ペテロの手紙シリーズ#12 

種まきのたとえ

https://ichthys.com/Pet12.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著 

第一ペテロ1:1-2の改訂訳:  

イエス・キリストの使徒であるペテロから、父なる神の予知により、聖霊の聖別を受け、イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに従順な者となるために、選ばれた人々、すなわちポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニヤの各地に散らされ追放された人たちへ。あなたがたに恵みと平和が増し加わるように!  

ペテロの冒頭の言葉は、初期の信徒たちの苦しみを認め、クリスチャンである私たちは皆、この世のはみ出し者達であり、世界のあらゆる地域に散らされた者達であることを断言していました。しかし、私たちはまさに「見知らぬ国の見知らぬ人」であり、この世との敵対が必然的に引き起こす不快感から決して解放されることはありませんが、私たちは主イエス・キリストへの信仰に基づいて神によって特別に選ばれた神の選民であることを忘れてはなりません。すべてのクリスチャンが共有するこの「選民」という特別な地位は、目的なしに与えられたものではなく、神が私たちのためにこの時代に与えられた使命を果たすという大きな責任を伴うものです。クリスチャンとしての私たち一人ひとりの「使命」(すなわち、「私たちが派遣された目的」)は、常に何らかの形で、同胞であるクリスチャンの霊的な幸福と進歩に貢献することを伴います。 

他者を効果的に助けるためには、私たち自身が霊的に成長する必要があり、これまでの学びでは、クリスチャン生活の本質的な目的は霊的に成長することであり、他の人も同じように成長するのを助けることであるという点を強調してきました。 

私たちがクリスチャンになったとき、突然、この地上で問題のない生活に恵まれるわけではありません。それどころか、私たちは今、クリスチャンの生活において、苦しみというものを当たり前のものとして受け入れなければなりません。神を信頼することによって苦しみに対処することを学ぶことは、私たちの信仰を育てます。それゆえ、ペテロは読者が直面している困難と苦しみを認めた上で、2節後半で「恵みと平和があなたがたに増し加わるように」と、霊的成長の課題に力強く取り組むよう読者に力強く挑んでいるのです! 

この訴え(ギリシャ語では、ペテロ側の強調された願いを示すために、希求法<optative moodけぐほう:古典ギリシャ語で願望を表す>になっています)は、単なるお決まりの挨拶以上のものです。「私の願いは、あなたがたのために恵みと平和が増し加わることです!」とペテロが語るとき、彼は私たちに霊的成長を促しているのです。なぜなら、霊的成長こそが恵みと平和を増大させる手段だからです。恵みと平和は表裏一体です。どちらも、私たちが霊的に成長するときに受ける祝福の増大と関係しています。恵みは祝福を与える者としての神の役割を強調し、平和は私たちが神から受ける実際の祝福を強調します。恵みは「神が与える」ものであり、平和は「私たちが受け取る」ものです。ペテロは、「私は神にもっと与えてほしいし、あなたにも神からもっと得てほしい」と言っているのです。 

しかし、神の恵みを物質的にとらえる間違いを犯さないように注意しなければなりません。愛に満ちた父である神は、私たちが最善と思っているものではなく、私たちにとって本当に最善であることを望んでおられるのです。神は、私たちがこの世の状況に左右されることなく、神と御子への愛にしっかりと基づいた幸福と確信に満たされることを望んでおられます。これが、苦しみが私たちの人生に対する神の計画の重要な部分である理由の一つです。苦しみは私たちに神への依存を強め、無制限の繁栄がしばしばもたらす物質的なものへの隷属的な依存から私たちを解放します。 

ここでペテロが使っている「恵み」という言葉は、ギリシャ語のカリスcharis(ヘブル語のチェンchen)で、「好意」や「善意」を意味します。新約聖書では、「恵み」は特別な、専門的な意味で使われることがほとんどです。私たちが「恵み」という言葉を読むとき、新約聖書の著者たちは、神の子である私たちに向けられた神の「善意」または「恩恵」という態度を意味していると理解すべきです。私たちが「恵み」と呼ばれる好意的な態度(とそれに伴うすべての祝福)を受けるのは、私たちが何かをしたからではなく、信者として、神が私たちを、神の「心にかなう」御子イエス・キリストと一体であると見ておられるからです。(マタイ3章17節17章5節) 

キリスト信者である私たちは、神の御子イエス・キリストとの関係によって、神の好意を分かち合っているのです。キリストを信じる前は、神の完全な義の御性格により人は裁きの下にありました(ローマ1章18-23節)が、私たちの罪がイエス・キリストの血によって覆われて救われた後、私たちは御子の御業によって神の目に「義とされた」のです(ローマ5章1節)。今、私たちに対する神の態度は、もはや罪に対する非難ではなく、好意と祝福、すなわち恵みです。「恵み」とは、神が私たちを祝福したいと望んでおられ(参照:イザヤ30章18節「神は、高き所で待っておられて、あなたがたに祝福を施される[ヘブル語でchanan慈悲を垂れる]」)、イエス・キリストがすでに私たちの罪をすべて贖ってくださったので、神には正当にそれを行う<祝福を与える>完全な自由があるということです。 

神の恵みを受ける者として、私たちは神の平和を経験します。平和とは、ギリシャ語のエイレネeirene(イレーネの名前の由来)で、争いや気遣いからの解放を意味します。しかし、新約聖書の著者たちは、ヘブル語の同義語であるシャロームと切り離して、この平和という考えを考えたことはありませんでした。シャロームとは、単にトラブルがないという意味だけではありません。シャロームShalomは、今日のイスラエルで親しみを込めた挨拶として使われていますが、完全であること、何も欠けていないことを意味します。 

信者である私たちは、本当に何一つ欠けていません。私たちは神の子であり、神のすべての約束の相続人であり、永遠の家が保証され、神と御子の御前で永遠に生きることが保証されています。私たちは救われた時に、これから起こる不思議な人生の証印と誓約として、またこの世でも私たちを助けてくださる者として、聖霊さえ与えられています。 

ペテロがこの平和(とそれを与えてくれる恵み)が増し加わるようにと願うのは、私たちがすでに持っているものを感謝し、その中に大きな慰めを受け、神の栄光のためにそれを精力的に活用することを本当に求めているのです。ペテロの願いは、私たちが成長することです。ペテロの願いは、私たちの信仰(成長における課題)が確固たるものとなり、拡大することです。霊的成長とは本質的に、個人の信仰の成長だからです。もちろん、信仰はその結果(愛、ミニストリーなど)をもたらしますが、すべての真のクリスチャンの善行は信仰に基づいています。私たちは主イエス・キリストを信じることによって救われ、主の教えを信じ、それを実践することによって成長するのです。 

霊的成長についての概説: 種まきのたとえ 

種まきのたとえは、共観福音書の三つ全て(マタイ13章1-9節マルコ4章1-9節ルカ8章4-8節 )に記されていて、イエスによるたとえの解き明かしがマタイ13章18-23節マルコ4章13-20節ルカ8章11-15節でなされています。主に救いについて扱っていますが、霊的成長の仕組みを説明するのに助けになるもので、私たちにとって重要な箇所です。キリストに対する様々な態度があり得ますが、救いに至るのは信仰というただ一つの選択肢しかないように、キリストの教えに対する様々な態度を持つことが出来たとしても、霊的成長に至るのは信仰だけです。このたとえでは、一人の種蒔きが四つの異なる種類の土地に種を蒔きに行きます:固い土地(道端)、岩の多い土地、いばらの多い土地、そして良い土地です。路傍の固い地に落ちた種はすぐに鳥に奪われ、岩の多い地に落ちた種はすぐに芽を出しますが、根が深くないため枯れてしまい、いばらの多い地に落ちた種は周りに生えた雑草によって塞がれてしまいます。 

イエスは、堅い地とはサタンが福音を拒むように仕向けられた人、岩の多い地とは苦難の時に福音を捨てる人、いばらの多い地とは人生の心配事や悩み事によって福音から遠ざかる人、良い地とはこの世で実際に神のために実を結ぶ人だと説明しています。 

このたとえは、福音に対する反応の四つの基本的なタイプを説明しています。蒔かれる「種」は神の御言葉であり、イエスをキリストとして宣言し、救いはキリストを信じる信仰によってのみもたらされることを伝える福音のメッセージです。それぞれの場合の「植物」は、その人の信仰です。「地」は、さまざまな種類の人々の心を表しています。重要なのは、私たちがどのタイプの地になるかを決めるということです。硬い地か、岩のような地か、いばらのような地か、良い地であるかは、私たちの責任なのです。 

固い地(信仰の死産): 「固い地」の人は福音のメッセージを聞いても、キリストを信じることを選びません。芽が出る前に種を奪い取って食べてしまう「鳥」を、その人の心から御言葉をさらっていくサタンとしてイエスは説明しています。道端の地面が固く固められ、種が根付くことができないように、多くの人の心は、キリストを信じる信仰による救いのメッセージに対して固くなっています。彼らの心は、福音の真理に対して冷淡で、それを受け取ることができないのです。ルカのたとえ話(ルカ8章5節)には、この種が通行人に「踏みつぶされる」ことが詳しく書かれており、この問題を説明するのに役立っています。 

同じように、福音をすぐに心の中に迎え入れない人々は、福音の真理が周りの人々から軽んじられたりしているうちに、キリストを拒絶するようになります。イエスはこのプロセスを、福音を聞いて「心に」蒔かれたものをサタンが「奪い取る」と説明しています。サタンは「彼らが信じて救われないように」するのです(ルカ8章12節)。マタイの記述(マタイ13章19節)はその過程を説明しています:そのような人々は皆、「みことばを聞いた」のですが、「悟る」ことをしないのです。神の真理を「悟る」こと、あるいは理解することは、これまで見てきたように、信仰によってのみもたらされるものです。心が「固い」人々にとって、信じようとしないことは、彼らが見過ごしてしまった「こんなに素晴らしい救い」(ヘブル2章3節)を理解することができないことを意味し、それは彼らにとってただの「愚かなこと」(第一コリント1章18節~)にしか思えないのです。サタンはどのようにしてこの目論見を成し遂げるのでしょうか?サタンはこれらの人々に影響を与えることはしますが、イエス・キリストを受け入れる(あるいは拒む)最終的な責任は、一人一人にあることを指摘しなければなりません。 

このたとえ話の三つの記述では、それぞれサタンの名前が異なっており、不信仰な人を欺き、福音を無視するように仕向けるサタンの手口を知る手がかりとなります。マタイはサタンを「悪者」と呼び、真理を嘘で取り替えるという悪の手口の典型を示しています。マルコは彼のことを「サタン」と呼んでいますが、これはヘブル語で「敵対者」を意味する名前で、サタンは真理がどこにあってもそれに反対します。ルカは彼を「悪魔」と呼んでいますが、これはギリシャ語で「中傷する者」という意味です。未信者がキリストについての貴重なメッセージを心に抱き、それを吟味し、考えているとき、敵対者である悪魔は、そのような人が福音を拒否するように影響を与えようと、自分の力の限りを尽くします。もちろん、悪魔はその姿を現すことによってではなく、その人が生涯を通して受け入れてきたすべての嘘、恐れ、欺きを用いてそうします。この世は(一時的には)悪魔の世界であり(ヨハネ14章30節)、悪魔は自分の大義に有利な宣伝でこの世を埋め尽くしています。誰かがクリスチャンになろうと考えている時、「悪い者」である悪魔は、嘘で(例えば、キリストへの信仰による救いという真の原則に対して、業(わざ)による救いという偽りの原則をもって)混乱させようとすることは確実です; 「敵対者」として、恐怖と脅しを使って(例えば、「クリスチャン」であることが、肉体的なものであれ、社会的なものであれ、その代償や危険を思い起こさせること)、クリスチャンになろうとする人を引き戻そうとすることでしょう; また「中傷者」として、キリストについての単純なメッセージの信憑性を不信者に疑わせようとすること(例えば、福音を伝える人の動機に疑問を投げかけるなど)。マルコの記述によれば、サタンは「素早く」行動し、真理の種が根付き、本物の信仰を生み出す機会を得る前に、その種を奪い取ってしまうのです。種は良いものでしたが、信仰は固い心の中で死産となったのです。 

岩だらけの地(破壊された信仰): 「岩だらけの地」の人は福音のメッセージを聞き、実際にキリストを信じますが、その「信仰」は一過性のものに過ぎません。その結果、罪からの解放のメッセージとキリストを信じる信仰による永遠の命の約束を「喜びをもって」受け、彼の信仰の「植物」はすぐに芽吹きますが、この一時的な信仰は、灼熱の太陽によってすぐに焦がされ、枯れてしまいます。イエスは、このたとえの中の太陽を、すべての信仰者に必然的に降りかかる迫害とトラブルだと説明しています。「石地」の人は、弟子となるための「代価を計算」していないので(ルカ14章28節~)、その信仰が深刻な反対に会うと枯れてしまうのです。  

「<道端の>固い地」の人の場合、信仰は根付くことさえできませんでした。一方、「石地」の人は、根は出てきているのですが、その「根」(あるいは新しい信仰への献身の度合い)は十分に深くありません。「土の深さ」がないからです。信仰は彼の心に根を下ろしますが、それが成長する前に、石という不可解な障壁にぶつかってしまうのです。神に「ここまでは行くが、これ以上は行かない」と言うことはできません。イエス・キリストに部分的な献身を捧げることはできません。信仰者が救われた後に悪魔の世界に残されるのは、その信仰が本物であることを証明するために試されるという明確な理由があるからです。部分的な献身も、神と距離を置くような信仰も、その太陽の灼熱を生き延びることはできません。  

イエスは(マタイとマルコで)、そのような人たちは試練の時に「腹を立てる」<口語訳で「つまずいてしまう」が欽定訳でoffended-気を害する>と説明しています。この動詞はギリシャ語のskandalonスカンダロン(英語のスキャンダルの語源)に基づいており、七十人訳では二つのヘブル語の言葉の訳に使われています。ひとつは「つまずきの石」、もうひとつは「罠」という意味です。  

この言葉の両方の側面は、迫害、問題、試練によって信仰の歩みが「つまずき」、元の生活に戻らせようとする悪魔の試みによって「囮(おとり)と罠にかかった」ことに気づくことになる中途半端な改宗者を表現するのにふさわしいものです。  

ルカによるイエスの言葉はさらに具体的です:「彼らはしばらくは信じているが、試練の時になると(信仰から)離れてしまう」。このような人たちは、一時的には信じていたのですが、試練の重圧にさらされると、信仰を捨てるのに都合がよいことに気づいたのです。

種は良かったのですが、信仰は彼らの石だらけの心に永くは根付けなかったのです。  

いばらの地(信仰が育っていない): 「いばらの地」の人はキリストに信仰を置きますが、その心にはいばらも生えてきます。これらの「いばら」はこの世の気を逸らさせるものであり、「信仰を植える」者と忠誠を競い、やがて勝利して信仰を窒息させてしまいます。そのような人は「み言葉を聞く」のですが、心に蒔かれた神のことばは、イエス・キリストよりも重要であることを証明する他のさまざまな事柄によって絞め殺され、打ち負かされてしまうのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか? 

私たちをキリストから遠ざける二つの主要な気をそらさせるもののカテゴリーは、イエスがここで言っておられる過程を理解するのに役立ちます。その二つのカテゴリーとは、(1)恐れと(2)欲望です。悪魔の世界はすべての人にとって問題だらけで、特にイエス・キリストを信じる者は皆、サタンの敵対する対象になっています。普通の人間である私たちは、毎日悩みや欲望にさらされていますが、信仰を圧迫するこの二つの主要な原因を、正しい(つまり天の)視点から見ることが不可欠です。仕事、家族、健康、生活について心配することがなければ、私たちは人間ではありませんが、神の視点から見れば、心配する理由などないのです。 

確かに、これは私たち人間にとって受け入れがたい概念です。しかし、イエスが私たちに、何を食べ、何を飲み、何を着るかについて「心配しないように」と言われるのは、「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(マタイ6章32節)からで、神は天の視点を見せてくれているのです。 

神は私たちの問題をすべて知っておられ、今ここにおられ、すべての困難が私たちの最終的な益となるように計らっておられるのです(ローマ8章28節)。心配や恐れは、私たちの人生で直面し続けるものですが、決してそれらに支配されてはなりません。神は私たちが恐れるどんなものよりも強大であり、私たちを助けてくださることを忘れてはなりません。さらに、この世の問題は永遠に続くものではありません。マタイとマルコの記述は、そのような悩みは「この世の悩み」に過ぎないと強調しています。クリスチャンである私たちは、二度と恐れや心配を経験することのない未来に希望を置くべきなのです(イザヤ25章8節黙示録21章4節)。 

  心にいばらが生えている人は、神を十分に信頼していません。自分に問題が降りかかると、神がそれを乗り越えさせてくださるとは信じられず、信仰が萎縮してしまうのです。 

そのような人は、自分の欲望に立ち向かうときにも同じような問題を抱えます。心配事や恐れとともに、欲望や願望も私たちの人生には常につきまといます。アダムとエバがエデンの園から追放されて以来、すべての人間は「肉に宿った罪」(ローマ7章17節)と、それが生み出す破壊的な欲望に対処しなければなりませんでした。この譬えの三つの説明のすべてに示されている代表的な欲望は、富に対する欲望です。問題はお金(この世で生きていくために必要なもの)ではなく、「金銭を愛すること」(第一テモテ6章10節)です。茨の心は、富への欲望が神への献身に取って代わることを許します。イエスがこのたとえで言われているように、富は「惑わす」ものです。富は私たちをだまし、神への信頼を捨てさせ、神をお金という新しい主人に置き換えます(マタイ6章24節)。 

富がすべての問題を解決してくれると考えるのは幻想であり、宇宙の創造主であり維持者である神への信頼を、この世の一過性で欺瞞に満ちた富への偽りの信頼と交換することは、実にまずい取引です。イエスは、「虫が喰い、盗人らが押し入って盗み出す」(マタイ6章19節~)地上に富を蓄えることのむなしさを警告されました。「あなたの宝のある所には、心もある」のです。その代償として永遠の命を失うのであれば、全世界の富を得ることにどんな利点があるのか、とイエスは私たちに問いかけます(マタイ16章26節)。茨の地の人はこれらの警告を無視し、恐れと欲望に心を支配され、信仰の成長を妨げます。その結果、「実を結ばず」、神が私たちのクリスチャン生活に意図されている目的とは正反対になってしまうのです(ヨハネ15章16節)。 

この学びの中で繰り返し強調してきたように、私たちがこの地上にいるのは成長するためであり、他の人が成長するのを助けるためなのです。これが、神が私たちに結ばせようとしておられる「実」なのです。最も単純な形で言えば、この「実」とは、私たちの信仰が増し加わることであり、私たちが他の人々に提供する助けを通して、他の人々の信仰が増し加わることなのです。「信仰を持っている」と宣言するのは簡単ですが、ヤコブが指摘するように、「行いのない信仰」(つまり、信仰の具体的な表現がない信仰)は「死んでいる」のです(ヤコブ2章17節)。多くの人はヤコブ2章の「行い」を誤解しています。ヤコブが言っているのは、特定の「善い行い」(例えば、献金や宣教師になること)ではありません。そうではなく、ヤコブが念頭に置いているのは、特に従順であることが非常に難しい時、確固として実行に移す信仰が必要な時の神への従順なのです。ヤコブが念頭に置いているのは、私たちの人生において、何か困難な信仰の一歩を踏み出さなければならなくても、一旦踏み出したら、振り返って「神を信じなければ、こんなことは決してできなかった」と自信を持って言えるような時です。 

ヤコブは、まさにそのような実例を選んで、自分の言いたかったことを説明しています: 一人息子のイサクを犠牲にするよう神がアブラハムに命じたことです。「後知恵」から、私たちはすべてがうまくいったことを知っています。神はアブラハムが息子を殺す前に止め、代わりに雄羊を犠牲のために供給します。それは、キリストが私たちの身代わりとして十字架にかかり、私たちの罪のために裁かれることを明らかに示しています。しかし、アブラハムは何が起こるか知りませんでした。アブラハムには、生涯の望みを確実に消し去るような、恐ろしい、考えられないことをするように命じられたことがわかっていましたが、考慮すべきことがもう一つだけありました:それは彼が知り、愛した神のご性質でした。 

私たちの信仰が成長するためには、アブラハムのようにしなければなりません。私たちの霊的成長の糧となる困難な、時には不可能と思われる状況に、信仰をもって立ち向かわなければならないのです。神のご性質についての知識と、神のいつくしみと、私たちを思い遣る神への信仰だけを持って、私たちも神に信頼することによって、恐れること(そして私たち自身の願望)に打ち勝っていかなければなりません。そうすれば、アブラハムと同じように、私たちもそのような試練を振り返り、自分の信仰が本物であることを確信することができるのです。一方、いばらの地の人は、そのような経験を思い出すことがありません。試練やテストの時に神に「寄りかかった」ことがないので、示すべき「わざ」(結果)がないのです。この世の思い煩いや心配事が彼を神から目をそらさせるので、試練や誘惑にさらされたとき、彼は別のところに解決策を探すのです。イエスについてのメッセージを「喜んで」受け入れても、(ルカの記述にあるように)「その実を結ばせる」ことはないのです。 

このような人が本当にクリスチャンなのかと問うのは当然でしょう。キリストを信じる真の信仰こそ信仰者の証しであり、信仰が滅び、不信仰に取って代わられることはあり得るということを私たちは知っています(ローマ11章20-21節)。(もし発育が悪くかろうじて存在しているようであるなら)「いばらの地」のカテゴリーに真のクリスチャンも含まれているかもしれないという、危険性を考慮に入れた方がよいでしょう。この時代の終わりに訪れる恐ろしい迫害(すなわち「艱難」)の間、物事の圧力によって、そのような中途半端なクリスチャンの多くが離脱してしまうと予測されているからです(マタイ24章10-12節第二テサロニケ2章3節第二ペテロ2章1-22節)。生きている信仰だけが、この世の苦難や個人的な苦難を乗り越えさせることができるのです。最終的に私たちは、神を信じるか、それとも自分の恐れや欲望に耳を傾けるかを選択しなければなりません。恐れと抑制のない欲望のとげが生い茂るところでは、神への真の信頼は栄えません。種は良いものでしたが、最初は喜んで受けた信仰も、すぐにいばらのある心の中で絞め殺されてしまいました。 

良い地(信仰の成長): 「良い地」とは、私たちクリスチャンが目指すべき理想です。「良い地」の人はイエス・キリストを信じ、その後も信仰者として成長し続けます。その人の心には、神の教えを受け入れようとしない固まった地面、神の言葉が定着するのを妨げる石地の層、そして芽生えたばかりの信仰から命を奪う恐れと欲望の<いばらの>とげがありません。ルカの記述(ルカ8章15節)でイエスが語っているように、「良い地」の人の心は「ふさわしく/適した< kalosカロスκαλός>、良い<agathosアガソスἀγαθός>」ものです。 

ここでのギリシャ語はどちらも「良い」と訳せますが、その区別は重要です。前者のカロスは、ここでは使用に適したもの(船を受け入れるのに「適した」港のように)という意味です。「良い地」の人の心は、イエスについての神のメッセージの種を喜んで受け取ることができるので、「ふさわしい」のです。一方、二番目のギリシャ語アガソスは、正しい結果をもたらすようなもの(よく戦う「良い」兵士のように)を意味します。このように、良い心は、(神の御言葉の種から新しく芽吹いた)「信仰の植物」が成長し続け、実を結ぶための肥沃な環境も提供します。実の量は様々ですが(マルコ4章8節)、実を結ぶのは「良い地」だけであり、真に良い地はすべて実を結ぶことに注意してください。 

イエス・キリストについての良い知らせを聞いたとき、私たちは喜びをもってそれを受け入れ、信仰が心に芽生えました。私たちの内にある「信仰という植物」を大切に育て、神がそれを剪定されるときにもくじけないようにしましょう(ヨハネ15章2節)。私たちの信仰を守り、真のぶどうの木であるイエス・キリストの一部であり続け、時が来れば、イエス・キリストが私たちに結ばせようとしておられる実を結ぶことができるように気をつけましょう(ヨハネ15章5節)。 

「信仰は聞くことから生まれる」(ローマ10章17節)のですが、聞いた人すべてが信じたわけではなく(堅い地はそうではありませんでした)、信じた人すべてが信仰を保ったわけではなく(石地の地はそうではありませんでした)、ある程度の信仰を保った人すべてが主のために実を結んだわけではありません(いばらの多い地はそうではありませんでした)。つまり、問題は、み言葉を聞いたかどうかではなく、一度聞いたみことばをどうするかということなのです。なぜなら、福音のメッセージを受け入れるか拒否するかという、このたとえ話で表現されたパターンは、私たちクリスチャンが神の言葉を聞くたびに繰り返されるからです。聞くだけでは十分ではありません。もし私たちが神の御言葉の教えを真っ向から拒んだり(固い地のパターン)、しばらくしたのち放棄したり(石地の地のパターン)、あるいはこの世的な心配事のために二の次にしたり(いばらの地のパターン)するなら、私たちの霊的成長を危険にさらし、私たちの信仰を危険にさらすことになります。 

このたとえ話に登場させている三つの福音書はすべて、信じること、つまり神の御言葉に信頼を置くことの問題を扱っています。私たちの主のたとえの三つの説明すべてにおいて、良い心は御言葉を聞く以上のことをします。マルコの説明では、そのような人はみことばを聞くと同時に、それを「受け入れる」(ギリシャ語のパラデコマイparadechomai)のです<マルコ4章20節>。マタイの記述によれば、彼はそれを聞くと同時に「知覚する」(ギリシャ語でスニエミsuniemi)<マタイ13章23節>とあります。ルカの記述によれば、彼はそれを聞き、また「保つ」(ギリシャ語でカテチョーkatecho )<ルカ8章15節>のです。良い心というのは、神の御言葉を受け入れ、信仰によって理解し、保持することにおいて良いのです。良い心は、成長を続け、主のために実を結ぼうとするからです。霊的に成長する意欲があり、他の人々が同じように成長するのを助けるのです。 

恵みと平和: ペテロが2節で私たちに願っていることは、「恵みと平和が私たちに増し加わるように」、言い換えれば、私たちが積極的に霊的成長の課題に取り組み、神の豊かな恵みの資源を活用し、その結果もたらされる素晴らしい霊的平和を享受することです。もし私たちが神の御言葉を拒絶するために自分を頑なにしたり(固い地)、御言葉が私たちの心に深く浸透するのを許さず、逆境に立ち向かうための根を張らなかったり(石地)、日常生活の問題や悩みの中で御言葉がないがしろにされ失われたり(いばらの多い地)するなら、このようなこと<恵みと平和に与り、その結果として霊的平和を享受すること>は決してできません。そうではなく、イエスを信じることによって救われたように、イエスの教えを求め、それを受け入れ、理解し、信仰のうちにそれを保つ意志がなければ、霊的に成長することはできないのです。 

[ペテロの手紙シリーズ#13に続く]