…味わい知れ…
詩篇34篇8節
25年以上も前に、一般人の神に対する推論的な信仰の形態を指摘したのは、インドのキャノン・ホームズでした。ほとんどの人にとって、神は憶測であって、現実ではありません。人は神を適当な証拠と思える事柄から推論しますが、神は人格的には知られないままでいます。彼らは「神は存在するはずだ。だから神はおられると信じている」と言うのです。ある人達はもっと低い次元で、神を聞き伝えとしてしか知りません。そのような人々は、神について他から聞くものの、自分で深く考えることはせず、神への信仰を、自分達の思い込みを構築している様々なその他の事柄と一緒くたにして頭の片隅に押しやってしまいます。さらに多くの人にとっては、神はただの理想でしかなく、正義、美、真実のもう一つの呼び名、または法則や命、あるいは存在という現象の根底に流れる創造的欲求に過ぎません。
ありとあらゆる神についての概念が存在しますが、それらを抱いている人々には一つの共通点があります。神を個人的な体験を通して知っていないということです。彼らは神と親密な交わりができるなど、思いにも浮かびません。彼らは神の実在は認めるものの、神を身近な物や人を知るように知ることができる方であるとは思わないのです。
クリスチャンたちは、確かに理論上では、神とのもっと深い関係を唱えています。クリスチャンは神の位格(人間では人格に当たる)を信じることが求められ「天にいます我らの父よ」と祈るように教えられます。さて、位格や「父なる神」ということは、個人的な関係を持つことができるということです。これを理論上は受け入れていても、神は、何百万ものクリスチャンたちにとって、クリスチャンではない人たちと同じくらい、現実的な存在ではないのです。彼らは理想を愛し、ただの主義に忠実であろうとひたすら頑張って一生を過ごしています。
神を個人的な体験を通して知ることができるという聖書の教えは、これらの曖昧さの靄の中にあっても、くっきりと浮き立って見えます。愛情深い位格は聖書全体を通して表現されており、エデンの園の木々の間を歩み、一つ一つの場面を巡ってその芳しさを放っています。神の子供たちがその顕現を受け入れる姿勢を持つ限り、いつどこにいようと、生ける位格は御臨在され、語り、嘆願し、愛し、働き、御自身を現しておられるのです。
聖書は、人が人や物を経験を通して知ることができたのと同じくらい直接的に神を知り得るということを、自明な事実と見なしています。聖書では、肉体的な物事を表現するために使われている同じ用語が、神の知識を表現するために使われています。
「味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」
(新改訳4版 詩篇34篇8節)
「あなたの衣はみな没薬、芦薈、肉桂で、よいかおりを放っている。琴の音は象牙の殿から出て、あなたを喜ばせる。」
(詩篇45篇8節)
「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」
(ヨハネ10章27節)
「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」
(マタイ5章8節)
これらは、聖書に記されている数えきれないほどの例の中から拾い上げた聖句四つに過ぎません。しかし最も重要なのは、聖書のどこかの聖句からの証拠ではなく、聖句自体がこの信仰を指し示しているという事実です。
要するに、五感を通して物質的なものを知る程の確かさをもって、神を知るための心の器官が、私たちの内に備わっているということではないでしょうか。私たちは物質的な世界を感知するため、そのために与えられている機能を用います。それと同じように、私たちには霊的機能が備わっており、もし聖霊の働きかけに従ってそれらを使い始めるなら、私達は神と霊の世界を知ることができるのです。
贖いの御業は無論、心の内で行われなくてはなりません。再生されていない人の霊的機能は使われずにその人の内に眠り、あらゆる意味で死んでいます。これは罪の一撃によってもたらされた状態です。しかしその霊的機能は聖霊による再生の働きによって蘇らせることができます。これはキリストの贖罪を通して得られる、計り知れない恵みの一つです。
しかし贖われた神の子供たちは、聖書が示す神との習慣的かつ意識的な交わりについてなぜここまでも無知なのでしょうか? それは私たちに慢性的な不信仰があるからです。信仰は霊的感覚を活性化します。だから、信仰の欠陥は、内面の霊的な事柄に対する鈍感につながります。これが現在の多くのクリスチャンたちの状態です。これを裏付ける証拠は必要ありません。出会う最初のクリスチャンとの会話、またはどこでも場当たり的に戸を叩いてみる最初の教会が十分な証拠を提供しています。
霊の王国は私たちを取り巻いており、私たちを囲み、抱きかかえ、内なる自分の手に届くところにあり、私たちがそれに気づくのを待っているのです。神御自身も私たちが彼の御臨在に反応するのを待っておられます。この永遠の世界はその実在を信じ始める瞬間から生きたものとなるのです。
私は今、明確にする必要のある言葉を二つ使いました。定義するのが無理であっても、少なくとも私が何を言おうとしていたかを明確にしなくてはいけません。その言葉とは「信じる」と「実在」です。
私が「実在」というとき、何を意味しているかというと、誰がどう考えようと存在し、どこにもそれについて考える者が誰もいなかったとしても、存在するということです。実在するものというのは、それ自体で存在しているということであり、誰かが認めてくれるからあるというものではありません。
一般に広まっている「実在」論を馬鹿にしたがる人達がいることを私は知っています。彼らは、思考の外にあるものはどんなものも実在しないという果てしなく論証し続けている観念主義者です。また、宇宙には何を測るにも、基準となる不動点がないと主張する相対主義者です。彼らは、高邁(こうまい)な知識の頂から私たちを見下し、自己満足に浸りながら、私たちに「絶対主義者」というレッテルを貼りつけます。
しかし、クリスチャンはこのように軽蔑されても取り乱しません。絶対なるお方はただ一人、神であることを知っているので、笑顔で彼らに応えます。同時に、その絶対なるお方が人間のために世界を創られたことも知っています。その究極的な意味では(神にのみ当てはまる)不変で確かなものは何も存在しないのですが、私たちは人間生活のすべての営みにおいて不変で確かなものがあるかのように行動することが許されています。事実、精神疾患者以外は皆、そのように行動しています。精神病を抱える人々は実在の認識において問題がある訳ですが、彼らの場合は首尾一貫しています。というのは、彼らは自分自身の観念のもとで生きることに固執するからです。彼らは正直ですが、その正直さを社会が問題視してしまうのです。
観念主義者と相対主義者は精神疾患者ではありません。彼らは理論上拒絶している実在観念の下で生活を送り、存在しないと証明している不動点に頼ることで自らの健全さを示しています。自分が固執している観念に基づいて生きるのであれば、もっと尊敬に値するかもしれませんが、実際はそうではありません。彼らの深い思想は理屈だけで、実生活には見て取れるものは何もなく、自分達の主張している理念とは反して他とは変わらない生き方をしています。
一方クリスチャンは、空理空論の見せかけだけの言葉遊びは好みません。彼らの信じるものは実践的で、実生活に密接なつながりを持っています。現世から来世まで、生きるも死ぬも、立つも転ぶもその信仰に生きています。そして不真面目な人に背を向けます。
誠実で平凡な人はこの世界が現実であることを知っています。朝、目覚める瞬間からこの世界を認識し、世界は自分の考えが造り上げたものではないことを知っています。世界は生まれた時から存在し、世を去る時が来てもそこにあって、最期に見送ってくれることを知っています。人生についての深い知恵によって、彼は疑う千人もの人々より賢いのです。地の上に立ち、雨風を顔に受け、それが実在することを知っています。真昼の太陽や夜空の星、暗い雷雲から稲光が閃き渡るのを見ます。自然の音や人間の歓喜と呻き声を聞きます。そしてこれらすべてが実在することを知っています。夜、冷たい大地に横たわる時、それらが眠っている間に幻想と化し、消えてしまうかもしれないなどと恐れません。朝には、夜に目を閉じて眠りについた時と変わらず、堅固な大地が足下に、青空が頭上に、岩や木々が周りに必ずあることを確信しています。そうやって現実の世界を楽しみ生きています。
人は五感をもって現実の世界と関わっています。神は人を創造され、この世界に置かれ、人の肉体的存在に必要なものすべては、神によって与えられた能力で捉えているのです。
さて、神御自身にもこの実在論があてはまります。神は他のものを超えて、絶対的かつ究極的な意味で実在し、他の全ての実在は神の実在によりかかっています。神は偉大な実在で、それに依存する次元の低い実在、すなわち私たちを含む被造物全てのものの創造者です。神は、私たちが彼について抱くいかなる観念から離れ、独立している実在者です。礼拝者の心が、その対象を創り上げるのではありません。再生の朝が訪れ良心が眠りから覚めるとき、その方がもとからおられたことに気づくのです。
次に意味を明らかにしなくてはならない言葉は「信じる」(英語の原文では「reckon」が使われています。「よく考慮して~とみなす」という意味にも使われます)です。これは思い浮かべたり想像したりすることではありません。想像は信仰ではありません。この二つは互いに異なるだけではなく、全く反対の立場にあります。想像は、ありえない思いを思考から映し出し、それに現実味を与えようとします。信仰は何も創り上げません。既にあるものを認めるだけです。
神と霊の世界は実在します。私たちは自分達を取り巻く世界をあてにしていると同じ確かさで神と霊の世界をあてにすることができます。霊のものはそこにあり(もしくはここにいてと言うべきでしょう)私たちの関心を惹き、信頼するよう促しているのです。
私たちの問題は、悪い思考パターンを築き上げてしまっていることです。見える世界だけが現実的だと思うのが習慣となってしまって、他の世界の現実性は疑います。霊の世界の実在は否定しないものの、その言葉が意味しているほどの現実性については疑っているのです。
感覚の世界は昼も夜も一生涯、私たちの意識を邪魔し続けます。それは騒がしく、しつこく、見せつけてきます。それは信仰に訴えるものではありません。それは現実生活において、五感を襲撃し、動かぬ存在であると私達が認めるようつきまといます。しかし、もう一つの現実である、私達の周りで輝いている神の御国は、罪が私たちの心の目を曇らせてしまっているので、見えないのです。感覚の世界が勝利しています。見えるものは見えないものの敵となり、一時的なものが永遠のものに対抗しています。それがアダムの全ての子孫が悲劇的にも受け継いだ呪いなのです。
クリスチャン生活の根底にあるのは、見えないものへの信仰です。クリスチャンの信仰の対象は見えない現実です。
私たちの野放しの思考は、生まれながらの心の目の盲目と、どこを向いても目に飛び込んでくる物質の世界に影響されてしまい、霊を実在と対立させる傾向があります。しかし実際は、そんな対立などありません。対立しているのはこの二つではなく、実在と想像、霊的と物質的、一時的なものと永遠です。霊と実在は対立などしていません。霊の世界は実在です。
聖書にある真理の言葉を通して私たちを招いている光と力の内に飛び立ちたければ、霊を無視する悪い習慣を断ち切らなければなりません。見えるものから見えないものに私達の関心を向けなければなりません。なぜなら、大いなる見えない実在とは、神だからです。「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」これが信仰生活の基本です。そこから無限の高みに昇ることができるのです。「神を信じ、またわたしを信じなさい」と主イエス・キリストは言われました。初めのステップを踏まなければ次に行くことはできません。
私たちが真に神に従いたければ、この世的ではなく、あの世的(著者はotherworldlyという言葉を使っていて、霊の世界に献身している状態を指しています)になる必要があります。私は世の子らがクリスチャンを軽蔑してこの言葉を使っていることを百も承知しています。卑下されて結構。それぞれ自分の世界を選ぶべきです。しかし、キリストの追従者である私たちが、私達の前に置かれているすべての事実と向き合い、キリスト教の本質を理解しても尚、自から神の御国に傾注することを選ぶならば、誰にも反対される筋合いはありません。それで、何かを失うことになったとしても、それは私達の損失であり、もし私達が何かを得るとしても、それは誰かから何かを奪うものでもありません。この世の侮辱の対象となり、酔いどれがあざけって歌う「あの世」が、私達の注意深く選んだ目標であり、私達の最も聖なる望みの対象なのです。
私たちは霊の世界を未来に押しやるという、よくある間違いを避けなければなりません。霊の世界は未来のものではなく、今ここにあるものなのです。それは私達が馴染んでいる物質の世界と並行していて、その二つの世界を繋ぐ扉は開かれています。「…あなたがたが近づいているのは…」とパウロはへブル人に書き(明らかに現在進行形です)こう続けます。「…シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」(へブル12章22-24節)霊の世界は「手で触れることができる山」、聞くことができる「ラッパの響きと言葉を語る声」と対比されています。よって、シナイ山の実在が体の感覚で捉えられたように、シオンの山の実在は、魂によって捉えることができると断定しても過言ではありません。これは錯覚かもしれないあやふやな事柄ではなく、疑いのない事実です。魂には見る目があり、聞く耳があります。長期間にわたる不使用のため衰弱していても、命を授けるキリストの御手によって生き返り、この上ない明瞭な視力と最も感度の高い聴覚を持つに至ります。
神に焦点を当て始めると霊のものが内なる目によって認識されるようになります。キリストの言葉に対する従順は、神御自身の啓示をもたらし、(ヨハネ14章21-23節)心清い者に約束されてあるように、神を見る鋭い知覚が与えられます。新しい神に対する意識が私たちを捉え、私たちの命であり全てである神を味わい、聞き、心で感じられるようになります。世の全ての人を照らすまことの光が常に見えるようになります。私たちの感覚がますます鋭く確実なものになるにつれ、神は私たちにとって偉大なる全てとなり、彼の御臨在はもっともっと私たちの人生の栄光と驚きとなるでしょう。
神よ、私が永遠のものを手にするため、私の内に眠るすべての感覚を呼び覚ましてください。私の目を開き、見えるようにしてください。鋭い霊の知覚をお与えください。あなたが善良な方であることを味わい知ることができますように。この世のどんなもの以上に天国を現実のものにしてください。アァメン。
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