ペテロの手紙シリーズ#13 

聖化 

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ロバート・D・ルギンビル博士著 

復習:  種まきのたとえ(マタイ13章1-9節マルコ4章1-9節ルカ8章4-8節)の中で、私たちは「悪い地」を三つのカテゴリーに分けて学びました。 それは、神の御計画に対する態度が否定的で、霊的成長が阻害されている人々です。この有名なたとえ話で扱われている「信仰の問題」の本質的な三つの種類は次の通りです: 

(1) 信仰の欠如:キリストとそのメッセージは、神の御言葉が入る余地のない固い心によって真っ向から拒絶されます。 

(2) 信仰の喪失:  犠牲があまりにも大きくなると、キリストとそのメッセージは、神のことばが根を下ろすのに十分なほど深く根を張ることを許さない石ころだらけの心によって捨てられます。 

(3) 信仰の制限: この世の悩みや誘惑が優先されるようになると、神のことばが成長し、実を結ぶことを許さないいばらの心によって、キリストとそのメッセージはますます無視されるようになります。 

私たちの心に蒔かれた「種」は神の御言葉であり(ルカ8章11節)、その御言葉に対する私たちの注意、忠誠、応答、従順こそが、私たちの「信仰の芽」の成長を促すのです。そのような信仰は「良い地」であり、自分の人生に対する神のご計画に従うことを約束した信仰者の心の中にのみ花開くのです(第一ペテロ1章7節)。 

神のマスタープラン: 神は私たちをとても愛しておられ、私たちのために尊い御子を犠牲にしてくださいました。御子を信じることによって、私たちが死んで永遠に罪に定められるのではなく、神とともに永遠に生きることができるようにです(ヨハネ3章16節)。 神の恵み深い救いの申し出を受け取るために、私たちは神の御心に従わなければなりません: 

– (1) 私たちは何よりもまず、御子を信じ、イエス・キリストを信じる者にならなければなりません。 

– (2)一度信じたら、この世で生きている間、キリストに従うことが神のご計画です。 

– (3) この世が終わると、神は私たちのために素晴らしい永遠をすでに用意しておられます。 

すでにキリストを信じている私たちにとって、その第一段階(救い)はすでに達成され、その第三段階(永遠)は神の良い時に訪れます。 今、私たちの前にある課題は、私たちがまだこの地上に生きている間に、どのように私たちの主に従うのが最善なのか、すべての信者のための神のマスタープランの第二段階において、どのように私たちの注意とエネルギーを集中させるのが最善なのかということです。 

神の御計画の目的である聖化:  神のご計画の三つの段階それぞれにおいて、私たちに対する神の目的は、神が聖なる方であるように「聖なる者」となることです(第一ペテロ1章16節レビ記11章44-45節)。神のご計画の各段階において、私たちが「聖なる者となる」プロセスは聖化と呼ばれます(ヨハネ17章17節17章19節)。 「聖別する」(ギリシャ語 ハギアゾhagiazo: ἁγιάζω)とは、「神聖なものにする」、すなわち、何か(この場合はわたしたち)を世俗の領域から取り除いて神の領域に移すことを意味します。 聖化とは、神が私たちを、神と御子と共に永遠に生きるにふさわしい人間に造り変えることです。神のご計画の各部分において、神は私たちを清められます。 第一段階(救い)では、神は私たちの名を清め、私たちがもはや天からの告発を受けないようにしてくださいます(コロサイ2章14節)。 第三段階(永遠)では、私たちに新しいからだを与え(第二コリント5章1-10節)、現在のからだに宿る罪の性質から解放されます(ローマ7章17節)。 第二段階(時間)では、神は私たちに、(神の力と恵みによって)私たち自身を、神の栄光と憐れみを反映する人間に変える機会と責任を与えてくださいます(ローマ12章2節第二コリント3章18節エペソ4章22-24節)。 

1. キリストにおける聖化:  イエス・キリストを信じた時、私たちは「聖別」されました(1コリント6章11節)。 これは、神の書物の中で、私たちの名前が「不敬虔な」部類から「聖なる」部類に移されたことを意味します。私たちがクリスチャンになった時点から、神はもはや私たちを罪深い神の怒りの対象としてではなく(ローマ1章18節)、神の愛の対象として見ておられるのです(ローマ8章39節)。神は今、私たちを正式に「聖なる者」と宣言されたのです。 また、この聖化という行為は、神の神性を損なうものではありません: イエス・キリストは、私たちのために十字架上で死なれたことによって、私たちの聖化の代価をすべて支払ってくださったのです。 私たちが享受しているこの特権的な地位は、私たちの努力の結果ではないことにも注目してください。 救われる前の私たちがどのような人間であったかは、現在の私たちの「聖なる」地位には何の影響も及ぼしません。 私たちはイエス・キリストの聖なる「立場」を共有するのです。 私たちのためにキリストがなさったことを受け入れることによって、キリストと自分を同一視することによって、私たちは、私たちの側では何の働きも功績もないにもかかわらず、神の目から見て「聖なる者とされる」という恩恵を受けるのです。 

2.  永遠における聖化 :  この聖化の最後の段階も、同様に完全に神の御業です。 この世を去った後、私たちは「もう悲しみも涙も労苦もない」(黙示録21章4節)不思議な永遠の世界に入ります。 復活のとき、私たちの現在の体は、新しい、永遠の、朽ちることのない体に変えられ、名実ともに真に聖なる体となります(ピリピ3章21節)。 私たちはそのときから、聖さを汚し、神から自分を遠ざけるような罪や不従順な行為はできなくなります(黙示録21章27節第一コリント15章35-57節)。ですから、救いの時も、復活の時も、新しい聖なる状態への変容(聖化)は瞬間的なものであり、私たちの努力は必要ありません。 

3. 時間的な聖化: 私たちは(キリストの御業に基づく神の判決において)「聖なる者」とされ、(復活の時に罪のない体を受けることによって)「聖なる者」とされるのであり、私たちが今、この世で「聖なる者」となることは神のさらなる御心なのです(ローマ6章19-22節エペソ5章26節第一テサロニケ4章3節ヘブル12章14節第一ペテロ1章15-16節第一ヨハネ3章3節黙示録22章11節)。私たちがクリスチャンになったとき、すぐに完全な人になったわけではありません。私たちは、キリストにある新しい人生に、あらゆる欠点を抱えた罪深い性質を持ち込んでいます(ローマ7章17節)。クリスチャンとしての今の私たちの課題は、変わることです。私たちが救われてこの地上にとどまるのは、この変容を完成させることによって神を讃えるためであり、その変容は、世が私たちの中に神の栄光が映っているのを見ずにはいられないほど驚くべきものです(第二コリント3章18節ピリピ2章15節)。 私たちがここにいるのは、神が救いのときに私たちのうちに始められ、永遠に完成される「聖さを完成させる」ためなのです: 

愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろう<聖さを全うしよう-新改訳Ⅳ>ではないか。 (第二コリント7章1節

私たちの心を聖別すること: 

「聖くなる」とはどういうことなのでしょうか。また、罪深い人間である私たちは、どのようにして「聖別される」のでしょうか。私たちはまず、聖さとは何でないかを認識することから始める必要があります。 例えば、外見上、聖く見えるだけでは真の聖さとは言えません。 イエスはパリサイ派の人々を「白く塗られた墓」に例えられました。外見は清く聖なるように見えても、内面は汚く腐敗していたからです(マタイ23章27節第二テモテ3章5節も参照)。 単に服装や言葉遣い、他人に対する態度を変えるだけでは、神の目に私たちを聖別するには不十分です(コロサイ2章23節参照)。 結局のところ、見かけは人を欺くものなのです。 平均的な能力を持った「詐欺師」が教会に入り込み、数週間のうちに、その群れの中で最も霊的な羊であるかのように見えることがありますが、実際には、他の羊から金を巻き上げるために来ただけなのです。霊的指導者のように見えても、実はサタンのしもべである人々について使徒パウロは、警告しています。 悪魔でさえ「光の天使」の仮面をかぶっているのですから(第二コリント11章13-15節)。 

ですから、経験的な聖化(信者がやがて達成する「聖さ」)は確かに人の行動を変えますが、(たとえ動機が純粋であったとしても)表面的、外見的な行動の変化が聖さを生み出すものではありません! 真の聖化は内側からしか起こりません。 私たちの心の思いと意図に真の変化をもたらすことによってのみ、真の聖化は達成されるのです(第二コリント4章16節ローマ6章4-11節12章2節)。 「人は自らその内で考えるとおりの人間だ…」(箴言23章7節英文直訳)。 クリスチャン生活の戦いの場は、個々の信者の心の中にあります(第二コリント10章4-5節)。 私たちの心の思考を清めることによってのみ、「古い私たち」は「新しい私たち」に取って代わられるのです(エペソ4章22-24節)。 この「新しい人」は、神についての「まことの知識によって私たちの心を新たにする」(コロサイ3章10-11節)ことによって、つまり霊的成長のプロセスによって<新しい人を>「着る」のです。 

聖化の手段:この世で聖潔に至る唯一の道は霊的成長です。私たちが求める真の内面の変化は、信仰と神の御言葉を結びつけることによってのみ達成されます(第二ペテロ3章18節)。クリスチャンとして、私たちがこの世に「いる」のは事実ですが、この世「のもの」ではありません(ヨハネ17章14-16節)。ですから、私たちはこの世の聖化手段ではなく、神の聖化手段に従わなければなりません。主は十字架につけられる前夜、私たちの聖化のために祈られました:  「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネ17章17-19節)。神の御言葉に含まれる真理なしには、私たちは真に聖なる者となることはできません(エペソ5章26-27節)。 真理を信じ、真理によって生きなければ、真理から本当に益を得ることはできません(ヘブル4章2節)。種まきのたとえでは、「信仰の芽」が育つことができたのは、神の御言葉に喜んで応えようとする心の肥沃な土の場合だけでした。 神は私たちに御言葉を与えてくださいました。 私たちが喜んで神の御言葉に耳を傾け、神の御言葉に生きようとするならば、霊的成長を通して聖化する手段は私たち皆に与えられているのです。 

霊的成長のプロセス:  最も基本的な形で述べると、霊的成長は四つのステップに分けることができます。 成長するためには   

                1. 神の御言葉に耳を傾けること。 

                2. 信じる  

                3.それを実践します。 

                4. 他の人が同じようにするのを助ける 

理論的には簡単なことですが、成長のプロセスは自動的ではないので難しいものです。成長には私たちの意志の協力が必要です。そのプロセスには、私たちの自由意志が関与しなければなりません。私たちの意図が善良であっても、四つのステップを一貫して良心的に果たすには、それだけでは不十分なことが多いのです。 人間本来の弱さ(マタイ26章41節)、この世の気晴らし(第一ヨハネ2章15-17節ルカ8章14節)、サタンの攻撃的な反対(エペソ6章11-12節ヨブ1章6-11節)はすべて、私たちの活動を妨げると予想されます。 とはいえ、私たちが神のご計画のために前進しようと努力するとき、神はその「意欲」から「実行」に至るまで、あらゆる面で私たちを助けてくださることが聖句によって保証されています(ピリピ2章13節)。 

霊的成長の必要性:   

霊的成長に代わるものはありません。クリスチャン生活で立ち止まることはほとんど不可能であり、立ち止まろうとすることは危険です。ヘブル人への手紙の著者が警告しているのは、「私たちの偉大な救いを離れて漂よう」ことの危険性です(ヘブル2章1-4節)。この人生において、私たちは成長するか、「すたれる」かのどちらかです。聖化を積極的に追い求めることによってのみ、私たちは「信仰の芽」を確実に保つことができるのです(コロサイ1章22-23節ヘブル12章14節)。私たちの魂に「植え付けられた」神の御言葉だけが、私たちの魂を守ることができるのです(ヤコブ1章21節)。 

 ですから、 

– 私たちは、悪魔の世界において警戒を怠らないようにしなければなりません(マタイ24章42節第一テサロニケ5章6節)。  

– 私たちは救いを土台としなければなりません(ピリピ2章12節; 第二ペテロ1章10節)。  

– 私たちは、霊的成長を推し進めなければなりません(ヘブル10章39節)。 

霊的成長のテーマ:   神の聖化計画を達成する唯一の方法は霊的成長です。 霊的成長とは、神の御言葉を学び生きることによって達成されるクリスチャンの内的変容のことで、聖書ではさまざまな方法で表現されていますが、その訴えは常に私たちの自由意志に向けられたものです。 私たちは喜んで変化し、神の方法を喜んで実行しなければなりません。 聖書は、霊的成長の概念を説明し教えるために、霊的成長のプロセスを他のものと比較しながら、さまざまな例えを用いています: 

a. 成長する人: 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 (第一ペテロ2章2節

b.  成長する植物: わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。 (第一コリント3章6節)  

c. 競争を走る: あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。 (第一コリント9章24-25節

d.  戦いのために武具を身に着ける: 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。(エペソ6章11節

e.  建築: 今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。 (使徒20章32節

f. 私たちの歩みを完成させる:主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。 (コロサイ1章10節

g.  確固なものにする:そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。 (1テサロニケ3章13節

h.  成熟する:そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、  (ヘブル6章1節

i.  強くなる:最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。  (エペソ6章10節)  

j. より霊的になる: (淫乱させる)酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊(すなわち、淫乱とは対照的な霊的成長の手段)に満たされて、(すなわち、霊的成長の進歩を遂げなさい) (エペソ5章18節)  

k.  神に近づく: 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。(ヤコブ4章8節) 

l.  霊的変化の遂げる: あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ12章2節)  

これらの箇所や他の箇所は、あらゆる比喩を用いて成長過程の様々な側面を強調しています。 しかし、それらに共通する一つの要素は、上記の例えはすべて、私たちクリスチャンが神の御言葉に現れる神の力によって変わらなければならないことを強調しているということです。 悪魔の世界に生きるクリスチャンとして、私たちの「フルタイムの仕事」は霊的成長であり、霊的変容であり、生活のすべてを聖化することなのです。  

霊的成長のために必要な4つのステップとは、(1)神の御言葉に耳を傾け、学ぶこと、(2)それを信じること、(3)それを生きること、そして(4)他の人々が同じようにするのを助けることです。 成長するためには、私たちは聖書の真理を探し求め、それを自分の心に十分に受け入れ、自分の生活の中で実践し、神が与えてくださったどんな才能をも使って、キリストの教会がこの本質的なプロセスにおいて助けられるように協力する必要があるのです。 

I.  聴くこと:  成長の仕組みを学び始めるにあたり、私たちはこの課題の重要性を忘れてはなりません。成長とは、私たちの信仰を守り、維持し、築き上げる唯一の方法であり、完全に生産的で実りある神の僕となる唯一の方法であり、豊かな永遠の報いを得る唯一の方法なのです。ですから、その成長のために不可欠な糧、すなわち神の御言葉に含まれる真理を探し求めることは、私たちにとってどれほど大切なことでしょうか! 

台所: 神の「台所」とは聖書のことで、成長に必要な霊的な基本的食材がすべて揃っています。私たちが成熟するために必要な真理は、すべて聖書の中にあります。難しいのは、その真理を使える形で取り出すことです。もちろん、自分自身で聖書を読むことによって多くの励ましを得ることができますし、すべてのクリスチャンは、神の御言葉を最も純粋な形で探し求める責任があります。祈りと同様、個人的に聖書を読み、集中することは、霊的成長にとって絶対に欠かせないことです。しかし、そのような聖書の学びですべてが満たされると思い込むような過ちは犯してはなりません。 聖書を読むことは成長に不可欠ですが、教えを受けることの代わりにはなりません。 例えを続けるなら、パンが欲しくて台所に行ったら、小麦粉しかなかったとします! 同じように、聖書には膨大な真理が収められていますが、その多くは「小麦粉」の形で与えられており、「包装済み」ですぐに食べられるようになっているわけではありません。聖霊は、聖書から真理を食事の形で引き出すために、キリストのからだの特定のメンバーに教える賜物を授けておられます(霊的な調理法、エペソ4章11-16節参照)。霊的成長を最大化し、誤った危険な教理的結論から身を守るために、御霊によって賜物を与えられたこのような教師は必要不可欠です。ただし(ギリシャ語、ヘブル語、神学、古代史、教会史などの)適切な準備と訓練を受けており、純粋に私たちの主イエス・キリストに従っている者です。もちろん、この最後の規定は非常に重要なものであり、信者に大きなジレンマをもたらします。というのも、今この瞬間、自らをクリスチャンと称する人の大多数は、不適切な準備、不適切な動機、あるいは単に嘘を教えている個人やグループの教えの権威の下に自らを置いていると言っても、あながち間違いではないからです。しかし、イエス・キリストを信じる真の信者は、もしその人が純粋に、適切な霊的成長を通して神とのより親密な関係を望むなら、真理を根気よく求め、神の恵みによって、「台所に精通する」方法を知っている真の教師を見つけるでしょう。

一読しただけでは聖書のすべてを理解することは難しいので、資格のある教師の必要性は明らかでしょう。一例を挙げれば、新約聖書の書簡は、すでに使徒たちから直接、広範な教えを受けていた信者に宛てられています(第二テモテ2章2節使徒行伝20章7-12節)。これらの書簡がしばしば理解しにくいのは、書簡の中で繰り返し述べられている原則をよく知っている人々に向けて書かれたからです。使徒の教えの恩恵にあずかることなく、異なる時代、異なる文化、異なる言語から来た私たちが、これらの書簡が教えているすべての教理を理解するのは簡単なことではありません。いわば、最初に埋めなければならない「空白」の部分が非常に多いのです。私たちは、その書簡がどのような環境(文化的、言語的、教義的環境)で伝えられたのかを再現しなければなりません。さらに、聖書のどの書物も単独で見ることはできません。神の霊感による私たちへのメッセージ(第二ペテロ1章20-21節)である聖書の各書は、全体を構成する不可欠で自然な部分であり、その教えは、聖書の他の部分全体と合わせて学ぶことによってのみ、正しく理解することができるのです(一人の人間にとって、たとえ一生をかけたとしても、小さな仕事ではありません)。 

霊的な食べ物に飢えている信者が、おやつを求めて神の「台所」をあてもなく覗いているとき、私たちが聖書とその教えを理解するのに、自分たちで「すべての調理」をしなければならないとしたら、気が遠くなるのは当然でしょう。もちろん、神はこの問題を見抜いておられます。イエス・キリストの教会では、完璧な役割分担がなされています。救われた時、聖霊はキリストを信じるすべての人に特定の霊的使命と、それを達成するための「賜物」を与えます(第一コリント12章4-11節)。教会を建て上げるために必要な他のすべての機能とともに、神は「料理人」も備えられました: 

そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 (エペソ4章11-13節

料理人: 第一コリント12章12-31節で、パウロは教会を人間の体に例えています。体のすべての部分がその生命と健康に不可欠であるように、キリストの教会もすべての「メンバー」を必要としています。キリストの「からだ」において、教会が正しく機能するためには、すべての「メンバー」がチームとして共に行動し、それぞれが神から割り当てられた務めを果たしていかなければなりません(第一コリント12章11節)。キリストの体の重要な機能の一つは、個々の信者が霊的に成長する過程を助けることです。そのプロセスの一部には、神の御言葉に含まれる真理の原料から、霊的な食物を「消化できる」形に「調理する」ことが含まれます。聖書が完成し、使徒や預言者という初代教会の役職が機能しなくなった今、「霊的な食事」を準備する責任は、主に牧師・教師にかかっています(エペソ4章11節)。ですから、霊的な食事に必要なものを「買う」とき、信者はこのことを考慮に入れ、真に神によって定められたみことばのミニストリーを探す必要があります。 

これは決して、個々のクリスチャンが自分で聖書を読んだり学んだりする責任がないということではありません。実際、そうしなければなりません(そうでなければ、誤りに完全に陥りやすくなります。)  しかし、世俗生活の多くの重要な分野(健康、法律、金融など)でそうであるように、この霊的生活の最も重要な分野においても、「自分でやる」アプローチは決して補助以上のものにはなりえず、神がお定めになった宣教のシステムの代用品と考えるべきではありません(第一テモテ5章17節ヘブル13章17節)。 神の御言葉を教える際に、他の人の助けを受け入れることは多くの人にとって難しいようです(マタイ13章54-56節ヨハネ6章60節参照)。 しかし、みことばの教えに耳を傾けることは、霊的成長の前提条件であるだけでなく、ヘブル人への手紙の著者が取り上げたエルサレムの信徒たちが経験したような「霊的な後退」を避けるためにも必要なことなのです。この匿名の著者は、御言葉の教えに耳を傾けるために集まることをやめてしまった信徒たちを正すことをテーマにしています(ヘブル10章25節)。霊的な栄養に対する無頓着な態度の結果、彼らは「耳が鈍く」なり、著者が彼らに言うように、「久しい以前からすでに教師となっているはずなのに」 (ヘブル5章11節-6章2節)、クリスチャンの初歩的な原則について再び教えを受ける必要があることに気づいたのです。 さらに、彼らが霊的な食事を怠ったために、神への信仰が損なわれ、最も危険な状態に置かれていたのです(ヘブル10章35-39節)。霊的な成長、いや霊的な安全さえも、この最も必要な「食べ物」を得るために他人の助けを受け入れる謙遜さが必要なのです(詩篇25篇9節使徒行伝18章24-26節)。 

料理人を選ぶ:  今日のアメリカのクリスチャンは、おそらく歴史上のどの信者よりも幅広い選択肢を持っています。教派、教会、準教会組織、独立したミニストリー(そのすべてが「クリスチャン」を名乗っています)がこの国にはあふれています。 このように多くの選択肢があるため、良い聖書の教えを見つけるプロセスは時に複雑なものとなります。さらに、「羊」の中には非常に多くの「狼」がいるという事実は、その過程にも危険がないわけではないことを意味します(マタイ7章15-20節)。偽りの教えに気をつけなさいという聖句が数多くあることを考えると(マタイ24章24節ローマ16章17-18節ヘブル13章9節第二ペテロ2章1-22節ユダ4-13節)、ここでは少し率直なアドバイスが適切だと思われます: 

– まず第一に、神の御言葉の教えが中心となっている教会やミニストリーを探しましょう。み言葉によってのみ信仰は成長するからです。例えば、クリスチャンの交わりの必要を満たすことには長けていても、私たちが信仰において強く成長するために必要な霊的な糧を提供することには弱い組織がたくさんあります。 

– 第二に、このようなニーズを満たす一つの団体にとどまるようにしましょう。 新しい組織や教えの体系に慣れるには時間がかかりますし、聖書研究に対するいいところ取り的な態度で成長することは事実上不可能です。私たちが受ける教えには、ある程度の一貫性が必要です。自分勝手な教義論争が多すぎると、霊的に不健康になります(第二テモテ2章14節)。ですから、自分が良いと思うものを見つけたら、それにとどまって、十分かつ公平に耳を傾けましょう。 

– 第三に、あなた自身の生まれつきの常識が疑わしいと告げるようなグループには関わらないことです。現代の偽りキリスト教界で避けるに値する三つの典型的なパターンが思い浮かびます:  

a.聖書よりも他の書物を重視するグループ:聖書外の書物や教義に含まれる「秘密の知識」という考えには大きな魅力がありますが(この魅力は初代教会のグノーシス主義的な異端にまでさかのぼります)、それが追加の「権威ある」書物(「モルモン書」)であるかどうか、 真の聖典の正典に付加された書物(「聖書外典」)であれ、教師または注解者の著作や教えであれ、それらが解釈すると称する聖典と同じ、またはそれを上回る権威の重みを持ち始めたら、それらを広めるグループとともに避けるべきです。 聖書は私たちの信仰の唯一の真の基準でなければなりません(第二テモテ3章16節)。 

b. 聖書よりもカリスマ的指導者を強調するグループ:  私たちは誰でも、すべてを知っている「特別な」リーダーに従いたいという生来の願望を持っています。 しかし、クリスチャンとして、私たちはイエス・キリストに焦点を当て、それに倣うべきであり、人間の偶像を作るべきではありません(第一コリント3章21節ガラテヤ4章17節)。 

c.聖書よりも宗教的体験を重視するグループ:私たちは皆、神の力が今ここで奇跡的に示されるのを見たいと思っています。 私たちの主と同時代の人々は、主に「しるし」を求め続けませんでしたか? 聖書に書かれているような奇跡が起こったら、どんなに「楽しい」ことでしょう。しかし、人類史のこの時代において、神は完成された御言葉、すなわち聖書を強調することを選ばれました。イエス・キリストが生きておられる御言葉であることを考えれば、聖書が完成し、容易に入手できるようになった今、神が奇跡的な活動(そのような活動がどれほどエキサイティングなものであると私たちが想像しようとも)よりも、生きておられる御言葉に私たちの注意を向けられたことは、まったく理にかなっています。 もちろん、重要な点は、少なくとも今のところ、神は私たちの主や使徒たちにされたような奇跡を行う能力を今のところ認めておられないということです。 この種の奇跡は、私たちの信仰の先駆者たちの権威を確立するという目的を果たしました。 現在、神が行っておられる本当に驚くべき奇跡は、イエス・キリストによって、滅びに定められた罪深い者から生ける神の子へと、私たちが新生によって変えられることです。新しく生まれること、それは奇跡です! 風のように、私たちの新生を見ることはできませんが、その力は本当に莫大です(ヨハネ3章8節)。ですから、私たちが主の栄光の再臨を待ち望むときに耳を傾けるべきことは、しるしや預言や幻や奇跡や異言を語ることではありません。 み言葉を通してイエスに聞くべきです。神の御言葉は、私たちが目で見たり経験したりするどんなものよりも確かなものだからです(第二ペテロ1章16-21節)。 異言や癒し、その他の 「カリスマ」にこだわることは、よく言っても霊的成長の過程から目をそらすことです(マタイ16章4節)。 また、非常に危険です。そのような個人的な宗教的体験を強制的に起こそうとするとき、私たちは自分自身の良心を弱め、そもそも私たちには間違っていると思われた行動が、正常で受け入れられるように見えるようになるのです(エペソ4章17-18節)。 このことによってもたらされる全体的な結果は、私たちを友人や家族、普通のクリスチャン・サークルから孤立させ(これはすべてのカルト活動に共通する特徴です)、すべてのカルトに共通する搾取や操りに対して、私たちをさらに無防備にしてしまうことです。 

まとめ:個人として自分に合った霊的糧のシステムを見つけることは、時に困難なことに思えるかもしれません。しかし、もし神が本当にそのような霊的成長のシステムをお定めになったのであれば、私たちが本当に成長したいと願い、そのために必要な助けを喜んで探せば、神は私たちの霊的成長のためのすべての必要を満たすことのできるメッセンジャー、教師、組織も与えてくださるということを決して忘れてはなりません。 空の鳥や野の百合にさえ与えてくださる愛に満ちた父は、私たちの主イエス・キリストにおいても、私たちのすべての必要を満たしてくださるに違いありません(マタイ6章25-34節ヤコブ1章5節)。 

[ペテロの手紙シリーズ#14:信仰と霊的成長 に続く]