聖書と個人的経験

<抜粋>

https://www.ichthys.com/mail-Scripture-versus-Personal-Experience.htm

質問 #1:

もう一つ質問があります、ルギンビル博士。最近、友人の一人が神から聞くためのかなり変わった方法を持っていることを知りました。彼の説明によると、心の中でイエスを思い描き、そのイエスに語りかけてもらうのだそうです。だいたいそういうやり方だということです。さらに彼は、イエスがあなたに語ることは必ず御言葉と一致していなければならないともすぐに言いました。ですから、それが彼にとって、イエスが自分に語っていると彼が理解する内容を判断する基準になっているのだと思います。

これに反対する聖句や原則を私は知りませんが、このことを聞いたときの私の最初の直感的反応は否定的なものでした。これは神から聞く方法として賢明でも安全でもないように感じます。友人は、この実践には中東的な感覚があり、この方法は西洋人にはとても異質に感じられるとも言っていましたが、その点については私もすぐに同意しました。私にはこの方法はうまくいかないと思います。なぜなら、それは自分の心の中のことなので、私にはイエスに自分の望むことを何でも言わせてしまう力がありすぎるからです。しかし彼にはうまくいっているようです。この方法に反対する聖句や原則はあるでしょうか。

回答 #1:

私はこのような話をこれまで聞いたことがありません。しかし、神について考えているときに、神が自分に何か語っていると想像してしまうという経験は、私たち誰もがしたことがあるのではないかと思います。あなたが非常に鋭く指摘しているように、そのようなことをするとき、それは実際には神が語っているのではなく、私たち自身が語っているのです。神から直接聞くことができたなら、それはすばらしいことでしょう。そしてその場合、私たちは絶対に「神の言われたことを行わなければならない」でしょう(もっとも、私たちは神の言葉がすでに書き記されているにもかかわらず、神からのこの明確な伝達に対してさえ、あるべきほどには従えていないのが実際ですが)。

実際にはもちろん、神がどのように、またいつ私たちに語られるかを決めるのは神ご自身です。そして、へブル書に書かれているように、「この終りの時には御子によってわたしたちに語られた」のであり、それ以前には、受肉以前の時代において、「むかしは、神は、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた」のです(へブル1章1-2節)。したがって、イエスこそがメッセージそのものです。そしてイエスは「神の言」であります(黙示録19章13節)。私たちは今、生ける御言葉である方についての書き記された御言葉全体を持っています。そして今私たちが注意を向けるべき場所はそこ、すなわち聖書の真理です。しかも私たちはそれを確かに行うことができます。なぜなら、私たちは皆聖書を持っているだけでなく、教会にはそれを明らかにしてくれる教師たちが備えられており、さらに私たちは皆、啓示のために私達の内に住まわれる聖霊を持っているからです。そして聖霊は「キリストの思い」そのものです。

主の思いを知って、主を教えうる者があろうか。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。(第一コリント2章16節; 参照.12-13節

ご存じかもしれませんが、私は古典的に構成されたディスペンセーショナリズム(時代区分説)についていくつか問題を感じています。それは、その支持者たちに対して私が敵意を抱いているからではなく、彼らが誤解していると考えるからです。聖書的に言えば、ディスペンセーションとは真理の分配(ディスペンシング)のことです。そしてこの観点から見た場合、各ディスペンセーション体制の主な違いは、神がご自身の真理をどのような方法で分配することを選ばれたかという点にあります(リンク参照:Dispensations)。教会において、使徒たちの時代の後は、その方法は聖書の学びと教えです。それは奇跡的活動ではありません(リンク参照:Are miraculous gifts still functional today?)。聖書がまだどのような形でも存在していなかった時代に、たとえばエノクに神が直接語られたことは、確かに理にかなっています。しかし、もし神が今日、言葉によって直接信者に語っておられるのであれば、それは聖書の権威を損なうことにならないでしょうか。また、すべての牧師教師の権威をも、さらにはこの特別な人物以外の誰かが私たちに語る、あるいは語ってきたすべてのことをも損なうことにならないでしょうか。なぜなら、その特別な経路を持つ人は、結局のところ神から直接それを受け取ることになるからです。しかし主は理由があって教会を建てられました。そして、真理を学ぶために私たちが互いに与え合う助けは、私たちが取り組むべきことの非常に大きな部分です。この奉仕は、私たちの永遠の報いの基礎の大きな部分でもあります。もし直接の経路があるなら、私たちは互いをほとんど必要としなくなるでしょう。

もっとも、もし神が直接語っておられるのであれば、私たちは神がなさることを受け入れるでしょう。しかし私が言いたいのは、聖書はすべての否定事項、すなわち真実ではないすべての事柄の完全な一覧を与えているわけではないということです(もしそうであれば、聖書はオックスフォード英語辞典よりもはるかに大きな書物にならなければならないでしょう)。しかし聖書は、何が正しいかを示す十分以上の積極的な導きを私たちに与えています。したがって、それと比較することによって、何が間違っている可能性があるかを容易に判断することができます。私が言うように、新約聖書全体の調子と性格、そして教会の構造全体は、一つの特定の方法で物事を行うことに焦点を当てています(もっとも、聖書の真理を第一に置くというその導きに実際に従っている人は非常に少ないのですが)。ですから、誰かが「別の方法がある」と言うとき、その人の側が自分の主張が聖書から見て正しいことを示す責任を負うのであって、その逆ではありません。そして一般的に言って、奇跡的な事柄については、それが聖書に明らかに反していない限り、私は静観する傾向があります。たとえば、「神が私に罪を犯すなと言われた」—「それは聖書からも同じことを受け取っているので、あなたと議論する必要はありません」。しかし、たとえば、「神があなたは私と結婚しなければならないと言われた」—「それについては、まず聖書を確認させてください」となります。

クリスチャンが、聖書を読むこと、聖書の真理を学ぶこと、永遠の報いを求めてその真理を自分の生活に適用すること、そして他の人々も同じことを行えるように助ける奉仕のために備え、また実際に奉仕することに、非常に集中した取り組みをしていない場合、彼らは停滞し、やがて必ず何か「面白いこと」に流れていくように見えます。残念ながら、それが自分自身や他の誰かが娯楽のため、あるいはそれ以上に悪い理由で作り出したものであり、聖書的根拠がなく、霊的な落とし穴を生み出す可能性があるものであるなら、その道の先には問題が待っています。落とし穴を避ける最善の方法は、狭いまっすぐな道を歩き続けることです。私たちが立ち止まり、座り込み、退屈して、道をそれて歩き始めるとき、問題が始まります。

トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ14章5-6節)

正しい道を進むとは、イエスに従うことを意味します。そしてそうするための唯一確かな方法は、主の御言葉の真理によるのです。シオンへの道を示してくださった方、私たちの愛する主であり救い主イエス・キリストにあって。

ボブ・L

質問 #2:

迅速なお返事をありがとうございます。メールアドレスを持っているだけの人にもあなたの知的能力を貸してくださることを、本当にありがたく思っています。

このすべてのことの中で、「静かな細い声」がどこに当てはまるのかが気になります。私は、神は静かな細い声によって私たちに語り、その声によって導かれることができるのだと思っていました。もし私の理解が正しいと仮定して、あえて反対の立場から言うなら、静かな細い声と、心の中でイエスが語るのを聞くことの違いは何でしょうか。もしかすると同じものではないでしょうか。静かな細い声は私たちに聖書の言葉だけを語るのでしょうか。それとも聖書に書かれていないことを語ることもあるのでしょうか。神は聖書に書かれていないことについても私たちを導いたり、何かをするように言われたりすることはないのでしょうか。たとえば、神が誰かに何かについて警告されるような場合などです。

回答 #2:

「静かな細い声」という言葉は列王記上19章12節からの引用であり、私の考えでは、それは聖霊の交わりと導きに当てはめられます。その文脈において、エリヤはその声から何か具体的な「言葉の内容」を聞かされたわけではありません。むしろ彼は、自分の外套で身を覆い、その応答として洞穴の入口に立ちました。その後、主ご自身が直接彼に語られます。その声は小さくも静かでもなく、また解釈が難しいものでもなく、はっきりと聞こえる、明白で疑いのないものでした。

聖霊は私たちを導き、また教えられます。しかしそれは、私たちに聞こえる言葉によって語りかけることによってではありません。聖霊が私たちを導くために用いられる手段は、

① 聖霊の働きによって聞き、理解し、信じられ、私たちの心の中に宿っている御言葉の真理です(リンク参照:Epignosis, Christian Epistemology, and Spiritual Growth)。

② 私たちの良心です(リンク参照: in BB 3B “The Conscience”)。

(15) しかし、互にかみ合い、食い合っているなら、互に滅ぼされてしまわないように気をつけなさい。(16) わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。(17) なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、御霊は肉に反するからである。この二つは互に対立しているので、あなたがたは自分のしたいと思うことができない。(18) もし御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいない。(19) 肉の働きは明らかである。すなわち、不品行、汚れ、好色、(20) 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、(21) 酔酒、宴楽、その他これに類することである。わたしは以前にも言ったように、今も前もって言っておくが、こういうことを行う者は神の国をつぐことがない。(22) しかし御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、(23) 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。(24) キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をその情と欲と共に十字架につけたのである。(25) もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。(ガラテヤ5章15-25節)

聖霊の導きについてここで付け加えるべき重要な点があります。もし私たちの良心が私たちを責めている場合、あるいはそれが良心なのかどうか確信が持てない場合でも、私たちは聖書を調べることによって、自分が本当に間違っているのかどうかを容易に確かめることができます。もし本当に間違っているなら、私たちが感じるその痛みは、聖霊が良心を通して私たちを促しているものです。しかしもしそうでないなら、それは以前の生活様式から心の中に残っている残骸を利用して、悪魔が私たちの罪悪感を操っているだけかもしれません。聖霊の働きは広い主題であり、次の「バイブル・ベーシックス」の巻(すなわち聖霊論)で扱われる予定です。ここで言えることは、すべてのクリスチャンは、真理に応答する良心を通して神が私たちを「促される」という意味で、神が自分に語っておられることを経験しているということです。それは聖霊の働きです。それは明白で力強く、奇跡的です。…しかし、それは聞こえる声ではありません。

BB5(聖書の基礎第五)が利用できるようになるまで、次の資料を参照することをお勧めします。

ペテロ・シリーズ#7:聖霊の働き

良心(BB3B)

「わたしたちのうちに住む御霊は、ねたむほどに慕っておられる」―ヤコブ4章5節の説明と聖霊の働きの他の側面

霊的成長における聖霊の役割

聖霊:聖霊に対する冒瀆、抑制の働き、そして性別

これらのことについて、いつでも遠慮なくまた書いてください。

私たちの愛する主イエス・キリストにあって。

ボブ・L

ディスペンセーション、教会、携挙、そして宇宙の滅び

 <抜粋>

https://ichthys.com/mail-Dispensations-Church.htm

質問 #1:

ロバート先生、こんにちは。モーリス・ロイドやチャールズ・H・ウェルチという人物をご存じでしょうか。もしご存じであれば、教会は使徒行伝28章28節の後に始まったという考えに同意されますか。また、これはエペソ書、コロサイ書、ピリピ書、第一・第二テモテ、そしてテトスにおいて使徒パウロに啓示されるまで神のうちに隠されていた「奥義」だという主張です。これらは「獄中書簡」であり、今日の教会に関わるものは実際にはこれらであるというのです。

私は、このことを教えている教師の中にはギャップ理論を強く支持している人がいることにも気づきました。モーリス・ロイドは非常に高齢か、あるいはすでに亡くなっているのかもしれません(彼は非常に率直で驚くほど要点を突く人物だと感じました)。彼はこの理論を完全には退けてはいなかったと思います。C・H・ウェルチはこれを全面的に支持しており、このディスペンセーションを教える他の教師たちも同様です。

これは読みやすい内容ではなく、正直言って私は完全に混乱してしまいました……。私は以前から、既存の教派が正しくなく、真理を宣べ伝えていないことを長い間感じてきました。ですから、これらの人々の聖書を区分して理解する方法には確かに理にかなう部分があります。しかし、それが正しいとは限りません。彼らの地獄理解は奇妙に感じられますが、彼らがどこからそのような考えに至ったのかは理解できます。イエスご自身が地獄について言及されたいくつかの重要な聖句では、それが単なる墓ではなく「場所」であるかのように語られているからです。

また、ディスペンセーション主義が読みやすく理解しやすい部分もあると思います。しかしその教理は私には混乱を感じさせます(混乱は神から来るものではありません)。そして聖書を区分するという教理は非常に急進的です。このことについて先生がどのようにお考えなのか、ぜひ知りたいと思っています。先生は聖書研究の中で必ずこれに触れておられるはずだと思いますし、先生の教えも聖書を正しく区分することに関わっているはずです。ですから、この問題は先生にとって新しいものではないと思っています。

私は挑戦されること自体は構いません(先生の文章は私に挑戦を与えます)。しかし混乱させられることは苦手です。

主のすばらしい御名にあって。

回答 #1:

あなたが挙げたこの二人の人物について、私は正直なところよく知りません(したがって、彼らが天や地獄について何を教えているのかについてのあなたの懸念についても、詳しくは分かりません)。私は福音派の世界で流行しているさまざまな潮流を深く追いかけているわけではなく、むしろ自分の研究に集中する傾向があります。

さて、ご質問についてですが、教会というものは非常にしばしば、むしろ多くの場合誤解されています。実際のところ、教会はアダムとエバから始まっています(私たちは皆、主が再び来られるとき、主に会うためによみがえるからです。参照:「来たる艱難期第 5部:小羊の花嫁の復活」)。しかし、現在の時代を「教会時代」と呼ぶことは正しいことです。なぜなら、この二千年(すでに終わりに急速に近づいています)は、キリストのからだに異邦人が大量に加えられる時代だからです(おそらく使徒行伝28章から始めようとする理由はここにあるのでしょう)。それは主の会衆、すなわち教会が満たされていく過程であり、この過程は私たちの時代における聖霊の特別な働きによって大きく助けられ、また加速されています。この点のゆえに、多くの保守的神学者は教会の始まりを使徒行伝のペンテコステに置いてきました。恵みの新しいディスペンセーションの始まりとしてそれを見ること自体は問題ありません。しかし私がその見方に対して主に問題と感じるのは、それが「教会」と「イスラエル」を対立させてしまう点です。実際、多くのクリスチャンは、この二つが同じキリストのからだ、同じキリストの花嫁の一部であると知れば、おそらく驚くでしょう。しかしよく考えてみれば、パウロ(ユダヤ人)やイエス(人としてユダヤ人)が「イスラエルに属していない」と考えることの方が、むしろはるかに不合理です。そしてもちろん、すべての使徒と、すべての聖書記者はユダヤ人でした(私の見解ではルカも含まれます。ローマ16章21節では「ルキオ」という形がルカの別形と考えられます)。まだ続けることもできますが、要するに、使徒たちの時代に始まったのは、神の恵みを「分配する」特定の方法において劇的に新しい時代が始まったということです。そして救いの計画が、実際の実践において、非常に広く異邦人に開かれたことです(原則として言えば、神の救いはこれまでも望むすべての人に開かれていましたし、人類の歴史が続く限りそうであり続けます)。

もう一つの大きな変化は、影から実体への移行です。イエスが肉となって来られ、今や私たちは主を直接理解することができるからです(その結果、律法の影の儀式は不要となり、それどころか、それを続けることはイエスの犠牲が本当ではなかったか、あるいは不十分であったかのように示唆するため、神にとって受け入れがたいものになります。これを説明することがへブル書の主な目的です)。

そして「奥義」というもう一つの重要な点もあります。これらを正しく理解する上での大きな問題の一つですが、それは、メシヤが肉において来られ、贖いが主によって成し遂げられた結果として、神が今や信者の共同体をイスラエルの外へ大きく広げられるという事実にあります。およそ二千年にわたり、異邦人のかたくなさの海の中に孤立したユダヤ人の残りの民が存在していたことを考えるなら、これは実に予想外の展開でした(もっとも、ヤコブも認めたように預言的な前兆がなかったわけではありません。使徒行伝15章13節以下)。したがって、キリストが「私たちのうちに」おられるという現実、しかも私たちが異邦人であるにもかかわらずそうであるということが、教会の予想外で、そして十分に理解されていない「奥義」なのです。すなわち、キリストのからだにおける救いの特権が、主がこの世に来て十字架で死なれる以前には想像もできなかったほどの民族と人数に広げられたということです。しかし、ユダヤ人の信者も存在しており、これからも存在し続けます。したがって、ここで起こっているのは種類の根本的な変化ではなく、割合の一時的な逆転なのです。

さらなる情報については、次のリンクを参照してください。

イスラエルの独自性

教会

奥義

花嫁

上で触れたことですが、さらに少し説明が必要かもしれない点として、あなたが挙げたディスペンセーションの問題があります。もしディスペンセーションをそこに属する人々の観点から見るなら、あなたが述べた使徒行伝28章の「わたしは異邦人のところへ行く」というような理解にも、ある程度の論理的意味があるように見えるでしょう。しかし、これはまた広く誤解され誤用されている教理でもあります。スコフィールドと、それに続く多くの立派なクリスチャン教師たちは、ディスペンセーションの重要性をやや強調しすぎました。そしてそのことが、聖書が実際には決してしていない方法で教会とイスラエルを分離してしまうという問題に一部寄与しています。私たちは皆「真のイスラエル」であり、真のイスラエルとは私たちのことです。

厳密に聖書的な観点から言えば、ディスペンセーションとは、神がご自身の恵みを分配するために用いられる手段によって定義される期間のことです。したがって、イスラエルのディスペンセーションと教会のディスペンセーションの違いは、その時代に救われた人々と今救われる人々の間に永遠的な違いがあるということではなく、むしろ神の真理がどのように伝えられたかという方法の違いにあります。イスラエルにおいては、律法とその象徴、そして預言の賜物が真理を教える役割を担っていました。教会においては、完成した聖書と、強められた聖霊の内住の働きが霊的養いを与えます。しかし鍵となるのは、オイコノミア(οἰκονομία/oikonomía)、すなわち「ディスペンセーション」という語に見いだされます(エペソ1章10節, 3章2節, 9節; コロサイ1章25節; 第一テモテ1章4節)。たとえばパウロは、自分がディアコノス(διάκονος/diákonos)、すなわち管理人であると言っています(コロサイ1章25節)。これはオイコノモス(οἰκονόμος/oikonómos)という言葉の同義語であり、オイコノミアに近い語で、神の真理を分配する者を指す言葉です(第一コリント4章1節; テトス1章7節; 第一ペテロ4章10節)。ここには「経済」(つまりギリシヤ語では家の管理、ここでは神の家、「わたしたちはその家である」)という言葉の語源を見ることができます。また後者には「執事」という言葉の語源を見ることができます(ギリシヤ語では家で仕えるしもべのことです)。ここで描かれているイメージは、神の家が物質的な食物ではなく霊的な食物によって養われるというものであり、その供給の手段と方法が、イスラエルの時代の前、イスラエルの時代、そしてその後で異なるということです。私が強調したい重要な点は、聖書がディスペンセーションという観点でイスラエルと教会を区別するとき、その区別は養われる人々の違いではなく、救いと霊的成長に必要な真理を供給する方法の違いにあるということです。次のリンクも参照してください。

人類史における五つのディスペンセーション

ディスペンセーション(来たる艱難期第2部A)

スコフィールド注解聖書

ディスペンセーション、契約、イスラエルと教会 I

ディスペンセーション、契約、イスラエルと教会 II

私たちのすべての必要を備えてくださる、私たちの愛する主イエス・キリストにあって。

ボブ・L