、徳のある態度や行動を対比させるという文脈の目的を果たすためのものです。パウロはこの二つの記述によって、肉的な行為と霊的な行為との対比を、紛れもなく明確なイメージとして私たちに示しているのです。私たちがこの二つを読むと、一方では卑しさ、他方では霊性という融合体のように見えます。というのも、上記のすべての悪徳と美徳は、私たちの人生を動機づけ、支配する二つの相反する「力の源」、すなわち、善であれば聖霊、悪であれば罪の性質のどちらか一方から流れ出てくるものだからです。
徳の思考は一般論から始まり、具体論へと進みます。罪を犯すために心を砕く必要はなく、ただ「自然にそうなる」のです。しかし、クリスチャンとして生きるためには、それ以上のことが必要です。信者である私たちは、私たちに宿ってくださる聖霊というお方によって、「キリストの心」を持っています(第一コリント2章15-16節)。しかし、聖霊の影響は私たちの心の意欲だけでなく、神の真理に対する理解にも左右されます。クリスチャンの美徳の原則に対する私たちの理解(知識と信念)は、聖霊が私たちのために霊的利益をもたらすために利用する霊的資本です。真理、そしてこの文脈では特に美徳の原則に対する理解は、悪魔の世界を渡り歩く私たちの積極的な努力を増幅する乗数、「優位のメカニズム」です。
上記の箇所から発せられる輝ける善の光は、この箇所に含まれる具体的な指針の観点からも考慮されなければなりません:
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 (ガラテヤ書 5章24-25節)
イエス・キリストを信じることによって、私たちは人生における罪のリーダーシップを拒否し、代わりにイエス・キリストのリーダーシップを受け入れるようになりました。聖霊によって、私たちはイエス・キリストにバプテスマを受け、イエス・キリストと一つの体となりました。イエス・キリストにあって私たちを新しい命へと導いてくださった同じ御霊が、今度は私たちを霊的な前進と成長の道へと導いてくださるのです。霊的に成長し、人生の息が詰まるような心配事から「立ち上がり」、サタンの領域の中で神のために実り豊かになるためには、私たちの心の「戦場」で起こっていることから始まる人生への積極的なアプローチが必要です。聖霊によって力を与えられ、神の御言葉の真理によって絶えず知らされ、リフレッシュされるこのアプローチを、私たちは「美徳の思考」と名付けましたが、次回、さらに詳しく取り上げることにしましょう。
[ペテロシリーズ#17: キリストに倣う に続く]