質問と答え

終末に関する事柄-154 その他

Eschatology Issues CLIV

https://ichthys.com/mail-eschatology-issues154.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

からの抜粋翻訳

質問 #1:

こんにちは、先生。あなたとご家族にハッピー・サンクスギビングを願いたくてメールしました!

2026年(患難時代/大患難の開始)ですか?

回答 #1:

ありがとうございます!とても良い感謝祭でした。あなたにも同じように良い日であったことを願っています。2026年についてですが、これは私が「データを精査する」と常に行き着く年です(リンク参照<リンクの邦訳は下記の「質問#11」と「回答#11」を参照のこと>)。しかし、いつも申し上げているように、これは聖書の直接の教えではなく、あくまで「解釈」です。私たちは、主の再臨の前に7年間の艱難期があることは知っていますが、その「いつか」は、さまざまな聖書的データを組み合わせることによってしか導き出せません。

政治的・文化的・社会経済的な状況を見ると、一方では、今の状態がこれ以上長く続けられるとは思えません。しかし他方では、反キリストが登場する条件が整っているようにも見えません。とはいえ、現状がこのまま相当長く続く可能性はあります(もっとも明白な例外は、患難が重ならない場合に7年後ろへずれる可能性で、リンク参照<リンクの邦訳は下記の「質問#23」と「回答#23」を参照下さい>)。また逆に、特に艱難期が始まれば、私たちの理解を超える速さで物事が進展する可能性もあります。ですから、時代のしるしに注意を払うことは正しいのですが、明確な導きは聖書からのみ得られるものです。

いずれにしても、私自身の適用としては、主が私たちをここに置いておられる限り、主が望まれることを続けるべきだということです。たとえ千年残っていようが、あるいはあと一日しか残っていないとしても同じです(ヤコブ4章13-17節参照)。ですので、新しい年に物事がどのように展開するかを見るのは興味深いでしょうが、私たちは自分のなすべきこと(霊的成長・前進・働き)に専念し、全体の大枠は主にお任せすべきです。

https://ichthys.com/mail-eschatology-issues83.htm#2026

ロバート・D・ルギンビル博士著

からの抜粋翻訳

質問 #11:

親愛なる教授先生、

この世で信頼に足るもの、真実であるものはただ一つ、もちろん神の聖なる御言葉だけだと私は感じています。問題は、その御言葉が実際に何を語っているのか、私自身が理解できるかどうかということです。おそらく、私は聖書に直接書かれていることと、仮定に基づく解釈とを十分に区別して注意深く読んでこなかったのだと思います。先生のせいではありません。先生は、2026年を艱難期の開始年とするのは「解釈」であると明確におっしゃっています。しかし私には、すべてが解釈のように感じられるのです。言葉の意味でさえ、言語に精通している人たちの間でも意見が分かれるほど「解釈的」であるように思えるのです。

もう一つの問題は、私は教えられているすべてのことを理解するのがとても難しいということです。私は先生のような教育も語彙力も持っていません。たとえば、「聞け、イスラエルよ。我らの主なる神は唯一である」。先生は、「唯一である」ということは神の無限性を意味し、他のすべては数えられ得るが神だけは「一」である、と教えてくださいました。しかし私は「一」という数字を数えることができますし、そのためこの説明は全く理解できません。それでも私は自分に言い聞かせます。「ボブ先生は理解しておられる。あなたがまだ十分に賢くなくて分からないだけだ。先へ進みなさい」と。学びの中で、あるいはメールを読んでいる時に、後になって理解が明確になってくることもあります。数年間、私はメールの中の質問部分は読まず、先生の回答だけを読んでいました。質問者の考えをうっかり覚えてしまうのを避け、先生の教えだけを心に留めたいと思ったからです。今では以前より自信があります。たくさん学ばせていただいたからです。最初の頃、○○さんや○○さんは、先生の教えをすべて暗記しているほど進んでいるのだと思っていました。しかし、彼らもまた学び続けているのだと気づきました。つまり、私は彼らと話すことは先生と話すのと同じようなものだと思っていたのですが、結局のところ、私の教師になり得るのは先生だけだと分かったのです。先生こそ私が尊敬し信頼している方であり、言語と御言葉の取り扱いについて教育と経験を積み重ねておられるからです。ここに、私の次の問題の可能性が出てきます。

もしかすると、私は先生をあまりに高い位置に置いてしまっているのかもしれません。実際、時にそうしてしまったことを自覚していますし、先生を「落としてしまう」ようなことにはなりたくありません!先生が以前のメールで「私たちは神の御言葉に信頼を置きます」とおっしゃったように、私も御言葉に信頼を置いていますが、同時に私は先生にも信頼を置いています。このバランスをどう取れば良いのか、よく分からないのです。先生が私たちに示してくださった「主の再臨の時期」に関する解釈の理由を学ぶと、私はそれらに納得を覚えます。そして、もしかしたら一年ほど早くなる可能性さえ思うこともあります。実際、昨年の秋から私は、秋の祭りの時期には、主が今後の出来事を告げられることを聞き逃さないよう、より注意深く気を配っていました。

これを書きながら涙が出てきます。私は、先生が何かを言い間違えたことで大きな罪悪感を負わせたいわけではありません。しかし、先生が間違ったとは私は確信してはいません。「私たちは知らない」という言葉と、「絶対的確実性をもっては知らない」という言葉の間には大きな隔たりがあります。先生はご自分の解釈に確信をお持ちだとおっしゃいますが、私はその「確信度」をもう少し知りたいのです。先生は15年債を買われますか?新しい屋根を必要とされるなら、15年耐久の屋根材を買いますか、それとも30年耐久のものを買われますか?

私たちは、神がいつ私たちを召されるか分からないのですから、毎日を最後の日であるかのように生きるべきですが、それでも未来について判断しなければならないことがあります。私の地上での未来は、あと12年(前後)に限られているのでしょうか?それとも他の教師たちが言うように「分からない」というのが正しいのでしょうか?息子と一緒に聖書の学びを始めた時、息子は「もし先生が日付について間違っていたらどうするの?」と私に尋ねました。その時私は、「私たちは聖書をもっと学んだことを決して後悔することはない」と答えました。息子も同意しました。そして私は今でもその答えは正しかったと思っています。ありがとうございます、教授先生。

キリストにあるあなたの友。

イエスにあって。

回答 #11

まず最初に申し上げたいのは、あなたが述べられたことはすべて非常によく考え抜かれており、私はあなたの観察と結論すべてに完全に同意するということです。あなたが抱えておられる核心的な疑問にお答えしようとするならば……

聖書が語っていることは真理です。そして、聖書に直接書かれていないことを私たちが導き出すとき、それは「解釈」です。

聖書の事実:イエスは神である(例:マタイ1章23節; ヨハネ1章18節ローマ9章5節; テトス2章13節; ヘブル1章8節; 第一ヨハネ5章20節)。

聖書の事実:艱難期が起こることを、イエスご自身が語っておられる(マタイ24章21節; マルコ13章19節)。

聖書の事実:患難時代は七年間続き、その後半が大患難である(ダニエル7章25節9章25–27節)。

聖書の事実:千年王国は1,000年間続く(黙示録20章2–7節)。

聖書の事実:異邦人時代とユダヤ人時代は、合わせておよそ4,000年続いた(聖書に基づく計算についてはリンク参照)。

聖書の「解釈」:

教会時代は2,000年続き、これにより人類史全体が7,000年となり、創世記における再創造(re-creation)の七日間と並行する――という考え方です(この解釈についての私の確信度は非常に高いです。というのも、前述の要素に加え、ヘブル人の祭儀暦に含まれる情報とも整合しているからです。ただし、あくまでも「解釈」であり、聖書そのものがこの数字を直接示しているわけではなく、推論によって導かれるということです)。

では、2026年についてはどうか。艱難期がミレニアム(千年期)より前に起こり、復活が艱難期の後に起こる、ということは間違いありません。教会時代とは、「十字架と復活」と「艱難期の開始」の間に挟まれた 奥義の時代(mystery age) です。そしてこの艱難期の開始が、教会時代の2,000年が終わった直後に始まる、と解釈するのは十分に妥当です。

しかし、キリストの十字架と復活の日付については、聖書の証拠と世俗史の証拠を組み合わせて算出しています。前者(聖書の情報)については確信をもって読むことができますが、後者(世俗史)については、当然ながら聖書と同じ絶対的信頼性があるわけではなく、完全に教義的断定を下す性質のものではありません。たとえば、ルカはバプテスマのヨハネの宣教開始の年――すなわちキリストの3年半の地上宣教開始の基準点となる年――を、「ティベリウス皇帝の治世第15年に」(ルカ3章1節)と記しています。これが何を意味するかについては理解しており、世俗史の記録から、それがおよそ 西暦28年8月19日から29年8月18日の間 に該当することもかなり確実です。しかしながら、この確定は聖書からではなく世俗史料に依っているため、聖書と同じ絶対性はありません。

私は、聖書に記されている年代情報と、入手しうる歴史的証拠を丹念に突き合わせ、多くの時間をかけて両者を可能なかぎり整合させる作業を行いました。その結果は、前のリンク(※原文が指す資料)で提示したとおりです。この結論に自信はあるか?はい、あります。しかし同時に、私は自らに対して十分な謙虚さも持っています。この計算は、多数の「可動部分(moving parts)」――つまり推定や歴史資料、聖書以外の情報に依存する要素――の上に構築されているため、2026年という年が、数年前後する可能性は「あり得る」ということも認める必要があります。とはいえ、私はそうなる<数年前後する>とは思っていませんし、そうなると予想もしていません。しかし、主の御前において、私が述べるべきことは述べておく責任があるのです。

「この情報をどう扱うべきか」という点についてですが、私は債券を買ったりはしません(そもそも資金がありません)。私は今のように、主がこの働きに携わることを望んでおられるあいだ、良い状況であれ悪い状況であれ、この地上の目からどう見えるかに関わらず、神の助けによって何とかやりくりして生きていくつもりです。艱難期が来なくても、事態は非常に悪化することがあり得ます。私は第二次世界大戦の研究者でもありますが、当時、多くの人々が(生き延びた者も、そうでない者も)経験した時代や状況を思い返すと、艱難期がそれより酷い状態になるとは、想像することすら難しいほどです。しかしもちろん、艱難期は それ以上に酷いものになるのです。主ご自身が、すでにそのように語っておられます(マタイ24章21節; マルコ13章19節)。とはいえ、第二次世界大戦の世代もまた、しばしば差し迫る危機を予見することができず、多くの人々が数多くの大陸で、すべてを失いました。

要点はこうです。私たちは明日の命すら知らないのであり、15年後の債券が満期を迎えるまで生きるかどうかなど、なおさら分からないということです。ですから、ヤコブが勧めているように、「もし主のみこころなら、私たちは生きて、あれこれしよう」(ヤコブ4章15節)と言う姿勢をもつ必要があります。もし私たちがこの姿勢をもつなら、実際の生活への適用という点において、患難時代が明日起こるのか、100年後に起こるのか、その中間のいつであろうと、実は大きな違いはありません。患難時代が近いという可能性を踏まえて慎重な姿勢をとること(たとえば霊的成長にいっそう力を入れること)は決して悪いことではありません。しかし、今日すべきことが「正しいこと」であるならば、それは患難時代の時期に関わらず、今日すべきことなのです。少なくとも私は、そのように考えています。

私は預言者ではありません。預言の賜物は持っていません。私は、聖霊の助けと、自分に与えられた賜物と、聖書研究の労に基づいて、聖書について理解したことを教えているだけです。聖書が沈黙している部分や、非聖書的資料に基づく部分など、解釈の余地があるところについては、とりわけこの件のように読者が「先走ってしまう」(第二ヨハネ1章9節)可能性がある場合には、私の責任としてその旨を明確にしておく必要があります。

結局のところ、私たちがこの地上で過ごす時間は、ごく短いものです。

ですから、私たちの決断――とくに重大な決断――が、永遠の光のもとで、主に喜ばれ、キリストの裁きの座において良い報告を受け、良い報いを受けるために行われているのであれば、その決断は患難時代の時期がどうであれ、正しい決断 となるでしょう。しかし反対に、もし私たちの関心が自分自身に向けられ、自分の快適さや幸福だけに心を砕いているのであれば、たとえ患難時代の正確な日付を知っていたとしても、私たちの行いは結局 自分中心である ため、その行いは主の御前で焼き尽くされることになるのです。

あなたの温かいお言葉と、真摯な目的をもって書かれたメールを心からありがたく思っています、友よ!また、あなたが真理に対して示しておられる献身には大いに喜びを覚えますが、それらの教えのいずれかがあなたに苦悩を与えてしまったかもしれないと思うと、心が痛みます。どうか遠慮なく、上記のどんな点についてでも再び書いてきてください。

「そのとき私はこう言いました──私たちは聖書をさらに学んだことを決して後悔することはない、と。彼も同意しました。今もその考えは変わりません。」

――アーメン、そしてアーメン!

私たちの祝福された望みであり、その再臨を心から待ち望む主、イエス・キリストにあって。

ボブ・L

<続く>